#5038/5495 長編
★タイトル (EJM ) 00/ 2/29 17:36 (187)
お題>祭り(下) 青木無常
★内容
「わしのこの、見えぬ右目に映ったのじゃよ。この世のものならぬ魔怪が、降臨す
る光景が、な」
先夜、パランはたしかにそういった。
神威を見透す白子の眼が、託宣を受けたのだ、と。
すなわち、すべての狂徒どもが天に――狩人の神に召されたとき、転生した神獣
がまさしくこの地に顕現すると。
その獣は最初の生け贄を求めて討伐軍の兵士たちに牙をむくだろう、と。
そしてもうひとつ。
「この化物を相手に、どう闘えってんだ、じいさんよ」
狂おしくダルガはつぶやき――身がまえた。
いつでも抜き打てる姿勢で、化物と――神の獣と、対峙する。
背中が、ふいに熱くなった。
ダルガの内部に秘められたるもの――太古の神、忘れられた神、封印された神で
あるヴァルディスが、眼前の神威に反応してうごめきはじめた証であった。
ダルガ自身は目にしたことがないが、その背には炎のかたちのあざのようなもの
が浮きあがっているはずだ。
そして幻視の心得のある者が見るならば、さらにそこには燃え盛る熱き炎の幻像
が見えるのだという。
ヴァルディス――すなわち、炎の神。
この世界に存在するあらゆるものを灼きつくし、灰へと変えずにはおかぬ暴虐の
神である。
その火勢のあまりの激しさに、ついには神自身をも灼きつくさずにはおかぬのだ
と伝説にいう。
パランは、ことあるごとに語った。炎の神がダルガの裡に棲むかぎり、あらゆる
妖異はついにダルガを討ち果たすことはできぬだろうと。だが――それゆえにこそ、
暴虐なる神はいつかダルガ自身をも灼きつくさずにはおかないだろう、と。
だから――
「おまえは、ヴァルディスを抑えるすべを学ばねばならぬ」
先夜、山上の闇を見すえながらパランは、そう語ったのであった。
「大いなる神を抑え、制御するすべを学ばねば、いつかはおまえ自身がヴァルディ
スの炎にうち倒されることじゃろう。それほどまでに、ヴァルディスとは危険な神
なのじゃ」
「何度もそれはきいた」ダルガは不機嫌に、そう答えた。「だが、それならばおれ
は、どうすればいい」
「剣をふるえ」
というのが、パランの答えだった。
意味がわからず、ダルガはぼうぜんとするしかなかった。
だが、いまならわかる。
巨獣が、ふたたび吠えた。
剣の柄に手をやり、燃えるような視線で立ちはだかるダルガに向かって。
咆哮は熱風となってダルガを襲った。襲いくる風圧に、木の葉のように吹き飛ば
されそうになった。
姿勢を低くしてやり過ごし、歯を食いしばりながら待つ。
はじけるのを。
炎の神威が、ではない。
おのれがつちかってきたもの、積み重ねてきたものが、はじけるのを。
背中で燃え上がるものが、いっそう勢いを増そうとする。
それを抑えるように、ダルガはさらに腰を落とした。
腹部に、冷たく、冴えた光を放つ球を想像する。
灼熱に燃えたぎる火の神の炎を、鎮静させるためのイメージだった。
「どの世界にも達人というものは存在しよう」とパランは語った。「おまえの身を
おく剣の世界に限定せずとも、その剣を鍛造する匠の世界にも。武具をつくるもの
たち。馬具をつくるものたち。砦を、城を、あるいは館を、また町にたたずむ家々
をつくるものたちにも、その道の達人と呼ぶべきものたちは無数にいよう。神々に
仕える神官、幻術をきわめた賢者、そういった神秘を具現するものたちのみならず、
料理をつくるものや日常のこまごまとした道具をつくるもの、音楽を奏でるものか
ら大道芸人まで、田畑をたがやすものたちのなかにも、達人と呼ぶべき偉大なる人
物はいるかもしれぬ。ダルガよ、おまえもそれを目指さねばならぬ。半年ほども前
に道を分かった、アリユスのことを覚えているか?」
ふいの質問にとまどいながらも、ダルガはうなずいた。
アリユスとシェラのことは忘れようもない。
ある山中に巣くう魔怪を退治するために合流して以来、しばらくのあいだ旅路を
ともにしてきた幻術使の師弟である。アリユスは妙齢の美女、シェラはダルガとほ
ぼ同年代の美少女だった。パランの託宣によりフェリクス方面に行き先を変えるま
で、ふたりとは途をおなじくしてきたのだ。
ふたりながらに魅力あふれる女性であるという点をさしひいても――とりわけア
リユスは印象に残らずにはいられない。ヴァイラム文化圏と呼ばれる、西イシュー
ル大陸のかなり広大な部分を占める地域にわたって“風のアリユス”なる勇名を馳
せた、当代随一の幻術使なのである。
事実、ダルガの眼前で幾度となく、奇跡としか思えぬ数々の秘技を開陳してきた、
驚くべき女性であった。
シェラとともに、できればいつまでも旅路をともにしていきたいと思える心楽し
き道連れでもあったのだが、どうやらフェリクス方面に支障を抱えているらしく、
またの再会を期しての別離をつい半年ほど前に終えたばかりである。忘れようとし
ても忘れられない人物だ。
「そのアリユスが、どうした」
困惑を隠せぬまま発したダルガの質問に、パランはこうこたえた。
「あれもまた、達人のひとりといってよいだろう。彼女の放つ“風の矢”や“風の
槍”が妖魅魔怪のたぐいを切り裂く姿を、おまえも覚えておろうが」
「もちろんだ」
「あれとおなじことを、おまえは剣で実現しろ」
突拍子もないことを、こともなげに老人は口にしたのだった。
「ばかをぬかせ」なかば本気で、ダルガは腹を立てた。「あれは幻術だ。この世の
ものならぬ力の発露だ。そりゃ、実体を備えた魔物なら剣で斬れぬことはないが、
アリユスと同等の効果をだせといわれても――」
「不可能だと、思うかおまえは?」挑発するように、パランはいった。「そうでは
ない。あれはひとつの到達した姿だ。偉大ではあるが、たどりつけぬ高みというわ
けでも、決してない。ひとはだれでも、おなじ場所に達することのできる可能性を
秘めているものじゃ。そしてその道筋は、ひとつとは限らぬ。アリユスの場合は幻
術がその道程であったのだろうが、そうでない道もいくらでもあるのさ。あるもの
は神に仕えることでその域に近づき、あるものは無心に剣を鍛えることでたどりつ
こう。ひとびとに口福を供与しつづけることで、その域に近づくことのできるもの
もおるかもしれぬ。そして、おまえに与えられた可能性は――剣の道ではないか
な?」
こたえることはできず、ダルガはただだまりこんだ。
占爺は、静かに笑った。
慈愛にみちた表情で。
「道はさまざまでも、窮まる場所は結局、ひとつだよ、ダルガ。その場所に、おま
えはたどりつかねばならぬ。もし達することができれば――神の炎であろうと、御
することはできるじゃろ。さもなければ――」
それ以上を、老人は口にしなかった。
むろん、口にされずとも少年にはわかっていた。
だから、ダルガは、選んだ。
暴虐の神がおのれの内部から噴出し、荒れ狂うにまかせて妖魅魔怪を圧殺するき
のうまでから、脱却する途を。
熱塊のごとき咆哮とともに、化物が――狩人の神クォーナレフが、ずしりとさら
に前進する。
内圧がいっそう膨れあがるのを、ダルガは歯をくいしばりながら牽制する。
荒れ狂う炎が、ダルガの意識をいましも噴き飛ばそうとした。
暴虐の嵐に身をまかせてしまえば、無我夢中のうちに眼前の危機を脱することは
容易だろう。
だが、ダルガは必死になってあふれだそうとする神威に対抗しつづけた。
歯をくいしばり――剣の柄に手を当てた姿勢で、待つ。
剣が、解き放たれるのを。
獣がずしりとさらに一歩をふみだし、巨大な顎が眼前でぱっくりとひらかれた。
それでも、抜かない。
――その境地に達したとき、意識せぬままに剣は放たれる――そう教えられたこ
とがダルガにはあった。パランのいう達人の域とは、それであろうと考えていた。
斬らねばやられる、そう意識してぬいた剣は、その境地とはほど遠い。ゆえに、
意識せぬままに抜き打てるまで、ただ待ちつづけるだけ。
死を賭した方策であった。
轟と化物が咆哮した。巨大な牙が立ちならんだ顎が閉じられれば、そのままダル
ガなどのまれてしまうだろう。
それでも、抜かなかった。
これで終わりかもしれない。そう思った。雑念だった。無我の境地とはかけ離れ
ている。
奥歯をかみしめる。
獣は、いぶかしげに顎を閉じてわずかに後退し――
つぎの瞬間、鋭利な鈎爪のならぶ上肢を、ぐいとふりかぶった。
目を閉じそうになる。
懸命にこらえ、爛々と燃え盛る巨獣の双眼をにらみつける。
死が、心奥で明滅した。
ふりかぶられたそれが、風を裂いて襲来し――
飛びでるほどにその双の目を見ひらいたまま、ダルガはぼうぜんと凝視した。
氷結したように神獣は硬直したままぴくりとも動かず――
――薙いだ軌跡の残像が、光のように網膜にはりついていた。
剣を抜き打った記憶はない。
にもかかわらず、銀閃はたしかに、獣の頭部をかけ抜けていた。
はっきりと、それを目撃していた。
目撃しながら、まるで夢のなかのできごとのような気がしていた。
硬直した巨体が、ふいにぐらりとかしぎ――
ずれた。
銀閃の残像を追うように。
ずずだんと、醜悪な巨体が左右に別れて倒壊した。
できたのか――?
茫漠の底に、わずかな歓喜が光をさした。
瞬間――
炸裂した。
炎が。
ふたつに別れた獣の屍骸を――巨大な炎がつつみこんだ。
轟々と、まるで勝ちほこったように燃え盛る。
ぼうぜんと目を見はり――ダルガは、ぎりぎりと奥歯をかみしめた。
「まだ――」狂おしく、言葉がのどをついて出る。「まだ、おれはほど遠い――」
「それでいいさ」
しわがれたつぶやきが背後から呼びかける。
ダルガは、ふりむかない。
化物と対峙する前から、パランの気配が近づいていることには気づいていた。そ
れほど意識が研ぎ澄まされていたのだろう。
それでも、占爺のいう“達人の域”にはほど遠いのだ。
どすぐろい絶望が噴きあがろうとするのを押しとどめるだけで、せいいっぱいだ
った。
「それほど簡単には、たどりつけぬものだろうさ。だからこそ、ひとは求道者たり
得るのだろうよ」
言葉がやさしく慰撫を投げかける。
だが少年は、こたえることすらできず、ただわきあがる無力感と必死に戦うばか
りだった。
「ゆるりと、まいろうぞ」
古風ないいまわしをパランは口にする。
笑いたい衝動が、かすかにダルガの心の底に兆した。
それに身をまかせるかわりに少年は――歯をくいしばり、にじみ出ようとする涙
をこらえた。
凝視する先で――神の獣をつつむ炎からまきあがる煙柱のさらに上方に、ゆらゆ
らといくつもの、もやのようなものがゆらめいているのに気づいた。
「魂で、あろうな」
占爺がつぶやく。
たましい、と息だけでダルガはくりかえした。
ゆらめいていたもやは、やがて、ふいにふわり、ふわりと上昇をはじめた。
黒雲うずまく、天上へ。
立ち昇る煙に乗るようにして、いくつもの、いくつもの魂が飛翔していく。
「帰ろうとしているのかもしれんな。暗黒の月へ、よ」
しわがれた声音で、老人は静かにつぶやいた。
「そこに、何がある」
問いともきこえぬ口調で、淡々と少年は口にした。
占爺は答えず、ふたりは天へと消えていく無数の魂をただながめあげつづけた。
祭り――了