#379/1336 短編
★タイトル (ALN ) 95/ 1/24 0:46 (199)
覇王樹 聖 紫
★内容
午前一時…
「そろそろ、寝ようか… 」
雅は時計を見てそう思った。
しかし、何故か机から離れる気になれづ、取り留めも無く パソコンの キーボードを叩いて
いた… と、突然電話のベルが鳴り響いた。
午前一時四十六分… こんな時間に誰だろう… 友達なら直接此の回線に電話をし
ては来ない。雅を知っている友達で在れば、別回線に電話を入れてメッセージでコン
タクトをとって来るのが常であった… 何一つ胸騒ぎが在ったわけでも無く、とびき
り不思議にも思わなかった。無造作に受話器をとると闇の静寂の向こう側で人の息吹
を感じることが出来た。
「雅… ?」
志津馨の声だ。
「あぁ、志津さんか… 」
どうしたのか聞く時間も惜しむように、志津馨が受話器の向こう側から言葉を押し
込んだように言葉が続いた。
「叔父様が危篤なの… 」
雅は平静であった… なにが在ったのか、なにを告げられたのか、とっさには理解
できなかったと云った方が心理に近かったかも知れない。
「今、どうしてるの… 」
訳の分からない、意味のない疑問が言葉に変わった。
「御免なさい… もう寝てたのでしょう… 」
「未だ寝る気は無かったさ… 武郎さんは、どうするって云ってるの」
「薄いから… お前だけの方が良くは無いかと云ってくれているの… 」
志津馨の叔父と云っても、殆ど血縁は無かった。志津馨の母の義従弟である。既に
志津馨の母も他界し、志津馨が嫁いでから後、親戚としての付き合いも殆ど無い…。
武郎も義理を欠きたくは無いが… 遠方でもあり、子供も小さい事を含め、別の縁者
筋に対しても、出すぎたくは無いと云うのが武郎の意向らしい。もっともで在るかも
知れない… と雅は思った。一口では割り切れないものがそれぞれの家系で累々と脈
略を成す社会である… いちがいな解釈は無用だとも思った。
志津馨が、雅に連絡をしてきたのには無論、他に理由があった。
志津馨の叔父は、雅の義父になる筈の人でも在った… 既に遠い記憶の遺跡でも在っ
た。
「30分位後に出るから… 1時間位で着くかな… 」
志津馨も、雅に知らせるべきか否か、悩んだに違いない。同じように雅も、志津馨
と共に葬儀に、否、裕子の生家に赴くべきか… 一瞬の躊躇いが無かったわけでは無
い。ただ、何れにせよ、武郎が行かないと云うことで在れば、此の時間からして、雅
が志津馨を連れて行ってやるのが一番良いことのようにも思えた。雅は受話器を置く
と、車庫に向かい車のエンジンをかけた。暖気運転の間に、一泊分の宿泊準備を整え
礼服を洋服ダンスから抜き出し… 時間にして十五分もかかっては居なかっただろう
か… 戸締まりを済ませ車を走らせ始めた時は何時間もの時間を費やした様な気がし
ていた。志津馨の家に着くと、既に仕度を済ませた志津馨が待っていた。玄関先まで
見送りに出て来た武郎は、すまなそうに雅に礼を云う… 雅が、志津馨を連れていく
理由が、古くからの親友だからで在って、それ以外に何一つ理由のないことだと思っ
ているのだ… その事の真意を、説明する必要も無いことであった。
雅にとって切迫感は無かったが、この時ほど車のスピードが遅いと思った事も無か
った。
「泣いて居るの?」
「あぁ、不思議だな…
裕子の時は、結局最後まで涙一つも流さなかったのに… 分けもなく涙が溢れて
くる… 」
「御免なさい… 知らせない方が良かったのかしら… 」
「後で知らされるよりは… 」
知らせてくれて良かった… と云おうとしたが、喉が焼け付いたようで言葉が尻切
れた。
病院に着くと、志津馨の叔父は息を引き取った後であり、その遺体も既に二時間程
前に、自宅に連れ帰られたとの事であった… なにもない… 本当に殺風景と云うに
相応しい白い部屋が冷たく白々しい空間をもって迎えてくれた。電話が入って直ぐに
急変したのだと云う… 明けかかった空を恨めしく重い空気が迎えようとしていた。
薄明かりに見え始めた国道を、故人の家に急ぐ。懐かしい…
まるで故郷に帰ったときのように… 生家に帰った時のような思い出を含んだ空気
が眼差しの中で融和して行く様に心をくるみ込み、ほっとしたような安らぎが迎えて
くれた。十年… もっと経っていたろうか… 裕子との最後の分かれにも来て居ない
から、十二年ぶりになるだろうか…。
故人の家に着いたときには既に、近所の人達、いわゆる葬式組合の面々が総てを仕
切って居た。未だ祭壇のしつらえられて居ない内の故人は生前の寝間で在る納戸にて
安らかに、永久の眠りにと横たわっていた。一様が泣き疲れた面もちで故人を囲み、
思い思いに生前に向けられた眼差しのまま時間の流れを無視した空間を分かち合って
居る。志津馨は廊下で数年ぶりに合う従姉妹と抱き合って泣いているまま、未だ入っ
て来ようとしない… 雅は、納戸の襖の敷居越しに正座し深々と一礼をすると、一同
に形式的な挨拶をした。総ての人々は初対面であり、雅が何故この席に慌ただしく駆
けつけたのかすら知る由もない面々である。顔を上げると、この日のなせる途方もな
い悲しみに打ちひしがれ、悲しみの中で時をさまよう年老いた婦人が目に入った…
「老いたな… 」
雅は無意識にそう感じていた。
裕子の母親に会うのも十二年ぶりであったが、雅をみとると今にも泣き叫びそうな
顔のままコックリと… なにも云わず、首を前に倒した…
「ご無沙汰しておりました… 」
もっと、何か云いたかった様な… もっと何かを云っただろう… 涙で喉がつまり
思ったことの総ては言葉になったのか、或いは、ならなかったのか分からないまま、
頭の中だけを駆けめぐり、くるくると回っては繰り返し感情を逆撫でしていった。
「よく… 良く来てくれましたね… さぁ、此処へ来て… 」
年老いた婦人の言葉も、思いの中だけを駆けめぐり、大凡は涙で隠されてしまって
いたが、なにを云いたいのか、総ては分かっていた。
雅は膝で畳をこするように、正座の姿勢を少しだけ立ち加減にして、年老いた婦人
の前を過ぎ、永久の眠りの縁に横たわる初老の男の側まで来ると、その面影を偲ぶ白
い布を、震える指先で静かに取り除いた。
「お父さん… 」
生前、嘗て一度として口にしたことの無い言葉が無意識に口を支配していた…
それ以上の言葉は、必要なかった。求められたところで、なにが言葉として確かめら
れたで在ろう。涙は流れて居ただろうか… 既に枯れつきて居たのでは無いか… 熱
くて狂いそうな目頭と、のどの奥の激しい痛み、頭の中の血管があらん限りの膨張を
成したような頭痛… 唯々頑なに静止の直立を護り続ける躯の残り火とも云えるよう
な熱の残る身体を揺さぶり、訳の分からぬ感情を吐き出していた。
夜降る霧は 朝静かに昇り
闇に隠されたものたちが
光に帰される
明けて葬儀の日は、穏やかな小春日和の様相で朝を迎えた… 雅も既に平静を取り
戻し、いつもの様につかみ所の無い奔放な我侭が秋の空を仰いでいた。
「式は十時からだったよね… 煙草を買いに行ってくる… 志津さんも行く? 」
「あら、私は仕度が在るから… 御免なさい… 」
「あぁ、そうだね… 十時までには帰って来るから… 」
雅も、志津馨が一緒に来るとは思っては居なかった。ただの体裁を繕うための誘い
だった… 雅は1人で車に乗ると、朝霧の未だ未練を残す山間の路へとアクセルを踏
み込んだ。
錦の水面に映る
秋の彩りのひと絵
光の悪戯に見える
流れの奥の岩コケの
蒼き深みに君を想えば
冷たさが流れ行く
映した水面が君の言葉だとすれば
底行く澄み渡る流れが心だったのかも知れない
淀むでもなく微睡みに
柳舟の休まりて
運び来る枯葉の彩りも
陽射しの中で輝けば
微かな音さえ
波間の波紋を数え
秋の日の蜘蛛の糸の輝きのように
君への思いが流されて切れるでもなく
確かにつなぎ止めれるでもなく
儚く過ぎて行く
風景は十数年の間だ、何一つ変わって居ないように思えた…
今にも裕子がいきなり背中越しに目隠しをしにやってくるのでは無いか… 雅を呼ぶ
声が聞こえてきは仕舞か… そんな感傷が、一瞬秋風に吹かれたように雅を揺さぶっ
た。
裕子の家に帰ってくると、未だ式の時間まで間があるらしく親戚の者と思われる男
達が、秋の日の柔らかな朝日の中でくつろいでいた…
庭先には十数年前と変わらぬ柿の木が実を付けていた… 既に赤く色枯れた葉は疎
らで、取り残された果実だけが輝いて見えた様な気がした… 柿の木の側には石垣つ
たいに小道があった… 記憶の断片がなつかしさを刺激し、石垣つたいに小道を降り
て行くと、白く冷たい石垣の間の所々で、覇王樹の緑が目を奪い、その一瞬、忘れて
居たのではなく、忘れて仕舞おうとしていた痛みと共に、裕子の笑い声が聞こえたよ
うな気がした。
あの日も秋だった…
裕子と初めて此の家に来た夜、遅くまで酒を酌み交わしたのが、裕子の父と心の底か
ら解け合うことが出来た最初で最後の夜だった… 酔いに任せて此の石垣を真っ直ぐ
降りて登ったあの夜、なにも知らず握りしめた覇王樹が今目の前に在る。刺だらけの
手のひらを開いて見せて、ばか笑いした記憶の彼方… 優しい裕子は泣きべそで刺を
抜き、母は笑いをこらえ心配そうに覗き込み、父は呆れ顔で微笑み頷いていた…
十数年もの間だ、痛みの微かな記憶の影に隠れて、一度も日の光の中で確認すること
の無かった覇王樹が、今目の前に在る。
聖 紫