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吉外信報31 大舞 仁
★内容
* 郭の世界 遊女の世界 *その1 聖なる性
遊女という女性蔑視の否定的言葉は近世になって定着したのであって、最初は遊女
は別の意味で使われていました。遊女は男に遊ばれる女ではなく、自ら遊ぶ女(國文
学 郭−江戸の聖空間より)。遊ばれる女だと受動的だし、自ら遊ぶ女だと能動的に
なります。この差は恥辱と栄光、俗と聖との差があります。
ヘロドトスの記録(遊女の文化史 中央出版)
『バビロン人の風習の中で最も破廉恥なものは次の風習である。この国の女はだれ
でも一生に一度はアプロディテの社内に座って、見知らぬ男と交わらねばならぬこと
になっている。・・・女はいったんここに座った以上は、だれか見知らぬ男が金を女
の膝に投げてきて、社の外でその男と交わらぬかぎり、家に帰れないのである。金を
投げた男は「ミュリッタさまのみ名にかけて、お相手願いたい」とだけいえばよい。
・・・金の額はいくらでもよい。決して突き返させる恐れはないからである。この金
は神聖なものになるので、突き返してはならぬ掟なのである。女は金を投げた最初の
男に従い、決して拒むことはない。男と交われば女は女神に対する奉仕を果たしたこ
とになり家に帰れる。』
また、これは男から見れば結構なことですが、女から見れば破廉恥と見えるでしょ
うか? 確かに文化間の差でそう見る場合もあると思います(今、日本やアメリカあ
たりの先進国でやれば女性蔑視とかいって叩かれるだろうなと予想はされる)。
もしこれを宗教的な風習と見る。つまり自然と交わることで(バビロン人の男は、
神かわりと見なすことができる。女も神の巫女とみなし、男女ともども神聖な性の姿
と化す)、すべてのものを生み出すガイヤ信仰と結びつけるのなら、話はかわって、
性が聖へと昇華されていくと思います。
『金枝篇』では(遊女の文化史 中央出版)
『エジプトのテーベでは、一人の女がアムーモン神の配偶としてその神殿に眠った
が、・・・人間とは全く交わりを結ばなかったという。エジプトの古書には、彼女の
ことが「神の配偶者」として一再ならず記されており、普通はエジプトの王妃にも劣
らぬ高貴な身分であった』
これなどは、ヘドトロスの記録とはまったく逆になっています。他の男には抱かれ
ない。だけどアムーモン神の配偶であるという逆説。性は聖なり、聖なる性となると、
神の妻となる巫女にもなります。処女であって、処女ではない。誰のものでもあるが、
誰のものでもない。一種矛盾したような論理が性と聖を結びつけているような気がし
ます。
私見になりますが、
『古事記』では、須佐之男命が、天斑馬の皮をさかはぎにし、投げ付けることで、
天服織女が驚き、梭で女陰をついて他界した。『日本書記』によれば天照大神が斎服
殿で神衣を織っていたとき、素戔鳴尊が天斑駒を投げ付けたときに、梭で身を傷つけ、
怒って天石窟に入ってしまった。
邪道な方法で男性であるスサノヲが聖なる場所、聖なる神の巫女たちを犯した(女
陰を突き刺すことで処女性の喪失?)ために女性は巫女たる資格を失ったもの(神の
巫女にならぬことは巫女としての死)だと思っているのですが、どんなものでしょう。
大舞 仁