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★タイトル (PRN ) 96/11/29 23: 7 (200)
始発電車殺人事件 連載第4回 ジョッシュ
★内容
「始発電車殺人事件」 連載第4回 叙 朱 (ジョッシュ)
12 新宿 (つづき)
Cホテルで、エリコとのひとときを過ごした後、タクシーに乗り込むとすぐに山下
は目を閉じ、いつものように、エリコの体臭の余韻を楽しんだ。タクシーは、首都高
速に乗り、渋谷へ向かっていた。
その内にふと、山下は、バーでのエリコの話に対する疑問を反芻した。
日本国籍を持たないエリコが、どうして正社員に採用されたのか。K商会の東京本
社に外国籍の正社員は、ひとりもいなかった。いや、採用規定で、外国籍では正社員
にはなれないと明記されていた。彼女は、異例中の異例だったのか。
エリコの両親は今何処に住んでいるのか。彼女は、池袋には一人暮らししていると
話したことがあった。今でも、フィリピンにいるのか。
エリコは、何故か、自分の家族を話題にしたがらなかった。
13 長津田
所轄の神奈川県警N警察署に着くと、山下と栗原は別々の部屋に案内された。
山下は、勧められて折り畳み式の椅子に腰を下ろした。お茶盆を持って、先ほどの
白髪頭の嶋田捜査係長が、若い刑事巡査を連れて部屋に入ってきた。
「えーと、権利について読み上げ必要ですか?」
嶋田は、自分でいれたお茶を山下に勧めながら、聞いた。黙秘権のことを言ってい
るのだと、山下はぼんやりと思った。殺人の被疑者になっているという実感はなかっ
た。
そうして、神奈川県警の始発電車殺人事件の事情聴取は始まった。
山下は、今朝起きてから電車に乗り、オーバーコートの男が床に転げ落ちるところ
までをきっちりと二回、復唱させられた。嶋田は事件に関して、山下が知っている以
上の情報は全く口に出さなかった。山下が二回復唱した後、嶋田は白髪頭をかき上げ
ながらしばらく黙り込んだ。
「あ、それからもうひとつ、今日は会社は本来休みじゃなかったんですか?」
思い出したように、嶋田が聞いた。
「ええ、本当は休みだったんですが、今日は、緊急の社内会議が朝一番にあるんです
よ。ボクが企画した案件なんですよ。出ないとまずいんですけれど。これが終わった
ら、会社へ行ってもよろしいでしょうかね?」
山下はできるだけ切実な口調で頼み込んだ。嶋田は、気の毒そうな顔をした。
「人が一人、亡くなっているんですから、なんとかご協力をお願いいたします。会社
の方には、私から連絡いたしますから、番号を教えていただけませんか。」
山下は仕方がなく、江尻本部長の携帯電話の番号を教えた。緊急事態でなければか
けるなと、強く念を押されていた。しかし、会社の代表電話は、休日には録音テープ
に切り替わっている。これしか、連絡の取りようはなかった。
山下の携帯電話は、書類鞄とともにどこかへ行ってしまっていた。警察から電話を
受ける江尻部長の反応は全く予想できないが、嶋田が山下のことをまさか犯人呼ばわ
りはしないだろうと思われた。江尻も警察からの連絡では信用するだろうし、それに
連絡もせず会議を欠席するよりも、心証は良かろうと山下は自分を慰めた。腕時計は
午前八時になろうとしていた。会議は、八時三十分からの予定だった。
事情聴取が一段落すると、山下だけを部屋に残して、嶋田はいったん姿を消した。
若い制服巡査がひとりだけ部屋に残った。若い巡査は、新しいお茶を山下に勧めた。
口に含んだ茶は生ぬるかったが、山下は人心地をついた。警察はまだ、山下を解放し
てくれそうにもなかった。山下は諦めて、目を閉じた。
14 東京
エリコに対しては、幸代との「離婚の可能性はない」とさらりと言いきった山下だ
ったが、その言葉とは裏腹に、以来、その可能性について、頭を巡らすことが多くな
った。香港への転勤が現実味を帯びてくるほどに、そして、幸代との夫婦仲が疎遠に
なるに連れ、幸代との夫婦関係をどうするか、山下はあれこれ考えた。幸代と別れれ
ば、エリコといっしょに香港で暮らせる。そんな想像は、山下の心を躍らせるものだ
った。
ただ、山下には幸代に対して決定的な負い目があった。幸代というよりも、幸代の
実家と言った方がよかった。義父はいまだに否定していたが、山下は、結婚前に一度
窮地を救われたことがあった。
それほど有名な大学を卒業したわけではない山下は、入社した当初の国内勤務時代
に何とか上司に認めてもらおうと、相当に無理をした。売り上げを伸ばすことが一番
の必須条件だった。先輩社員が敬遠するような相当に危ない会社へでも、引き合いが
あれば飛んでいった。山下独自の鋭い判断能力で選別し、際どい商売でも個人保証で
売りまくって成績を上げた。
ところが、山下が三十歳になって、販売主任への昇格の声がかかりかけたとき、大
きなミスをした。入社したばかりの若い新人と同行営業をしていて、迂闊にも、一千
万円ほどの回収不能売掛金、いわゆる焦げ付きを作ってしまったのだ。
それは山下が教育を任された新人にとっては、初めての顧客だった。報告をしなが
ら、新人は真っ青になって震え上がった。山下はそんな新人を笑い飛ばし、自分が何
とかするからと言い含め、口封じをして帰らせた。しかし、それは山下にとって大問
題だった。
コンピュータ機器の販売商社であるK商会にとって、焦げ付きは、営業的には、致
命的な大失敗であった。次々に出てくる新製品が、販売したばかりのコンピューター
をすぐに旧型機にしてしまい、未収金の回収のために機器を転売しようとしても、そ
の時には、二束三文にしかならなかった。未収金の回収はその時点で、ほぼ無理と判
断するしかなかった。山下は、頭を抱えた。
ところが翌日、善後策に悩む山下の席に、突然、見知らぬ女からその件で会いたい
との電話があった。怪訝な気分で、とにかく、近くの喫茶店で会うことになった。女
は震え上がった新人のガールフレンドだった。濃紺のベルベットのワンピースを着て
いた。幸代と名乗った。
「あのお、一千万円は大丈夫でしょうか。」
初対面の挨拶もそこそこに、目の前のレモンスカッシュには口を付けず、丸顔の幸
代はずけっと言ってきた。山下は、幸代のお嬢さんくさい言い方に、やや、眩しい気
分になった。
「まあ、なるようになります。彼には、気にしないで会社に出てくるように言ってや
ってください。」
山下は気楽さを装って答えた。もちろん、一千万円などという金額はとても穴埋め
できそうにもなかった。ただ山下は、新人にその責を負わせるつもりは毛頭も無かっ
た。それは山下の人生哲学のようなものだった。
幸代は、一心に山下の目を見つめていた。山下は、そんな幸代のまっすぐな視線が
本当に眩しかった。しかし、その日はそれ以上には大した話もせずに、コーヒーを一
杯だけ飲み終えると、山下は支払いをして会社に戻った。山下は、進退伺いを覚悟し
ていた。
ところが次の日、出社したばかりの山下のところに、問題の取引先の社長から、興
奮した電話が飛び込んできた。取引先の口座に身元不明の一千万円がぽーんと振り込
まれていた。焦げ付きを観念した手形の決済日の二日前だった。
そして、その日を境に、幸代から頻繁に、電話がかかってくるようになったのだっ
た。
15 長津田
事情聴取が、ひとまず終わった山下は、若い警察官にトイレに案内してもらった。
すると、廊下で栗原に出会った。栗原もちょうど事情聴取が終わったところのようだ
った。
「おや、君は警察官のはずだったが、それでも疑われるのか?それとも、君は偽警察
官なのか?」
山下は憎まれ口を叩いた。栗原は、そんな山下にねぎらいの言葉をかけた。
「ご苦労様です。まあ、あなたも私も第一発見者ですからね。一応、第一番目に事情
を聞くのが手続きですから、気を悪くしないでください。」
そして、栗原は付き添ってきた若い警察官を、「私がいっしょにいるから」と、帰
らせた。山下は、それを見て驚いた。
「君は何者なんだ?」
「こんな所で立ち話もなんですから、よかったら、コーヒーでも飲みましょう。」
栗原は、山下の問いには答えようとせず、曖昧に微笑んだ。
小用を終えた山下は、栗原に休憩室のような所へ案内された。入り口の横には、飲
み物の自動販売機がある。その自販機から紙コップのコーヒーをふたつ取りだし、栗
原はひとつを山下に勧めた。休憩室は、八畳くらいの広さで、中央に長テーブルがひ
とつとビニール張りの椅子が八脚あった。誰もいなかった。二人は、長テーブルの一
番奥に座った。
「私は、本庁の者なのです。」
栗原は、座るなりそう自己紹介した。本庁とは、東京警視庁のことだった。ところ
が栗原はすぐに、にやりと笑った。
「ただ、停職中なのですよ。ちょっと問題を起こしましたものですから。先ほど、電
車の中では警察手帳を出そうとしたんですけれど、よく考えたら手帳は本庁に預けて
あって、ポケットにはなかったんですね。まあ、失礼しました。」
「何をやらかしたんだい。」
山下は、ふと興味をそそられて聞いた。
「いやあ、恥ずかしいのですが、本庁の職員の歓送迎会がありましてね、ちょっと、
若気の至りで飲み過ぎましてね、よりによって女性警察官にからんだんでしまったん
ですよ。彼女の階級は警部でしたから、警部補の私より一階級上だったんですね。そ
れもあったのかどうか、彼女が怒り狂いましてね、公然ワイセツ罪で訴えるなんて、
まあ気の強い女性でしたね。その場は、私の上司の捜査課長が間に入ってくれて、何
とか収まったのですが、その帰り道で、自宅謹慎一ヶ月を申しつけられまして、警察
手帳などをその場で捜査課長に預けるはめになってしまったのですよ。今日は、よう
やく、その謹慎期間が終了しまして、久しぶりに、本庁に出向くところだったのです
よ。」
「その女警部は、それで許してくれたの?」
山下は、アメリカ駐在の頃に聞いたセクシュアル・ハラスメント騒動を思い浮かべ
た。アメリカでは、性的な嫌がらせ行為と裁判で認定されると、莫大な慰謝料と懲戒
解雇が待っていた。酔った勢いの気軽な一言が、取り返しのつかないトラブルの元に
なりかねなかった。
「許してくれたかどうかは、分かりません。何しろあれ以来、本庁に出ていないもの
ですから。でも、その警部はその後すぐに異動になったそうで、もう本庁にはいない
らしいですから、大丈夫でしょ。」
栗原は、「それより、」と前置きして、話題を変えた。
「所轄の尋問を受けてみて、疑われているというのが、気持ちの良いものではないこ
とがよく分かりましたよ。私の方は、本庁への照会ができたようでしたから、形どお
りのものだったようですけれど、山下さんの方は、大変だったのではないですか。」
「いや、まあな。」
山下は、口ごもった。
「でも、どうやら、誰もあなたを犯人とは考えていないようですよ。まあ、私もそん
な風には思えない内のひとりですけれどね。もし、あなたが犯人だという前提に立つ
と、ひどく間が抜けてしまうんです。逃げるチャンスは、いくらでもあったのに、ど
こかで刺した被害者といっしょに、電車にのこのこ乗ってきて、わざわざ、第一発見
者になってしまった。その上、あなたは、始発の中央林間駅では、被害者が生きてい
たとわざわざ自分に不利な証言しています。」
「しかし、本当に中央林間駅では生きていたんだよ。ボクが電車に乗り込んだとき、
挨拶でもしようかという感じで首が動いたんだ。」
「被害者が息絶えたのは、おそらく、私が乗り込んだ南町田近辺でしょう。そういう
鑑識係の報告のようです。ですから、中央林間駅では生きていた。あなたは嘘は言っ
ていないと思います。」
「嘘なんか言ってないよ。そんなことで、嘘をついてなんの得になるんだ。ところで
自殺の可能性は?」
「いいえ、それはないでしょう。」
栗原は、首を振ってコーヒーをすすった。
「そうだよな。自殺する人間は、もう少しましな場所を選ぶだろうな。自分で腹を刺
した上で、電車に乗りこんでくるなんて、ちょっと考えにくいよな。」
「ええ。ですから、神奈川県警でも、自殺とは考えてはいないようです。ですが、他
殺とすると、奇妙な点がいくつかあるのも事実なのです。」
山下もコーヒーを一口飲んだ。濃い苦みのある不味いコーヒーだった。山下は、先
を促すように栗原を見返した。
「疑問点を言いますよ。まず何処で刺されたのか。あれだけの包丁ですから、事件の
現場には相当の血が流れていて当然なのですが、今のところそれらしい場所は特定で
きていません。中央林間駅構内は、トイレの中まで、しらみつぶしに当たっています
が、何も発見できないでいます。もちろん、あなたも返り血を浴びていないし、あ、
これは冗談ですけど。」
「悪い冗談だよ。」
山下は、ぶすっとなった。
「すみません。でも出血多量で亡くなったことには間違いないんですよ。それにして
も、電車の中でも、ほとんど血は流れていない。検死に立ち会った所轄の刑事の話で
は、どうやら出刃包丁の回りにタオルをぐるぐる巻きにしてあり、それが止血と流れ
出た血を吸収する役割を果たしていたらしいのです。それから、包丁を抜かないでい
たことが出血量を低く抑えてくれたとも言ってました。」
「すると、被害者は何処かで刺されたあと、血が流れ出ないようにタオルを傷口にあ
てがい、たぶん外套をその上に着込んで、瀕死の状態であの電車に乗りに来たという
ことになる。それに、あの場違いの山高帽は何なんだ。うーん、どうも理解に苦しむ
なあ。」
「そうですね、あの電車に乗らなければいけない理由でもあったのですかね。誰かに
会うためとかですね。」
そう言いながら、栗原は考え込んだ。山下はその栗原を見ながら、さっきから気に
なっていることを口にした。
「でも、君は何故、部外者のボクにそんな話しをするんだ? 普通、警察というのは
被疑者には必要以上の情報は流さないと聞いているが、どうも、君はその枠を越えて
ボクに話し込んでいるような気がする。何故なんだ?」(以下、連載第5回に続く)