#741/1336 短編
★タイトル (XVB ) 96/12/30 22:34 ( 86)
幻想美術館 $フィン
★内容
ある夕暮れのことだった。わたしと彼女はうら寂れた美術館に入ることになっ
た。どうして入ったのだが今だによくわからない。普通なら、どこかの公園で二
人で夕日でも見、いちゃいちゃする予定だったが、蔦の絡まり黴くさい建物を通
り過ぎてから、夕暮れの公園がたわいのないものに思えて、この美術館が大事な
物に思えるようになってきたのは不思議といえば不思議だった。なにしろわたし
たちは、今まで美術や音楽などの芸術なんて少しおつむのいかれた人たちがやる
ものだと決めつけていたから、わざわざ木戸銭を払ってまで入ろうと気にならな
かったのは確かである。
ところがこの日に限って、黴くさい匂いのする美術館に入ったのは何かが変わ
る。何かとんでもないものが劇的に変わるという期待が少しでもあったのかもし
れない。
美術館に入ると外で見たよりも荒廃しているのがわかった。一匹の蛾が切れか
かった蛍光燈とたまむれ、その蛾をやもりが大きな口を開けて食べていた。
彼女がぎゅっとわたしの手を掴む。
「わかってる。美術館だからそれぐらい辛抱しないと」わたしは、そう彼女に
言ってやった。彼女もわたしの手を握り返してきた。
「おじさん、ここにこんな美術館があったなんて知らなかったよ」わたしは、
うつむいてそろばんを弾く受付係に話しかけた。
「これでがちゃがちゃ……これからがちゃがちゃ」受付係はわたしの声が聞こ
えないのが、そろばんを弾いては茶色く変色した記録簿に書き込んでいる。
「おい、聞いているのか」わたしは声をあげた。自分でも少し苛立った声をあ
げているのがわかった。彼女は不信げな顔でわたしを見つめている。
「ここに入るのかい……」受付係が、顔をあげてわたしたちを見た。彼の顔を
見て、わたしは一瞬たじろいた。彼の顔半分が焼けただれ醜く引きつっていたか
らではない。むしろ残り半分の無数の皺の中でたった一つ残った眼がわたしを射
たからだ。
「ああ、入る……大人二枚 おいくら」わたしは聞いた。
受付係はわたしの上から下まで見てから、意味ありげな笑いを浮かべ、
「あんたたちはまだ若い。悪いことは言わんこの美術館に入るのは止めといた
方がええ」そう言うとそろばんをばしんと叩きつけた。
「だから、木戸銭を払うと言っているのだ」わたしは少し苛立ってきた。彼女
の頼みとはいえ……彼女がいつ頼んだのだ。先に入ろうと言ったのわたしではな
かったのか?
「やめといた方がいいと思うのだが……」受付係は小さなため息をつくと、
ゆっくり席をたった。がちゃがちゃ……中から鎖を引きずる音がする。よく見る
と受付係は足が不自由な人なのか、左右が違った歩きをしている。
「あんた……足が不自由な人なのか」わたしは聞いた。
受付人がわたしの問いに答えようとはせず、二枚の茶色く変色した券を渡して
くれた。
「おいくら……」わたしは聞いた。
「金はいらん……もうわしには必要のないものじゃ……これで中に入れる」
そう言うとわたしたちには興味を失ったらしく、またそろばんを弾いては、記録
簿に書き始めた。
「中に入りましょう」彼女はわたしの手を引いて美術館に踏み込んで行った。
美術館の中はどこの時代のものかわからない芸術家たちの作品が展示されてい
る。
ギリシャ神話のプロメテウス、禿鷹に内臓をつつかれ、臓物を地面に垂らして
いる。地面に落ちた臓物には白いうじが湧き、まわりには胡麻粒のような蝿が飛
んでいる。禿鷹に喰われなかった片方の眼からは傲慢な光が宿っているのだった。
あのポーの作品『黒猫』をつりさげたような壁の染み、その中から顔半分が見
える女の腐った顔、さわってみると蝋で出来ている。
そうかと思えば、江戸時代の処刑のようすをありありと描いた油絵、油絵には
血に染まった板の上に生首をごろんと転がし、死ぬ前の断末魔の様子を妙にリア
ルに書かれ、血の匂いが漂ってきそうなほどの出来栄えだった。作品に書かれた
年号を見ると十八世紀のものとなっている。どうしてそんな時代に油絵で描くこ
とができるのが不思議だったが、この美術館ではそんなものが当然のように幾つ
も置かれていたのだった。
またある部屋では、胎児のホルマリン漬け、そして胎児の剥製と胎児の蝋人形
がこれでもかというほどに部屋中をうめつくさんばかりに展示されている。
「怖い……」彼女は胎児の剥製にそっと触って言った。
何時間も同じ絵を幾つも見、異常なそれでいて美しい芸術品を見るために何部
屋もの部屋を横切った結果、空間・時間感覚が瞹昧になってきた。警告……警告
……警告……頭のどこかで必死になって警告を発しているわたしがいる。
その自分を馬鹿にしているわたしがいる……さらにその自分を笑っているわたし
がいる……幾つもの我が分裂し、そのすべてが別の角度で芸術作品を見つめてい
るのだ。
「わたしもつくりたい……」わたしの横で、誰かがそう言った。わたしはぼん
やりとその顔を見た。覚えているようだが、覚えていない。知らない顔の彼女が
いた。彼女も自我が分裂しているのだろう。わたしを知らないものであるかのよ
うに見つめている。
「ここは美術館なのだから、なんでもできるさ」わたしはそういってやった。
見知らぬ彼女は、肯くと次の部屋に向かっていった。
最後の部屋には何もない。何も展示されていないといった方が正解だろう。白
い大きなキャンバスと大きな包丁が一つあるだけだった。
白いキャンバスの表題は『あなたたちの芸術作品』と書かれている。
「わたしたちの作品もここに飾られるのね」彼女はそう言ってにやりと笑い、
キャンバスの下におかれていた出刃包丁をつかんだ。
「きゃははははは、いな〜い。胎児がいな〜い」女は笑いながらわたしの腹を
裂いている。そういえば、彼女は、あの胎児の部屋から出てから少し変だった。
どこかで彼女が下ろしたはずの胎児をわたしに求めていたのかもしれない。彼女
にも胎児にも少し悪かったかなと思いながら、わたしは腹を裂かれ続けていた。
翌日、数年前に閉館された美術館跡で男と女の変わり果てた姿が発見された。
$フィン
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