#5018/5495 長編
★タイトル (AZA ) 00/ 1/30 10: 0 (200)
そばにいるだけで 44−2 寺嶋公香
★内容
お礼をするのも兼ねて、相羽を初詣に誘うため、純子は一人、マンションに
向かった。
(昨日は相羽君が家まで送ってくれたって言ってたもんね。私は覚えていない
けれど)
そのときの状況を想像するだけで、顔が赤らむ。無論、家の前までは誰かの
車に乗せてもらったと見るべきだろう。そのあとがどうだったのか、気になっ
てたまらない。
(いつかみたいに、お姫様だっこをされたんじゃ……)
林間学校での思い出がよみがえる。鮮明なビジョンに一層赤面する純子だっ
たが、途中で収まった。あのときの必死な相羽のことが、より強く思い起こさ
れたからだ。
(相羽君、私のためにあんなにまでしてくれたのは……)
それを考えると胸が痛む。実際、手をあてがい、深い息をついた。
(今でも変わらず、想ってもらえているのかな。それとも、もう私なんかには
呆れちゃって、だから、白沼さんに移った?)
気が重くなってきた。
純子は歩きながら、頭をきつく振った。
(今悩んでも仕方ないわ。笑顔で誘わなくちゃ)
気を取り直し、ほんとに笑顔を作って、歩みもスピードアップ。マンション
に到着する直前には、駆け足になっていた。
耳当てを外し、髪の乱れを整えてから、改めて着け直す。ついでに、ピンク
色をしたジャンパーに両手をあてがい、しわを伸ばした。
「あら?」
エレベーターに直行すると、点検中の貼り紙が出ていた。
仕方ないので、貼り紙に書いてある指示通り、非常階段に回る。コンクリー
トの打ちっ放しの階段は、風が吹き込んできて寒かった。上を見ながらゆっく
り昇っていく。
二つ目の踊り場に出たとき、目の前に人影が。右によけようとして、相羽だ
と気付いた。上はセーター、下はジーンズ。出かけるところらしい。
「あ、ちょうどよかった」
耳当てを外し、両手の平を合わせる純子。もちろん、満面の笑みを浮かべて。
「今、時間いい?」
純子が問い掛けたにもかかわらず、相羽の方は失語症になったみたいに、口
をぽかんと開け、目をぱちぱちさせている。口をつぐんだかと思うと、不意に、
目の下が赤くなった。
「や、やあ」
裏返った声で、間の抜けた返事をする相羽。頭をかく彼の手には、純子が贈
ったミサンガがあった。
「久しぶり。何か用?」
早口の相羽に、純子は怪訝さを強めた。
「久しぶりって、昨日会ったばかりでしょ?」
「そうだったね」
「用があるから、さっき聞いたのよ。時間、大丈夫?」
「あ、ああ。別に何もない」
ならばと純子が話を始めようとすると、下から住人が上がってきた。二人し
て壁際により、軽く会釈をする。
「ここだとまずいわ。一階まで降りましょうよ。それとも、相羽君がよければ
お家の方に……」
「――じゃ、上がろう」
相羽はやっといつもの相羽に戻り、きびすを返すとステップを上がり始めた。
純子は冷たい手すりに手を添えながら続く。
三階に着いたところで不意に相羽が振り返り、手を差し出してきた。
「引っ張って上げようか」
「え? い、いいわよ、そんなことしなくても」
「手が冷えると思ったんだ。手袋、持って来てないんだろ?」
「そうだけど……もう、いいから早く行きましょ!」
叫ぶように言って、相羽の腰の辺りを後ろから両手で押す純子。そのせいで
もないが、早くも五階に着いた。
「おばさまはやっぱりお仕事?」
鍵を取り出す相羽を見て、純子は尋ねた。
「うん。冬休みはもう少し先だってさ。大人は大変だぁ」
ドアを開けながら、おどけた返事をする相羽。
「でも、世間一般の常識を言うのなら、僕らも受験生、冬休みだからって遊ん
でばかりはいられないのかな」
「そう、そのことなんだけど」
玄関に入り、ドアを後ろ手で閉めながら純子は切り出した。
「初詣、行きましょうよ」
「……随分、唐突だ」
相羽がスリッパを差し向ける。純子は「お邪魔します」と呟きつつ、足を入
れた。以前からのうさぎのデザインに、今日もまた微笑んでしまった。
「新年と言えば初詣よ。遊んでばかりいられないと言ったって、息抜きは必要
でしょう? それでね、みんなで初詣に行って、気分新たにしようって相談が
まとまって……相羽君も来てほしいの」
頼みながら、断られるだろうなという予測が広がる。
(多分、白沼さんと行くわよね)
相羽は即答せず、先に感想を述べてきた。
「初詣が息抜きというのは、変な気がする……。紅茶、飲む?」
さり気ない調子で聞かれて、純子は思わず即答していた。もちろん、イエス
の返事だ。そして答えてから、焦りを覚えた。遠慮をしなかったことが、ひど
く恥ずかしい。
純子に椅子を勧めて台所に立った相羽は、背を向けたまま会話を続けた。
「それでも初詣、いいな。僕も一緒に行くよ」
「いいの? 本当に?」
「もちろん。おかしいな、まるで来てほしくないみたい」
「そんなことないわ」
肩越しに振り返った相羽に、慌てて両手を振る純子。
「来てくれるんなら、大歓迎。嬉しい。一年の計は元旦にあり……って、初詣
とは直接の関係はないわね。あはは」
それから、待ち合わせの時間と場所を伝えた。
「これでかまわない?」
「問題なし。ま、受験生らしく、合格祈願をしておきますか」
耳をかきながら、空いている手でやかんを持ち上げる相羽。手際よく紅茶を
入れると、テーブルに向かう。
純子は手伝うのも忘れ、相羽の台詞が気に掛かった。
(合格祈願をするということは、本当に行くのをやめたのよね!)
自分一人が思い込んでいるだけなのかもという恐れが心にくさびを打ち込ん
でいただけに、確信を持てて嬉しくなる。
「相羽君、緑星を受けるの?」
「――うん」
「よかった」
この耳でしかと聞いた。確信から確証へ。もう間違いない。純子は満面の笑
みを浮かべながら、ティーカップに手を伸ばした。
二人とも同じタイミング、同じ仕種で紅茶を口に運ぶ。目が合って、ちょっ
と吹き出しそうになった。
「おいしい」
「そうかな」
「あなたはいつも飲んでるから、きっと、舌が贅沢になってるのね。ふふふ」
ひとしきり笑ってから、純子は二つ目の目的を果たすことにした。
「ところで、昨日のことだけれど……送ってくれて、ありがとう。何だかとて
も迷惑を掛けたみたいで」
「ああ、あれは、大したことじゃ、ないよ」
ぼんやり眼になって、少々奇妙なアクセントで答えた相羽。その様子が、純
子の不安をかき立てる。
「も、もしかして、みっともないところを見せちゃった、私?」
「え?」
「寝てしまったから、ほとんど覚えてないのよー。ひょっとして、いびきがう
るさかったとか、寝相が悪かったとか……ねえ?」
椅子をがたがた言わせて、心持ち相羽へ接近する純子。
相羽はカップの液面を見つめながら、ゆっくり口を開いた。
「すると……昨日何があったか覚えていないわけ? 全然?」
「全然てことはないわ。相羽君が外国の人を連れてきて、紹介してくれた辺り
までは覚えてる。名前はエリオットさんよね」
「そっか」
一人首肯する相羽。腕組みをしたかと思うと、急に解いて、紅茶を一口飲む。
「それで私、どんな風に寝てしまったの? 本当に覚えてなくて……」
「うーん、とりあえず」
「とりあえず?」
身を乗り出す純子。唇をきゅっと噛みしめた。相羽はそんな純子を横目でち
らりと見やり、明後日の方向に視線を移してから、とぼけた調子で答えた。
「鷲宇さんが苦笑してたよ」
「……えー? やだなあ。呆れられたんだわ、きっと」
「そんなことないと思う。鷲宇さん直々に、家まで送ってくれたんだし」
「うわーっ、鷲宇さんにまで、そんなことさせちゃった?」
頭を抱えたくなってきた。聞けば聞くほど泥沼にはまりこんでいきそう。
「いや、だから、僕も鷲宇さんも他の人達も、何とも思ってないって」
「それならいいんだけれど……じゃあ、私、どういう状況で寝てしまったのか
なあ?」
「……恐らく、疲れたんじゃないかな。椅子に腰掛けたまま眠るなんて、働き
過ぎの証拠。初めてのボランティアというかチャリティで力が入っていたのか
も」
「そうだったかしら……」
椅子に座ったまま寝た記憶は、まるでなかった。でも相羽がそう言うのなら、
事実なのだろう。
「あ、だけど私、ジュースとかお皿を持ったままだったんじゃない? こぼさ
なかったかな」
「あ――それは大丈夫。心配無用。気が付いた人がいて、危ないところで取り
上げてくれたから」
「危ないところだったのね。あの絨毯、汚さなくてよかった!」
ひとまず安心できた。と思ったのも束の間で、数秒後には慌て気味の大きな
声を出していた純子。
「そうだわ! 今年はクリスマスの贈り物、相羽君に何もしてなかった!」
「僕も純子ちゃんに何も渡していない」
そうして、紅茶を味わうようにして飲む相羽。
(あなたは他に渡す人がいるでしょうに)
また白沼の顔を思い浮かべてしまった。けれど同時に疑問も湧く。
(今度の初詣もそうだけれど、何故クリスマス、相羽君は白沼さんと一緒にい
なかったんだろう? 今年は白沼さん、外国旅行しないと言ってたんだから。
その少し前には、美術館に二人で行ったくせに)
「ねえ、他の女子とプレゼント交換みたいなこと、した?」
探りを入れてみる。白沼の名前を出すことはしない。
「今年はそれどころじゃなかったからなあ」
相羽は疲れたような顔をした。思い出していたのかもしれない。
「進路で、ここまで悩むとは想像してなかった」
「……どうしてピアノをしようと思ったの?」
今さら蒸し返すことじゃないかも……と恐れつつ、純子は敢えて聞いた。
すると相羽は目をしばたたかせ、しばらく絶句した模様。また耳をかき、小
声で、「本当に何も覚えてないんだー、ああ」と嘆息した。
「何よ、それ?」
「……実を言いますと、昨日、鷲宇さんの家のパーティで、純子ちゃん、同じ
ことを聞いてきたんだ」
「嘘っ」
息を飲み、両手で顔の下半分を覆った純子。テーブルクロスがはためき、椅
子の脚が床にこすれる音がした。
「記憶にないわよ?」
「だから、覚えてないんだなって言ったんだよ」
「でも、そんなことって……」
両手をテーブルにゆっくり下ろし、考え込んでしまう。
相羽は苦笑を続けながら、質問への答を口にした。
「僕の父さんがね、ピアニストを目指していたんだ」
「え――あ」
脳の片隅を刺激された。その話、確かに聞いた覚えがあるような……。その
感覚は、相羽の話を聞くにつれ、さらにはっきりしてきた。
(やっぱり聞いてる。でも、どうして? 眠っただけでこんなに忘れてしまう
なんて、あまりにも物忘れがひどいと思うんだけど)
記憶力に自信がなくなってきた。
「昨日は色々あったから、一時的に忘れても無理ないよ」
相羽の言葉は気休めかもしれなかったが、純子は素直に受け取ることにした。
(今はそれよりも)
「相羽君。本当にいいの……?」
「何のこと?」
肩をかすかに動かし、聞き返す相羽。
「J音楽院に行かなくて、いいの? よく覚えてないんだけれど、昨日の私、
あなたに無茶苦茶なこと言ったんじゃないのかな……」
「気にするな」
短く言い置くと、相羽は立ち上がった。何をするのかと思ったら、「お茶う
けを忘れてた」と呟きながら、クッキーを戸棚から取り出してきた。
「誰でもない、僕は僕の意志で決めた。だいたい、転校してみんなと離れ離れ
になるのにはもう飽き飽きしてる」
――つづく