AWC お題>ポプラ並木              聖 紫


        
#518/1336 短編
★タイトル (ALN     )  95/10/19  22:20  (150)
お題>ポプラ並木              聖 紫
★内容

  秋は気まぐれに訪れたのでは無い。
 また其れは繰り返される為の約束でも無い。
 其れは僅かにも淀む事の無い永遠の時の流れの中の瞬間の最も初めの変兆である。

  緩やかに見えて居て、そのくせ、一夜でも目をそらせて仕舞えば、明来る朝には
 濃い白靄の中で既に着替えを済ませて仕舞って居そうな危惧の中で身を纏った山々
 の間を縫う様に、穏やかな弧を描いて翔け抜けると、何時しか冷えきって仕舞った
 水の寒さに映る碧い透明な淀みが寄り添う様に近付き、目の前で大きく右に曲がる
 と、その深みを渡る為の大きな紅い橋が見えて来る。 現に流離い迷う者には、ま
 るでそれは、そのまま空にでも辿り着きそうな錯覚を覚えさせられる程、真っ直ぐ
 に延びて居る。 其の橋を渡りきる辺りで、今度は左に大きく曲がり、今渡ったば
 かりの川の流れが斜に遠ざかる頃に、やがて目の前に現れた大きな交差点が、現実
 の在る事の空しさと、現実で在る事の安堵感とを同時に教えてくれる。 泡沫の儚
 に溺れ沈み行く者には、永遠の直線が時空の狭間へと誘い、総ての物は環状の初め
 と終わりの瞬間で絶間無く微細に初めであり、終わりである事を知らせる。


  其の街の北側に在る橡の森の麓の公園の広場に在る洋館風の洒落た建物迄の小道
 は、公園の入り口から、広場を囲む様に植えられたポプラの樹に導かれる様に続い
 て居る。 公園の広場の東側に在る其の洒落た建物は、つい最近までは、この街に
 在る唯一の図書館として様々な人々に馴れ親しまれて来たが、近ごろ街の東側に新
 しく建てられた庁舎の一角に近代的な図書館が設けられてからは、利用者も疎らと
 なってきた様だ。 中には、其の古めかしい洋館風の建物と静かな公園の雰囲気が
 “お気に入り”で通って来る者も居て、そう伝った人々には、かえって疎らとなっ
 た館内が、いっそう心地好いらしく、東側の庁舎の近くからでもわざに、より遠い
 其の図書館へと通う者も居た。

  芙美香も其の中の一人だった。
 彼女の住まいは街の東側の外れの住宅地の一角に在ったが、少なくても週に一度は
 わざに車を走らせてでも、其の公園の中の図書館に訪れた。 もっとも、芙美香に
 は別な理由も在った。 或はその別な理由が最も重要な事で、その図書館の雰囲気
 とは全く係りの無い事と伝うべきかも知れないが… 誰かが、近くに出来た新しい
 図書館に通う事もなく、其の公園の図書館に通い続ける事を不思議に感じて、その
 理由を尋ねれば、間違いなく彼女は“静かな雰囲気が気に入って居るの”と答える
 だろう。 満更それも嘘では無く、事実、彼女は街中の近代的な図書館より、其の
 古びた図書館の雰囲気の方が好きなのだと伝う事にも偽りは無い。


  其れはまだ、新しい図書館の出来る前の、或秋の日のよく晴れた午後の事…
 芙美香は何時もの様に三階に在る古文書ばかりが集められた部屋に向かって居た。
 階段の途中の踊り場迄来たとき、ふと不思議な気配を感じて振り向くと、踊り場の
 少し高い所に設けられた窓に秋の陽射しが反射して射翳く輝いていて、その光りの
 中に隠れる様に、影になった人の様なものが見えた。 先程の不思議な気配は其の
 人の様な影から送られて来る視線だと解った。 芙美香は咄嗟に其れが何であるの
 か、否、誰であるのか閃いた様に理解出来たが、次の瞬間では其れを否定する様に
 くるりとその視線に背を向けると、残りの階段を登りはじめた。

  木漏れ日の様に優しい視線を背中に感じながら、芙美香は心の中で呟いた。

  『此処は中三階… 危なくてよ… 』

  そして、何故かこみ上げてくる不思議な幸福感を押さえる事が出来ず、微笑まず
 には居られなかった。

  大きな木製の扉を開くと、書物の古臭い匂いと重苦しい静寂が少し漏れて出て行
 った様に感じられる廊下を背に、芙美香は静かに扉を閉めた。 初めから決めて在
 った事の様に、迷う事もなく一つの書棚に向かい、一冊の黒い皮表紙の割りと厚め
 の本に手を伸ばし、念を押す様に表題を指で辿りながら確かめると、満足そうに其
 れを胸に抱え、窓辺の机へと向かった。 時折、芙美香は呪文の様な物を、声を出
 して確かめる様に唱えながら其の分厚い本の頁を捲り進めて行った。 いよいよ、
 其の本の序章が終わり、初めの章が開かれた時、閉ざされた窓の硝子を透過した様
 に一枚の翠のポプラの葉が芙美香の開いた頁に舞い落ちて来た。 芙美香の大きく
 て黒い瞳が一瞬輝いた様に見えた。 やがて次の章の初めでは、同じ様に何処から
 ともなく、碧のポプラの葉が一枚舞い落ちて来た。 夢の中でもがく様な芙美香の
 瞳の輝きが、やがて雫と成って零れ落ちた頁には、碧紅の一枚の葉が舞い落ちて来
 て居た。 意を決した様に静かに顔を上げた芙美香の美しい瞳の中には、先程の踊
 り場で見た影が今は確かな人の形となって映っていた。

  細く消え入りそうに切なく、其れで居て強い流息に咽ぶ様な笛の音に似た感情が
 胸を締め付けて来るのを抑える術もなく、芙美香は窓越しの空を見上げながら誰に
 云うでも無く呟いた。

  「人を好きになる事は、こんなに簡単な事なのに… 好きで居続けられるって
   事は… とても難しい事よね」

  水色の空には綿菓子になる前の砂糖の糸の様な雲が幾筋も浮かんで居た。
 好きになった事は紛れもなく真実だったと嘯けば、好きになれば好きになるほど、
 好きで居られる時は余りにも短すぎると繕わなくては為らない。 素敵な出逢いに
 ときめきを感じたのは何時の頃だったのか等と思い返しては不可。 思い返した処
 で其れは哀れな幻となり、恨めしそうに、時の彼方から蘇ることを拒むだろう。

  何時しか、そのときめきが切ない思いの恋に変わった等と欺きの戯言で慰められ
 る程度の事であるなら、それもまた愚かな限りでは無いか… 日毎に募る激しさは
 止めようもなく、やがて気付かぬ中に愛に変わった等と言い捨てるほど確かな嘘も
 在るまい。

  出逢いの時の輝きのままで居られたなら、幸せだったと言い切れるのか… 切な
 い恋のままで居られたなら、永遠の恋が続いたと思うのか… 愛し続けて行ける事
 が仕合わせな事だったとしても、おまえに人など愛せは仕舞い…

  好きのままで良かったのに…
 芙美香は取り留めもなく巡る感情の中で、たったひとつの言葉を探していた。
 見つけかけては見失い… 掴みかけては、心の何処かに隠れて仕舞うけれど、本当
 は何よりも確かに自分自身に言い聞かせ続けて来た筈の言葉だった。

  「人を嫌いになる事は、とても悲しい事なのに… 」

  芙美香は静かに立ち上がり、頼りなさそうに窓辺迄歩み寄った。 窓越しにポプ
 ラの並木に囲まれた公園を遠くまで眺めて観たところで、其処には確かな者の姿は
 無く、何処迄でも続いて居そうなポプラ並木の小道には秋の透明な光りに輝く黄金
 色の海原を航る風が寂しそうに吹いて居るばかりだった。

  「嫌いに、なれない事は… もっと辛い事よ…」

  芙美香はこみ上げて来る熱い感情が涙になって流れて来ても、不思議と悲しいと
 は思わなかった。 水色の射翳さが、やがて透明になり、真っ青に映る空を見上げ、
 儚い流れの雲を眺め、寂しい香りのする風に抱かれ… そして振り向いた所で確か
 に心に映るものは、もう何処にも居ないと云う事だけが紛れもない事実だった。

  『誰を好きになろうとも、誰を嫌いになろうとも、其れは総てが、お前自身の願
   いに導かれ、与えられた事象に過ぎない。 』

  芙美香の瞳の中で、唯一の人の形をした者が、優しさとも冷たさとも言い難い静
 けさの中で微笑ながら囁いた。

  『嘘… 望んでも、望まなくても… 』

  芙美香は、「あなたの所為よ」と言いかけて止めた。 言葉を閉ざしたところで
 元より言葉など必要の無い相手だと解っては居たが、あえて言葉にしなかったのが
 切めてもの抵抗だったのだ。

  『望んでも、望まなくても… ?』

  芙美香の瞳の中で、唯一の人の形をした者が、わざと訪い質した。
 芙美香は既に其の言葉を聞くでもなく、諦めた様に机の上の黒い皮の表紙の厚い本
 を閉じ様として居た。 閉じかけたその手が激しく震え、其れを拒んで居るのは、
 芙美香自身だと教えたが、芙美香は瞳を堅く閉ざすと、一思いにその本を閉じた。

  驚くほど大きな響と共にその本が閉じられた瞬間、芙美香は『仕舞った』と思っ
 た。 慌てて、最後の… 今、其の本が閉じられる直前まで開かれて居た頁をもう
 一度開いて観たが、既に手後れだった。

  『愚かな女だな… 』

  芙美香の瞳の中で、唯一の人の形をした者が、哀れむ様な優しさで囁いた。
 一度開かれた其の本は、何時であろうとも、何処であろうとも、簡単に閉じる事が
 出来る。 だがしかし… 翠の木の葉が、やがて碧となり、碧紅となり、そして黄
 色い黄金色の木の葉に変わる前に其の本を閉ざして仕舞えば、其の本は、二度と再
 び翠の章を物語る事は無い。 無論… 碧の頁も… 碧紅の頁も… 其の後には続
 かない様に、途中から読み初める事など出来はしないのだ。 そして、一度でも其
 の本を開いたならば、途中で閉ざした者は、永遠に翠の章を探して、命ある限り流
 迷い続けるのだ。 そう… 芙美香が、今でも、其の街の北側に在る橡の森の麓の
 公園の広場に在る洋館風の洒落た建物に通い続ける様に…

  だがやがて、其の本が何処の棚に在ったか等と伝う事も、橡の森の麓の公園に洒
 落た建物が在ったと伝う事すらも… 多くの場合、総ての者が忘れて仕舞って居る
 に過ぎない… と伝うだけの事だろう。

                                  聖 紫




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