#5020/5495 長編
★タイトル (AZA ) 00/ 1/30 10: 5 (200)
そばにいるだけで 44−4 寺嶋公香
★内容
感触に反応して、肩がぴくんと動いてしまう。手を引く相羽。
「どうしたの? あっ、冷たかったか?」
言って、指先をこすり始めた相羽に、純子は慌てて首を振った。長髪が束に
なって相羽の履くジーパンに当たり、ぱたぱたと音がする。
「違う違う、そんなことないわ。いきなり触られて、びっくりしただけ」
「そう? それなら……今から触れますよ、とでも言えばいいのかな」
純子は一応、うなずいておいた。
だが、二度目に相羽に耳を触れられた際も、最初と同様に身体が動いてしま
った。何となく、緊張しているみたい。
「やっぱ、やめとこうか」
「いいの! やって」
わけも分からず、意地になっている。純子は両目を瞑った。三度目もやはり
緊張感が走ったが、どうにか我慢できた。
「耳かき、入りまーす」
相羽の方はまともな耳掃除をあきらめた様子で、笑いを含んだ声で告げた。
「いいわよ」
と純子が応じた矢先、また身体が動いた。今度は耳に風が当たった気がした。
相羽の鼻息を感じてしまったらしい。覗き込むために、耳に顔を近付けるのだ
から、それも当然なのだが。
「くすぐったい!」
「はいはい。敏感だなあ。だから、もうやめようって」
「……嫌。もうちょっとやってみて。次こそ我慢するから」
「我慢しなければいけない耳掃除って、凄く痛い感じ……」
「たとえ痛くても、私我慢する。それよりくすぐったいのをどうにかしてー」
「それじゃあ……ゆっくり入れるけれど、息を掛けないように顔を離すから」
身を固くして待っていると、耳の穴に固い物が触れた。
「あっ」
思わず声を上げ、背中がぞくぞくっとするのを、必死にこらえる。
(身体が勝手に動いちゃう)
「そんなに動かれると危ないから、やめようよ」
相羽が言ってくれたが、まだがんばるつもりの純子は両拳を握って「もう一
回」と固い口調で言った。
「た、ただね。耳かきの先が冷たくて、それが触れて、ひやっとして身体が動
いてしまうのよ」
「じゃあ、こうすればいい?」
相羽は耳かきの先を摘むと、指の腹を使ってこすった。摩擦で温めようとい
うのだろう。
「そ、そうよ」
「これぐらいでいいかな」
耳かき棒を持ち直した相羽。左手の指がこれまで以上に柔らかな動作で純子
の耳に触れ、右手の耳かきを差し入れる。
「――あん! いやっ」
とうとう背を丸め、相羽の膝上からずり落ちるようにして、床に伏してしま
った純子。
「やっぱり、だめ! 入れちゃだめ!」
「だから言ったのに。慣れた人にやってもらうのが一番……」
相羽が呟いた瞬間、玄関の方が騒がしくなる。かこーんと乾いた音が聞こえ
たが、扉に何かが当たったらしい。続いて慌ただしい足音がして、相羽の部屋
の戸口に、母親が顔を覗かせた。そちらに背を向けていた息子は、肩越しに振
り返る。
「――お帰りなさい。仕事、早く終わったんだ?」
手に買い物袋を下げたまま立ちすくみ、口を開けて何も言わない母に、相羽
は一拍遅れて反応した。すぐあとに、純子も挨拶をする。
「お邪魔しています」
座ったままだったが、床に手先を着けて、とにかく頭を下げた。
「あなた達……何もしてなかったのよね?」
「え? 耳掃除をしていましたけど」
純子が答えると、相羽の母は大きく、細く、息を吐き出し、荷物を全部床に
置いた。手の平で顔を扇ぎ始める。
「耳掃除ね。まあ、まさかとは思ったけれど、慌ててしまったじゃない」
純子と相羽は顔を見合わせ、軽く首を傾げた。息子が立ち上がり、尋ねる。
「どうして?」
「ドアを開けたら、純子ちゃんの声が……いえ、いいわ」
額を押さえていた手を下ろし、荷物を再び取ると、相羽の母は台所へ向かう。
相羽もあとを追った。
ぽつんと残された純子は、とりあえずティッシュペーパーを丸めてくずかご
に入れた。そして頬に右の人差し指を当て、少し考えてからやはり台所へ。
「手伝います」
「ありがとう、純子ちゃん」
疲れた表情を浮かべながらも、相羽の母が微笑む。
「でも、いいわ。信一から聞いたけれど、掃除の手伝いもしなくていいから」
「いえ、それは私からのクリスマスプレゼントで……」
「クリスマスプレゼント? ふふ、面白いわね。だけど、自分の部屋は自分一
人でしなければね」
* *
ああ、驚いた……。
ドアを開けた途端、あんな声が聞こえたときは、慌ててしまったけれど、そ
んな、私が想像したようなことがあるはずないわ。奥手とお鈍さんの二人だも
の。よほどのきっかけがない限り、突然進展なんてあり得ない。そうなのよ。
そもそも、信一が告白して、晴れてカップルになるどころか、その逆の結果
になったと知っているのに。
……そう言えば、信一が吹っ切ったと言っていたのは、当然、告白して振ら
れたという意味と思っていたけれど、違うのかしら? あそこまで普通に振る
舞えるなんて。
感情をちょっとぐらい表に出してくれないと、親の私が不安になってしまう
じゃないの……。
* *
今年もあと四日というときに、相羽は再び唐沢から呼び出しを受けた。
「電話ですむことじゃないのか?」
「会って話さないとだめだな。出て来られないか?」
「今は無理。何て言うか……ある知り合いから連絡待ちの状態で、家を空けら
れない」
知り合いと表現したものの、実際にはそんな馴れ馴れしい言い方は失礼だと
思う。何しろ、J音楽院のアルビン=エリオットからの連絡なのだから。
「留守番か」
「それもある」
「しょうがない。俺がそっちに行っていい?」
「ああ、別にかまわない」
という具合に約束してから二十分後、唐沢がやって来た。
「食う?」
玄関を開けた相羽の鼻先に、いきなり突き付けられたのは中華饅頭だった。
まだ立ち昇る湯気の向こうで、唐沢が真顔で佇んでいる。上がり込みながら、
唐沢自身も中華まんの一つをくわえた。
「遠慮するな。土産だ」
「……中身の具は?」
「えっと、カレーまんだっけかな」
唐沢はそう言うが、カレーまんなら皮を黄色く着色してあるはずだ。目の前
にあるのは、白っぽい。
「いいから、食べてみれば分かる」
そう言う唐沢に押し付けられて、一口かじった。具に到達しなかったので、
もう一口。あんまんだった。
「カレーと餡を取り違えるのは、かなりひどいな」
「急いでたんで、適当に買ったんだよ。ま、結構シリアスな話になると思うか
ら、中華まんで少しでも和んでもらおうという気遣いと思ってくれ」
「シリアスね」
中華まんを食べながらということで、二人は相羽の部屋に入るのではなく、
キッチンのテーブルに着いた。
相羽がお茶を用意しているところへ、唐沢が不意に切り出す。
「どうよ、その後、涼原さんとは?」
「……意味不明瞭な質問だな」
振り返り、急須と湯呑み二つを持って行く。
唐沢は自分の中華まん(こちらは肉まんらしい)にぱくつき、口をもぐもぐ
させてから、やっと次の言葉を発した。
「そのままの意味なんだがな。告白して、ふられて、そのあとどうなった?」
「……おい。こっちからも聞きたいことがある」
相羽はお茶を注いでやるのを途中でやめた。テーブルに両腕をつき、にじり
寄るようにして身を乗り出す。
「唐沢が単刀直入に聞いてくるのなら、僕も同じやり方で聞く。この間、美術
館に涼原さんと二人で来ていたよな」
「――ああ。おまえが見た通りだぜ」
「付き合い始めたのか」
「おいおい。もしそうなら、おまえにさっきの質問をすると思うか?」
「たとえば、涼原さんと付き合えるようになったことを自慢したいから、あえ
て質問したという可能性」
「あのな! 怒るぜ。俺をそういう風に見ていたのか」
「冗談だよ。確かめだだけさ」
「……笑わせるつもりなら、分かり易くやってくれよ」
しらけた空気がしばらく蔓延した。
相羽は気にせずに切り出した。
「唐沢は告白したのか」
「してねえよ。して、断られたら、ただでさえ危ない受験が、ショックで完全
に失敗しちまう。告白を受けてもらっても、やっぱり勉強に気合い入らなくな
るだろうな、俺の性格だと」
「その割に、美術館に誘ってるじゃないか」
「……ふん、それもまた俺の性格よ」
「はは、納得」
「でもな、これまで誘っても全然だめ、梨の礫だったのに、あのときは乗って
きたから正直、驚いたんだよな。おまえがふられたあとだと知っていたし、脈
ありかなと期待したんだが……」
語尾を濁し嘆息した唐沢に、相羽は不審の目を向けた。意味が分からない。
「期待していいんじゃないのか。僕と違って」
「おまえと違って、期待を持てなくなっちまったかもしれんわ、俺」
羨ましそうな眼差しを向けてくる唐沢。相羽は小さく首を捻った。
「分かんないことを言う……」
「とにかく、俺は涼原さんと付き合ってない。美術館のときはたまたまだ」
「……わざわざ言いに来たの?」
ワンテンポ遅れて唐沢を指差す相羽。唐沢は疲れたようにうなずいた。
相羽も疲れた苦笑いを返した。
「おっと。用はこれだけじゃないぜ」
唐沢は気を取り直そうとしてか、大きな身振りで膝に手を着き、身を乗り出
した。胸から上でテーブルに庇を作るような感じだ。
「交換条件みたいなもんだけどな……おまえと白沼さんとのことを聞かせてく
れ。だめか?」
「何もない」
即答する。有無を言わせぬ強い口調。
その後の約十秒は、二人とも押し黙っていた。唐沢が中華饅頭の底に付いて
いた紙を丸めた。
「二人で美術館に来ていたのは、どんないきさつがあった? あの直後に聞い
たときは、運が悪いとかどうとか言ってたみたいだが、さっぱり要領を得なか
ったぞ」
「白沼さんと来たのは、誘われたからで……」
「それは、涼原さんにふられたからか? 突っ込んで悪い」
「いや。あんまり関係ない。白沼さんの誘いをずっと断ってきたから、最後に
なるかもしれない今度ぐらいは……と押し切られた」
「うん? 最後って?」
「J音楽院」
「ああ……」
「それで、美術館に一緒に入って……まさか涼原さんに会うなんて、驚いた。
あのとき思ったな。つくづく運が悪い」
相羽は話し終えて、お茶をすすってみせた。唐沢は声を立てて笑った。
「おまえも苦労するねえ」
「おまえも? 『も』って」
「気にするな。しかし、これで安心できた」
立ち上がると、わざわざ近付いてきて相羽の肩に手をやり、うんうんとうな
ずく唐沢。
「何が」
相羽がじろりと見上げると、唐沢は含み笑いをしながら、
「おまえがあきらめの悪い奴だと分かって、ああ、安心したぜ!」
と、相羽の肩を何度も叩いた。
アルビン=エリオットからの電話は、唐沢の辞去を待っていたかのように掛
かってきた。
* *
――つづく