#5039/5495 長編
★タイトル (PRN ) 00/ 3/26 20:24 (151)
死体のある風景 (前編) 已岬佳泰
★内容
一度深い眠りに落ちる。そして、ぱっと目が覚めたらそこはまっ
たく別世界、なんてことはめったに起きはしない。しかし、今夜だ
けはそういうことにならないものかと、荒谷幸生は切実に思った。
ベッドサイドのランプにぼんやりと浮き上がるベッドカバーのふく
らみ。ベッドから垂れ下がる細い腕と伸びきった細い指。爪には丹
念に銀色のマニキュアが塗ってある。だが、もうその指が動くこと
はない。
窓のそばに置かれた1対の藤椅子に腰を下ろして、荒谷はゆっく
りと煙草を吸った。何度か目をつぶっては開いてみたが、やはり目
の前の現実に変化はなかった。この手であの女を絞め殺したという
現実。今思い返しても、なぜそんなことになったのか自分でもわか
らない。ベッドカバーの下に横たわる女の身体。それは荒谷の行為
が取り返しのつかないことを物語っている。
人間の殺意なんて、結局、一瞬のつむじ風のようなものなのかも
しれない。そんな気がした。ちょっとしたきっかけで巻き上がる感
情のつむじ風。
殺意?
いったいそれが殺意だったのかどうか、荒谷にはよくわからない。
身体中に溜まった徒労という負のエネルギーが出口を求めていただ
けのような、そんな気もする。
ほんの数分前。女は生きていた。ピンクチラシの女。電話一本で
まるでピザの配達のように簡単にやってきた女。料金を受け取ると
さっさと全裸になり、しなやかな曲線を橙色のルームランプが浮き
上がらせていた女。
早くしてよ。
ベッドの上で、赤い唇がそう動いた。
その時だった。突き上げるような感情のかたまりが荒谷を襲った
のは。
自分の指を眺める。
柔らかい女の喉の感覚が残っていた。喘ぎ声、荒谷の腕に食い込
んだ爪、荒谷の尻の下で跳ねる腰。すべてが生々しくよみがえる。
それほど力を入れていたつもりはなかったが、女の抵抗は次第に弱
まり、最後は眠るように身体全体から力が抜けた。荒谷は夢の中に
いるような気分で、呆然と動かない女の身体を見つめていた。
時間の経過とともに荒谷に現実が戻ってきた。なんて馬鹿なこと
を・・・。後悔の思いに胸をかきむしられる。正視に耐えられなく
て、女の白い身体をベッドカバーで隠しながら、これからどうすべ
きかを考えた。問題ははっきりしていた。このままではまずい。自
首しよう、という思いが一瞬よぎった。いや、まずい。
荒谷は思い直した。殺人犯というレッテルは、荒谷がこれまで築
いてきた社会的な信用を粉みじんに踏みにじってしまうに違いない。
しかし、どうすればいいというのだ?
この部屋で女の絞殺体が出れば、まず間違いなく荒谷が第一の容
疑者になるだろう。ホテルには本名でチェックインしていた。だか
ら、死体がこの部屋で見つかったが最後、荒谷は逃げられない。ど
うにかして女を部屋の外に持ち出さなければ。しかも、誰にも気づ
かれない方法で。うまく持ち出せさえすれば後はなんとでもできそ
うだ。海に流すとか、山奥にでも埋めてしまうとか。
だが大人の女ひとりの死体だった。担いで運び出すというわけに
はいかない。はたして、ホテルの部屋から他人に知られず持ち出す
なんてできるだろうか。
荒谷は最近起きた事件で、似たような話があったことを思い出し
た。別荘に呼ばれた男が自分にあてがわれた部屋で女主人を殺して
しまう。部屋で女主人の死体が見つかれば、自分が疑われてしまう。
別荘には他にも泊り客がいて、部屋から女主人の死体を運び出すの
は難しい。今の荒谷の状況によく似ていた。
結局、女主人の死体は男の自宅で発見された。つまり、男は見事
に死体を誰にも知られずに別荘から運び出したのだ。
いったいどうやったのだったか。
荒谷は事件を必死で思い出した。
そうだ、宅配便だった。犯人は宅配便を呼んだのだ。
宅配便に梱包用のダンボールも持ち込ませて、それを別荘の部屋
の中で自分で組み立てた。その中に死体を隠して、伝票を書き、ま
んまと宅配便で自宅へと送ったのだ。
宅配便か。
荒谷はベッドの脇の置き時計を見た。午後10時を少し回ってい
た。宅配便を頼むには時間が遅すぎる。もうこの時刻では引取りに
は来てくれないだろう。これはだめだ。
荒谷はため息をついた。
シティーホテルの客室は機能的に作られていた。宿泊客が一晩過
ごすために最低限必要かつ十分な備品の類い。歯ブラシ、髭剃り、
ヘヤドライヤ、シャワーキャップ、小型の石鹸、タオルなど。備え
付けの小型の冷蔵庫にはジュースや缶ビールが詰め込んであった。
この他に14インチのテレビ、電話機、メモ用紙とボールペンが1
本。クローゼットには荒谷のジャケットをかけたハンガーが2組あ
り、パイル地のガウンが折りたたんで置いてある。
それらを漠然と見まわしながら、荒谷は途方にくれていた。
荒谷の前に大きな壁が立ちはだかっている。女の死体を移動する
には、ホテルの廊下を歩き、エレベータに乗り、フロントの前を通
らなければならない。そんなことを怪しまれずに行う方法があるだ
ろうか。しかも、道具は今この部屋にあるものだけしか使えない。
外へ買いに行くにしても、この時刻では開いている店はコンビニ
くらいに限られる。
たとえば窓のカーテンや目の前のベッドカバー。これらは女の身
体に巻きつければ、目隠しにはなるかもしれない。しかし、それで
も大人ひとり分のカサになる。大きくて重くて、こっそりとなんて
持ち出せない。
大きくて・・・。
恐ろしい考えが荒谷の頭に浮かんだ。
死体を切断して、小さくしてしまえばどうだろう。新聞で読んだ
バラバラ殺人事件を思い出した。殺してから死体を切り刻んで、小
型の冷蔵庫に死体を数週間、誰にも気づかれずに隠したという事件
だった。あれを応用できないか。
女の死体をいくつかに切って、持ってきたカバンに入れて持ち出
す。これなら、誰が見ても不審には思わないだろう。うまくゆくか
もしれない。浮き立つような気分で、荒谷は足元のカバンを見た。
中にはA4サイズの書類と簡単な洗面道具しか入っていない。し
かし・・・。
荒谷はまたもや自分の計画の破綻を知った。
カバンは厚みが4cmくらいしかない書類用のアタッシュだった。
あれでは女の頭すら入らない。それに第一、何を使って死体を切る
というのか。刃物といったら、せいぜい備え付けの髭剃りくらいし
かなかった。せめてノコギリくらいは必要だろう。夜の10時過ぎ
にノコギリを売っている金物屋を、ホテルの近くで探し出せる自信
はなかった。買い物に外出した隙に、死体が見つかる惧れもある。
さらに追い討ちをかけるようなことに荒谷は思い当たった。
荒谷がピンクチラシの女を呼んだとき、このホテルの部屋番号と
自分の名前を相手に教えた。ということは女が荒谷の部屋に向かっ
たことを知っている者がいる。女が死体で見つかったら、やはり荒
谷を真っ先に疑う者がいるということ。
荒谷はポケットからピンクチラシを取り出した。
黒い背景にドレスアップした女がひとり。
「淑女があなたのお部屋を訪問します。ローズ・エスコートサービ
ス」
金色のキャッチコピーの下に大きく電話番号が印刷してある。ベ
ッドカバーのふくらみと電話番号を交互に見る。
荒谷の頭にひとつの思いつきが浮かんだのはその時だった。
これならうまく行くかもしれない。
荒谷は電話機を取り上げた。ルームサービスを呼び出して、スー
プをオニオン、コンソメ、ポタージュと3種類、オーダーした。ス
ープがポットではなく、スープ皿でサービスされること確認すると、
電話を置く。次にピンクチラシの番号を押し、出てきた男に対して
「女がまだ来ないが、いったいどうしたんだ」と怒鳴った。男は荒
谷のホテル名と部屋番号を確認すると「間違いなく向かっておりま
すので、もう少し待ってみてください」と猫撫で声で言った。「あ
と15分待って来ないようなら、部屋に鍵をかけて寝てしまうから
な」荒谷は捨て台詞を残して電話を切った。
さらにもうひとつ。今度はフロントに電話した。
「今夜、混み具合はいかがかな」
そうしてホテルが満杯ではないらしいことを確認すると、髭剃り
を手にして荒谷は呟いたのだった。
「これでうまくゆかなかったら、あきらめよう」
[前編・終わり]