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吉外信報35 大舞 仁
★内容
* 郭の世界 遊女の世界 *その3 歌と踊りの遊女
元々遊女は『自ら遊ぶ女』であった。これはその1で語りました。それは天宇受売
が、乳や女陰を見せ、神々と笑い、踊ったことでもわかります。
歌舞伎や能も元々は神と共にある遊びだったのです(神遊び)。それが男性社会の
格式を重んじるようなあのような構造になり、一方遊女(男色もあるがこちらは別問
題)の方は落ちた存在になってしまったのです。
その原因は何かということになると、これは近世の郭に囲まれるようになり、一定
の空間閉じこめられるようになってから、変わってまいりました。しかし、元を正せ
ば神々の巫女、歌姫&舞姫としての遊女です。
遊女とは歌や踊りの秀でたものも含まれます。歌では、御伽草子『和泉式部』の始
めはこうなっています。
『中ごろ、花の都にて、一条の御時、和泉式部と申して、やさしき遊女あり。』
この頃の遊女和泉式部はまだ、郭に囲まれる前の遊女で、自ら遊ぶ女としての特性
を備えています。
この人は、情熱的な恋の歌。奔放な愛情の吐露が歌となり、数々の男たちと彼女と
浮名を流した(だれのものでもありだれのものでもない遊女)ことから、女流歌人で
ありながら、「遊女」と見なされていたようです。
ここで面白い説話があるので、和泉式部は、見ず知らずの柑子売りの男と関係して
しまいます。その男は道名阿闍梨(この人も多情だった)だったのです。
それだけなら、女流歌人と名僧(破戒僧か?)道名阿闍梨との恋に終わるはずで、
それじゃあまり面白くない。情を通わせた後で、この二人が実は『親子』だったこと
が判明する。
和泉式部母親、道名阿闍梨が子の関係だったとしても、道名阿闍梨名声をかちえる
までには何年の歳月が必要だと思う。つまり青年層では無理だということ。すると道
名阿闍梨は少なくとも成年(熟年の方がよりよい)に入っていないと具合が悪い。す
ると母親の和泉式部はかなりの高齢になっているはず。はたしてお互いに色好みであ
ったとしても、情を通わすことができるのであろうかという、疑問が浮かんでくる。
御伽草子では親子となっているものの、事実はこの二人は親子ではなかったのでは
ないか? 西洋&東洋の英雄神話では、比較的親と子の近親相姦が多いことを見ると
それが薄々ではあるがヒントとなってくるのがわかります。物語の形をかりて、この
二人を英雄、つまり二人とも歌がうまく、英雄となるにあたいする「聖なる結婚」を
到達することができるのだということをいいたかったのではないか、と思えてくる。
しかし、英雄でなったものの、この御伽草子の最後では、エディプス王の物語と同
じく、和泉式部が出家することで、悲劇的結末となっています。
大舞 仁