#871/1336 短編
★タイトル (FWG ) 97/ 8/18 10:28 ( 62)
お題>『ノックの音がした/静かなる訪問者』 …… 武闘
★内容
ノックの音がした。
武闘は疲れていた。反応する気もない。稀人の来訪など放っておけばよい。
ノックの音がした。柔らかく叩く音。心地よいリズムが武闘を眠りの世界へと再び
誘っていく。
ガチャリ。
もう一度、ガチャリ。
ロックが二つ解除された。ドアが開く。見知らぬ溜め息とともドアが閉じられた。
寝ぼけ眼のまま、ベッドに横たわる武闘の横にひとりの女性が立ちすくむ。
「貴方は間違っているわ」澄んだ声が響く。優しい声、どこまでも深く武闘の心を包
み込んでいく。
「後悔しているの?」
「ああっ、りりあんさんか……」
彼女は小さくうなずき、
「後悔しているの?」と、尋ねた。
武闘の目から涙が一滴こぼれ落ちる。頬を伝い、枕元をぬらす。
「貴方は間違っていたわ。でも、もういいの」
彼女は目を伏せ、武闘の頬に白い指先で触れた。ひんやりとした感触が心地よい。
「そう、ぼくは間違っていた」
武闘が瞼を閉じると、彼女はベッドに腰掛けた。
オレンジ色の豆球が彼女のワンピースを深く照らし出している。甘酸っぱい芳香に
武闘の心が夢幻を彷徨う。
そう、ぼくは間違っていたんだ。ぼくは小説を書くのが好きだった。物語を考える
とき、想像の世界に羽根を拡げていた。どこまでも、どこまでも高く飛ぶことができ
た。書くのは楽しい。たったひとつの言葉にこだわり、辞書をひきながら文字を綴っ
ていく。ひとくだりの文章に、人の情愛、恐れ、切なさ、泣きたいほど悲しい人の生
が刻まれていく。全ては、書くことが楽しい、という自己満足として発露していたの
だ。ぼくにとって小説を書くということは甘露以外の何者でもなかった。
だけど疲れた。
……そう疲れてしまったんだ。
「なぐさめに来てくれたんだ。ありがとう」
彼女の微笑みは穏やかだった。まるで赤子を抱くマリア像のように、欠けることの
ない慈愛が瞳に煌めきをともしている。
「ぼくはね、書きたいように書いていた。それはただの自己満足だった。内輪受けの
話しですら、誰かが楽しんでくれる、そう信じて書いていたんだ。でも、もう疲れた。
そんなのは小説じゃないよね。もっと幅広く、もっと沢山の人に、読んでもらえるよ
うな素晴らしい小説を、そう素晴らしい小説を書きたかったんだ」
「貴方なら、きっと書けるわ。大丈夫、私の言葉を信じて」
「ぼくには、もう時間がない……ずっと明日があると思っていたのに……先がないな
んて、全て幻だったなんて、夢だったらよかったのに、あっー、ちっきしょう!」
彼女は武闘を抱きしめた。苦しみも悲しみも含めた全ての感情を抱きしめている。
深い友愛が武闘の傷ついた心を溶かしていく。人の肌から感じる温かい思いやりが安
楽へと導いている。
ぼくは彼岸を渡るんだな。
武闘はそれでも満足だった。死の間際に看取ってくれる人がいる。それだけで幸福
だと感じていた。
「生まれ変わったら、輪廻転生があったら、その時こそ、素晴らしい小説を書き上げ
るんだ。ぼくは、もう一度りりあんさんと出会う。ぼくと会ってくれるよね」
彼女の微笑みが一瞬、強ばった。かみ殺した嗚咽が頬を蒼白くさせている。
「……うん、また会えるわ。その時こそ、志しを高く持って人を感動させる小説を書
きましょうね。私も負けないで頑張るわ。無常さん」
*
――後日談。
武闘はショック死だったといわれる。
一晩で髪は白髪になり、肌には深い皺が刻み込まれていた。目は見開き、恐ろしい
何かを見たかのように血走っていた。腱鞘炎の悪化した右手は何かを掴もうと天を向
き指先を開いていたという。
マンションからワンピースをまといサンダルを履いた女性が、舞いながら出てきた
という噂もあるが、真実は定かではない。
合掌/武闘