#889/1336 短編
★タイトル (CHX ) 97/ 9/ 4 2:33 (154)
水想 周太郎
★内容
捨吉が生まれたのは、安政元年の一月のことである。彼を身ごも
ったみつは、金沢の浦で流れ着いたわかめや昆布などを拾い微々た
る手間賃を稼ぐことを生業としていた。夫の佐平は去年の秋の嵐の
日に海へ繰り出して戻らないままであった。ひょっとして、戻りは
しないかと一日浦に立ちつくす事が日課となり、生存の望みが絶え
てからはせめて草履の片方でも拾えたらとふらふらと歩き続けるの
であった。そのまま海にはいってしまいはしないかと村人は気にか
けていたが、その心配もなさそうだということで打ち上げられた海
草はみつにまかせてやることにした。それ以来の仕事である。
昨年、浦賀にペロリという恐ろしい黒船に乗った鬼がやってきた
という噂は恐ろしく、ひょっとして佐平もその鬼に食べられたのか
しらんとみつは思うこともあったが、金沢から出たことの無いみつ
には遠くの出来事に思えていた。ペリーにとって浦賀も金沢もたい
して差は無いわけで今回は覚悟を見せることもあり更に大きな船で
艦隊を組んで現れた。あまり威嚇してはと沖合に止めてはいたが、
当時の漁民にとっては黒い鬼ヶ島が動くほどに見え、現にみつはそ
のまま産気づいたのである。
本来なら目出度い事であるのに、世情の不安と佐平の死が大きく
影を落とし、親類縁者もいい顔をせず、間引きし損なった子供につ
ける捨吉という名をつけてしまった。末の子ならともかく第一子に
付ける名ではない。みつは不満に思ったが彼らの顔色を見ながらの
生活ではあからさまな態度もとれず無表情に頷くのだった。
捨吉は物心が付くより前に浦で母と一緒にわかめを拾ったが、海
の向こうを見つめながら自分はいつかこの海の向こうへ行く身だと
感じていた。そうしてこの捨吉という名前も捨ててしまうのだと確
信した。自分に「やあい、捨て、捨て。」とはやし立てる太吉は網
元のせがれで何かと嫌がらせをするのだった。夕暮れ時にこっそり
やってきては親子でかごにつんだわかめを海に投げ込んだりした。
しかし、母は何もいわず拾い直すだけだった。太吉を追いかけぽか
りと殴りつけると、あとでその何倍も母が頭を下げる姿を目にして
からは彼も黙って拾い直すようになった。不条理を諦めという形で
飲み込んだのだった。
ある日傷だらけの男が岩陰に潜んでいるのを見つけた。ひどい怪
我でこのままでは助かるまいと思われたが、捨吉に人を呼ぶなと言
い食べ物を運んでくれるよう頼むのだった。事の次第を理解できな
いもののどうやら大変なことらしいのは分かっていたので母にも内
緒でこっそりと介抱してやった。男はミブンというものを無くそう
と戦ったこと、その為に多くの友を失ったことを話した。そうして
その時を迎えると思ったら、一番偉い人たちの顔が変わっただけだ
ったことに失望したので違う道を求めることにしたというのだ。退
屈な話ばかり続いたがここからはとても興味深かった。
何とかという上人は、空から何でも取り出すというのだ。手首を
何度か捻ると食べ物でも着物でもその手につかんでいるという話は
普通のものにはホラ話としか思えないだろうが、捨吉はこれだと思
った。上人の弟子になれば名前を捨てられるし、貧乏からも逃げ出
せる。母にも楽をさせてやれる。一生懸命に上人の話をせがむ捨吉
に男は地図を書いてやった。どうやら自分は上人を飛び越えて仏に
なるようだから捨吉に望みを託すとも言った。そうして印籠の中の
毒を含むと息絶えたのだった。教えられたとおりに念仏を唱えてや
るとその足で旅に出た。様々な不条理を数年の道中で目の当たりに
し、ペシミストとなっていく過程はまたの機会にお話しするとして
上人との出会いの場面へとぼう。
川の畔を背の高い葦が茂る中を細い一本道が見えた。そこへ入っ
て歩き始めると程なく向こうからかぶろに髪を結った童子が走って
きた。ふっくらとしたその頬は薄紅がさし愛くるしく、様に見とれ
る捨吉が見えないのかそのままこちらへ走ってくる。ぶつかる、そ
う思った瞬間に童子は捨吉の真後ろを走っていってしまった。キツ
ネに化かされたのかと行き過ぎようとした時、また向こうから童子
が走ってきた。今度は瞬きせずにじっと目を凝らして見ていると、
確かに体をすり抜けていった。振り返りざまに、「おい、待て。」
と声をかけたがいってしまう。慌てて追いかけ川の流れの弛んだ岸
でみつけた。そっくりの童子ふたりが衣を捧げもって立っている。
何を見ているのかとのぞき込んであっと声を上げた。生首である。
生首の目がぎろりと捨吉をみるとすーと背丈が伸び年寄りになった。
その体には、葦のくずはおろか水滴すらついていなかった。童子か
ら衣を受け取るとひとりの上人の姿と分かった。膝をつき、へたり
こんだ捨吉はそのまま手をつき「弟子に。」と懇願した。旅の枕で
はああでもない、こうでもないと出会いの言葉を夢想したのに他に
言葉がでてこない。人間胸が一杯なときほど言葉が無いというのは
どうやら本当らしい。上人は微かに頷くと、「笛吹丸(うすいまる)
扇丸。」と静かに言った。どうやら笛を吹いているのが、笛吹丸で
扇で舞っているのが扇丸らしい。この七つほどに見えるふたりが自
分の兄弟子になるのかとふと思ったところで終わったのか行儀良く
ならんだ。「もう良いよ。有り難う。」上人がそういうとふたりは
きゃっきゃっと嬉しそうに声を立て、くるりくるりと蜻蛉を切りな
がら姿を消してしまった。
「よく来たね。」上人は手招きをすると小さな草庵へ捨吉を案内
した。そうして庭の井戸で身を清めてくるように言うのだった。教
えられるままに右から左からと儀式のように水浴びをすると、裸の
まま上がっていった。びしょ濡れのまま三つ指をつく捨吉の頭の上
で印を結びながらなにやら呪文を唱えると最後にえいっと気合いを
入れた。そうすると体に残った水が宙に浮かびとすっと消えた。上
人は手首をくるりくるりと返すと一枚の衣を空より取り出し、捨吉
の手を取り立ち上がらせ、上から下へと2.3度眺めるとふうとた
め息をもらし、情けなさそうに笑った。「さあ、これを着て少し食
べて貰おう。」白い衣は童子と同じであった。どうも法衣とは違う。
ああ、夷子様の服と同じなのだと分かった。「名は葦丸でどうだろ
う。」「有り難うございます。」面を上げると米の入った釜を渡さ
れた。「粥なりままなり好きなように。」そう言いおくと、上人は
ご本尊の前で座禅を組み、ぴくりとも動かなくなった。好きなよう
にといわれても、ほんの一握りの米しかないのだから粥にするしか
なかった。かまどには灰が無く冷たく硬い様子だった。裏へ回ると
薪がありそれで火を起こし炊き始めた。一握りの米であろうと有り
難いことに変わりはなく、火が大きくなり釜のふたが踊る頃には、
久しぶりに気も踊る心持ちとなった。甘くいい匂いが立ちこめると、
膳や椀を探してみた。これも上人が取り出すのだろうかと思案して
いるといつの間にか部屋の真ん中に菜の乗った膳が据えてあった。
釜のふたを開けると、大きな釜一杯の粥になっていた。米とはこの
ように増えるものであったかしらんと考えたが、どうも違う。白い
米をあまり目にすることは無かったが、天から取り出された米は違
うのだと思えた。上人と共に食べてみると、美味しい。お代わりを
してもよいかと尋ねると全部食べると良いといわれ有頂天で食べた。
葦丸は初めて満腹というものを知った。
翌日から修行は始まった。しかし、葦丸の思う様な苦行はなかっ
た。ただ、念入りに掃除しご本尊の前で座禅の組み気持ちを整える。
昼からは呪文の意味を習い、分かると諳んじてみせるという繰り返
しで、その辺の子坊主よりよほど楽な修行と思えた。だからといっ
て術を使えるようにはならずどうも肝心な所を教えて貰えないこと
に気づいた。そうなると有り難かった気持ちも何処へやら恨み事ば
かりがつのってきた。このまま自分を小間使いとして飼い殺しにす
る気では無かろうか、あの岩陰で息絶えた男は実はぐるではないか
いや上人自身の変化では無かろうかと思い始めた。もともと信心の
気持ちのある身ではなく、楽になりたいとかこの苦しみから逃れた
いとかの子供心に思ったことでそろそろ18を迎える年頃になって
からは煩悩も多くなった。
ある日、上人に向かい簡単な術でよいから使えるようになりたい
と願い出た。少しばかり葦丸の顔を見つめるともう教えてあるとい
う。では何故使えないかと問うと清澄なる心という。透明なる瑠璃
地を観想出来なければ無理だと答えたのである。瑠璃地とは浄土の
事でありむろん葦丸は見たこともなければ聞いたことも無いので空
想だに至らない。清澄なる心を持てば見ることが叶うと堂々巡りの
問答の末、今まで以上に執拗に上人の行動を盗み見たがわからない。
そのうち上人の力量を伝え聞き人が訪ねてくるようになった。術を
手に入れる事が困難ならええいままよとこの人々から金品を巻き上
げることに腐心することとなった。そうしてとうとう上人から破門
されてしまった。当然ではあるがどうも気が納まらない。いつもの
ように上人があの葦の岸辺に向かったとき謀り事をたくらんだ。上
人が水に同化し流れに乗って暫くの時を過ごすと足音が近づいてき
た。笛吹丸と扇丸が衣を届けに来たのだ。ふたりの見つめる先に不
自然な水紋が浮かぶとぽっかりと頭となった。ゆっくり時間をかけ
て額、目、鼻と見えたところで葦丸は美しい女を裸にして突き飛ば
し上人の真ん前に立たせた。この女、不治の病の夫のために祈願に
来たところを因果を含めて連れて来られたのである。女はこうして
裸で立ち上人に見つめられることで病の根元であるところの因縁を
断てると信じていた。果たして上人はそのまま動けずに難渋しだし
た。裸の女に動揺したのか、葦丸の行動に動揺したのかとにかく清
澄心を保てなくなったのは事実であろう。何か言いたげな目ではあ
るが口がないのでどうにもならない。扇丸はその扇で上人をあおぎ
笛吹丸はしくしくと泣くばかりでどうすることもできない。上人も
人体に戻れぬなら水にと思うがそれもならない。
葦丸は用心深く葦の陰に隠れていたが、この様子にそろりそろり
と出てきた。そして、上人の頭を足の裏でもて遊び、葦の方へ思い
切り蹴り出した。ころりと転がると目は葦丸を睨んだが見る間に渇
き只のしゃれこうべとなってしまった。鼻で笑うと草庵へ貯めた金
を取り戻った。そのままどこぞで商売をする気であった。薪をどけ
金壺を取り出すと妙に軽い。不審に思い開けてみると中には金が無
く書が一枚入っていた。上人の手になるものであろう。そこには、
「悪しまる」と書いてあった。いつの間にすり替えたのか分からな
いが、ただ葦の岸で出会ったというより「悪し」なる意味であった
かと思えるのであった。ならば、この事態を予見するならば、防御
の策が無いのもおかしいのであるが、上人のいない今考えても詮無
いことでもあり護法童子のように何もなかったように去るのが正し
いかと思われる。
(了)