#888/1336 短編
★タイトル (RJN ) 97/ 8/31 14:46 (144)
「人魚の恋」 ルー
★内容
「人魚の恋」
豊富な肉や魚、山海の珍味や遠方の果実などを揃えた贅を極めた昼食をした後、皇
帝は習慣となっている午睡をとった。竹で編まれた午睡用の寝台は涼しく、4人の官
吏が四隅から人の体ほどもある大きなうちわで扇いでいるので、心地よい風がそよい
できた。
広間の奥では、龍の彫刻を施した衝立の陰で数人の楽士が笙や琵琶を鳴らし、安眠
を誘う音楽を奏でていた。
眠りに落ちながら、皇帝は昨晩後宮の女達と過ごした歓楽に思いを馳せた。後宮に
は千人を超える女達を養っていたが、みな名花と誉れ高い美女ばかりだった。
それでも贅沢と安逸に慣れきった皇帝にしてみれば、退屈だった。莫大な費用をか
けて建立された宮殿の主として代々君臨してきた父祖達と同じように、倦怠が皇帝を
深くむしばんでいた。
目覚めると、皇帝は衣服を整え威厳をただし、謁見の場に臨んだ。皇帝に恭順と忠
誠を誓うために参内した各国の使者に会うためだった。
その日は辺境の異民族の使者が多かった。北は一年中凍ったままの湖があるという
国から、南は裸でわらの小屋に暮らしているという国まで、また、西から大砂漠を越
えて駱駝でやってきた使者もいた。彼らの珍奇な服装と貢ぎ物は、皇帝の目を楽しま
せたので、帝国により庇護することを約束し、親書と黄金を褒美にとらせた。
はるかな南海の島から小舟に等しい粗末な舟できたという、蛮族の使者には特に目
を引くものがあった。この国は、ほんの小国にも係わらず帝国に服従しようとしなか
ったので、大軍を率いて征伐し、大虐殺を行って降伏させたのである。
使者は、生きた蛇を首に巻いていた。そして、自分を大臣だと名乗り、皇帝の前に
恭しくひざまずいて言った。
「王の中の王に捧げたてまつる。貢ぎ物は、海の精でございます。」
口上によると、漁師が獲物が少ないのでいつもより遠方に出て網を引いたときに、魚
と一緒に捕らえられて、姿が美しいのでその国の王のもとに献上されたのだという。
大きな木造の水槽が、色の浅黒い屈強な男達によって運び込まれた。
傍らにいた宦官が品定めに行った。
「陛下、これは古来から書物に伝わるところの、人魚と申すものに違いありません。
類い希なる生き物にございます。」
皇帝が見てみると、人魚は狭い水槽の中で怯えているようだが、おとなしく尾びれ
を丸めて水に浸かっていた。体はふくよかで、顔は後宮にいるどの女より美しい。
皇帝は予想もしなかった貢ぎ物に有頂天になった。
宮廷の庭に深く池を掘らせ、その上にあずまやを建て、そこで人魚を飼うことにし
た。人魚は海水しか好まなかったので、毎日海水を補給するのを怠らないことと、頑
丈な鍵を取り付けて自分以外の誰も中へ入れてはならないことを宦官に厳命した。
政務を終えると、皇帝は毎日人魚のもとへ通うようになった。
人魚は白面の顔に伏せた瞳のまつげが長く、紅を塗ったような赤い唇、対照的に髪
は漆黒だった。双の乳房はたった今乳飲み子を離してきたかの如く、愛撫する皇帝の
手の中で桃の実のように丸みを帯びて、薄いバラ色の乳首は、触れると喩えようもな
い微妙さで揺れた。もとより人間同士のような交わりはできなかったが、皇帝は人魚
の体のあらゆる部位を見逃さず、腔という腔を自分の官能のために酷使した。
度が過ぎると、苦痛のあまり人魚は涙を流すことがあったが、けっして逆らおうと
はしなかった。皇帝がまた訪れると、かえって前より情愛に満ちて迎えるのだった。
人魚の愛には限りがなかった。
にもかかわらず、皇帝は単に反復される快楽に飽きてきた。
だんだんと、珍しさにも飽きていった。
皇帝が人魚を訪れる日が1日、2日と伸びていった。やがて、人魚は顧みられるこ
ともなくなり、あずまやは堅い錠で閉ざされたままとなった。
皇帝は、離宮を造らせる計画に夢中になっていた。風変わりな離宮で、そこには国
の内外、身分をを問わず、世にも妙なる美しさを備えながら、畸型であるという数千
人の女達を集めるはずだった。家臣達は頭をひねった。美しい畸型とはどういうもの
か。なかなか女達が集まらないので業を煮やした皇帝は、1年以内に集めなければ死
刑にする、そのかわり気に入る女を見つけてきた者には莫大な恩賞を与える、という
勅命を出した。小人や骨なし女、1本足の女、がま女、大頭や四肢の伸びる女など、
皇帝の無理な命令に沿うよう巧妙に仕立て上げられた畸型の女達が各地からぞくぞく
と献上されてきた。皇帝は女達を離宮に入れて、気心の知れた家臣とともに夜ごと大
饗宴を催し、暴虐と淫楽の限りを尽くした。
月日が流れ、皇帝は60歳になろうとしていた。長年に渡る国費の乱費のため、帝
国の財政は逼迫していたが、そんなことは皇帝の眼中にはなかった。最大の関心は、
皇帝稜の建設だった。墓は死後の世界の生活にかかわり、さらに後世の栄光を保証す
る物だ。皇帝は自分の偉大さを万民に誇示するために、巨大で豪奢な墳墓を望んだ。
墓は、大勢の民衆を動員して10年の歳月をかけても、まだ完成には至っていなかっ
た。容貌も体力も全くの老人となってしまった皇帝は、迫りくる死の足音に焦りを感
じていた。ついに病に倒れ、床に伏すことになった。
病に苦しむ皇帝に、ある家臣が進言した。
「陛下が昔愛でられた人魚が、あずまやにまだ生きている様子でございます。人魚の
肝を食せば病も癒え、時には不老不死を得るという言い伝えもあると聞きます。試し
てみたらいかがでございましょうか。」
皇帝はわらにもすがるような気持ちで、僅かな側近を数名連れ、真夜中に人魚のあ
ずまやを訪れた。
あずまやは煌々とした月光に照らされていた。
30年という歳月を経て、さび付いたあずまやの鍵が開けられた。
「お久しぶりでございます、皇帝陛下。」
人魚は、池のほとりに尾を水に浸して佇みながら、初めて口をきいた。姿は30年前
のあの時と一部と違わなかった。年老いた皇帝は驚嘆した。
「おお、おまえは年をとらぬのか!では、おまえの生き肝を食せば不老不死を得ると
いうのは本当なのだな。もっと早く気づいておれば。だが、今からでも遅くない。す
ぐ、あの人魚を縛りあげろ。」
家臣達は人魚を捕まえると、生け贄台をしつらえ、その上に動けないように固く縛
り上げた。
皇帝は人魚のそばに歩み寄った。
下半身の鱗はぬめぬめと妖しく光り、一枚一枚が生き生きと動いていた。
人魚は縛られて胸を大きく上下に動かし、尾鰭をばたつかせた。
皇帝が人魚の乳房を弄ぶと、唇から吐息が漏れ、白い上半身の肌が上気した。
「どうした、恐ろしいのか。おまえは生け贄にされるのだ。この宝刀でおまえの腹を
裂き、肝を抉りだすのだ。わしは、おまえの臓腑を食べて不老不死を得る。おとなし
く手にかかるがよい。」
「いいえ、陛下。私はうれしいのです。私は月も見ず、星も見ず、波の音も聞かず、
ただ陛下のお顔だけを思い描いて生きてきました。ずっと陛下のご来訪をお待ちして
一目だけでも陛下にお会いしたいと、そればかり願ってきました。でも、今日やっと
来ていただけました。私にとって陛下がすべてなのでございます。私の命が陛下のお
ためになると知って、喜びのあまり、胸が高鳴ってしまったのでございます。」
「よし、望み通りにしてやろう。」
皇帝は、刀で脈打つ人魚のふくよかな腹を真一文字に切り裂いた。
満月だった月がだんだんと欠けていって三日月に変わり、ついには光りを失った。
濃い闇が周囲を取り巻き、皇帝と死んだ人魚は、銀の灯籠に照らされていた。
手探りで肝を取り出し、黙々と食する皇帝の姿を、側近達は戦慄しながら見守って
いた。
「これで、わしは不老不死になったぞよ。」
と皇帝は驕り高ぶって叫んだ。
そのとき、死んだはずの人魚が目を見開いた。表情は死ぬ前の従順な面もちとは正
反対に、怒りを露わに満面に湛え、憎しみに張り裂けんばかりであった。
人魚は、縛られていた縄を引きちぎって起きあがった。
そして、野太く、野蛮な男の声で、皇帝を指さして言った。
「もろい人間が、不老不死になどなれるものか。思い上がった皇帝よ。淫逆非道の皇
帝よ。我が王族の呪いを受けて、おまえはここで死ぬがいい。」
人魚の体がばらばらに飛び散って、あずまやの中にころがった。
血しぶきと肉片が、皇帝と側近達の体にかかった。
皇帝が血を吐いて倒れ伏した。
顔や手足がどす黒く変色し、肉が腐って汚臭を放ち、皇帝は、悶絶しながら息絶え
た。側近達は呆然として為すすべがなかった。
人魚の生け贄台の上には、握りこぶしほどの干涸らびたミイラの頭があった。
そのミイラは、皇帝によって虐殺された蛮族の王のものだった。
月が光を取り戻そうとしていた。
あずまやの池にさざ波が立ち、南海のむせるような潮の香りを漂わせていた。
・・・・・・・・了 by ルー rjn08600