#5017/5495 長編
★タイトル (AZA ) 00/ 1/30 9:59 (189)
そばにいるだけで 44−1 寺嶋公香
★内容
* *
相羽は勉強机から離れると窓際に立ち、カーテンを開けて、息で曇るくらい
ガラス戸に顔を近付けた。冷気を肌で感じる。
五階からの夜景はいつも通り、冷たい感じに澄まして、光っていた。師走も
大詰め。動く光、つまり道路を行き交う車は最後の一働きとばかり、忙しなく
見える。これが大晦日目前ともなれば、一挙に減るだろう。
空には厚い雲が広がっているため、星が見えない。
(なかなか難しいもんだな)
心中でつぶやき、伸びをする。難しいのは、勉強のことではない。
いつ話そうか、決められないでいる。
(J音楽院には行かないことにしたと言ったら、母さん、驚くだろうな。怒る
かな。普通は怒るか。僕も、いい加減な気持ちで受けたわけじゃない。じゃな
いのに……まさか、純子ちゃんに泣かれるとは思っていなかった)
それは嘘だ。外国へ行くとなったら、少しくらいは悲しんでくれるかなと、
心の片隅で予想してはいた。予想外だったのは、あれほどまでに大泣きされて、
必死で引き留められたこと。
(いくら酔っぱらったとしてもな、あんな風になるなんて。どうせなら、告白
したときに受けてほしかった)
詮無きことを考え、自ら笑ってしまう相羽。その声が部屋にむなしく響く。
表情に朱が差す。クリスマスのあの出来事を、また思い出した。この短い間
に何度目になるだろう。思い出す度に、宇宙遊泳でもしているかのような夢見
心地に浸る。
(キス、したんだよな。おでこにだけど。触れただけだけど)
それも、純子から求めてきて。あのときの純子は、いつもとは別の意味で、
きれいだったと思う。本来なら人の目に触れることなく、胸の奥底に仕舞われ
ているはずの姿を見てしまったような気がして、少なくない罪悪感と軽い興奮
を覚える。
(ふられた相手に頼まれて進学先を変えるとは、僕も相当いかれている)
このことに、相羽自身は納得していた。何の理由付けもいらない。身近な人
にどう話せば、理解してもらえるだろうか。そちらの方が難関だ。
母が呼んでいる。夜食ができたから、食べに来ないか。それともそちらに持
って行こうか――。
(……ぎりぎりまで、引き延ばすしかないか)
結論に辿り着いた。それは真の結論でないと分かっているだけに、相羽はた
め息をついた。
* *
純子は髪を梳かしていた。鏡の中の自分を見つめ、ふっと手が止まり、昨日
のことを思い起こす。
夢を見ていたような気がする。記憶が、ところどころ欠けてしまっている。
まるで歯の抜けた櫛だ。
しかし、断片になった記憶それ自体は、驚くほど鮮明だ。
「相羽君……行かないって言ってくれたんだよね?」
特に強く覚えている。ぼーっとしつつも、この言葉を聞けて、凄く安心でき
たことも覚えている。お気に入りの毛布にくるまり、使い慣れた枕に頭を乗せ
て、溶けるように眠る――その安心感に似ていた。いや、それ以上だろう。
ただ、あれだけ避けようとしていたのが、いかなる展開を経て、これほどま
でに深く突っ込んだ会話を成立させたのかとなると、完全に抜け落ちていた。
何しろ、目が覚めたら自分の部屋のベッドの上だったのだ。
起き出したあとで、母親に呆れられてしまった。「どれほど唄ったのよ?」
って。その言葉には曖昧にうなずいておいたが、純子は内心、首を傾げた。
(唄うだけで、正体をなくすまで眠り込むほど疲れるものなの? あの日は確
かに、たくさん唄ったけれど、それにしたって)
不思議でならない。だいたい、何故、記憶が欠けているのか分からない。相
羽がJ音楽院に行かないと言ってくれたことと、関係があるのだろうか。
(パーティの途中、相羽君が外国の人を連れてきて、話をした辺りまでは覚え
ているのだけれど、そのあとが……うーん)
洞窟探険に出かけるも、霧に巻かれてしまったような感じ。あるいはいつま
でも底が見えない海の中を潜っていく行為に、感覚的には似ている。
思い出したように、ブラシを持った手を動かす。気が急いて、引っかかって
しまった。傷めないよう、慎重な手つきになる。
これから町田達に会う。今年のクリスマス、みんなと一緒じゃなかった埋め
合わせだ。もっとも、受験の関係で、町田達も集まって騒ぐようなことはして
いない。
(どういう風に伝えようかな?)
相羽が行かないと言ったことを。きっと、みんな喜ぶ。
けれど、どんなやり取りをしたのか覚えていないため、話しにくい。困った。
純子は割り切ることにした。
(本人の口から言わせればいいわ。その方が、郁江達も嬉しいよね)
ポニーテールを作ると、純子は鏡を見て、「よし」とうなずいた。
買い物をしながら、来年のことに話題が及んだ。町田が皆に聞く。
「初詣、どうする?」
「もちろん行きたいけれど……」
「受験だものねえ」
井口と富井が顔を見合わせ、嘆息した。息が白くなり、そして消えていく。
「そう言いながら、こうして買い物に出て来てるじゃないの」
「今日と六日後だと、気持ちの焦りが違うよ〜」
「んな、ばかな」
笑い飛ばす町田だが、富井らの方はいたって真面目、本気だ。
純子は苦笑いをしてから、人差し指を立てて助言を試みた。
「不安なら、なおさら初詣行かなくちゃならないんじゃない? お参りして、
合格祈願よ」
一瞬絶句した二人だったが、井口がすぐに反論した。
「そんなの迷信よ。恋愛や運勢の占いは信じても、試験なんかは勉強した分だ
け出るんだから、関係ない」
「そんなこと言って、もしもペケだったとき、恐いわよ〜。ああ、あのときお
参りしておけばよかった、なんて後悔しても遅いんだから」
わざと恐がらせるように言うのは、一緒に初詣に行きたいから。
果たして、純子の目論見通り、まず富井が陥落し、最後の井口もほどなく宗
旨換えをした。
「余裕のある人にはかないませーん」
「貴重な時間を割いて行くんだから、何かいいことがないとねえ」
そう言って、富井は純子の手を取った。
「純ちゃん。相羽君を初詣に誘ってよ」
「え。またぁ?」
「それぐらいはしてくれないと、初詣にも気合いが入らない」
おかしな理屈だと思ったものの、純子は承諾した。
(ま、いいか。相羽君とも仲直りできたんだし。……本当に仲直りできてるの
かしら? ちょっと不安……)
どうしても記憶が蘇らない純子であった。
そこへ、腕組みをした町田が尋ねてくる。
「本当に大丈夫なの、純てば」
「何が」
「お、ぬけぬけと言ったわね。相羽君のこと、怒ってたのはどこのどちらさん
でしたっけ? ついこの間よ」
「あれは……もういいの。あはは」
笑ってはみたものの、完全にわだかまりが解消したわけではないのだ、実は。
相羽と白沼との付き合いがどんなものなのか、今でも気になっている。加えて、
(アメリカに行かないって言ったのは、白沼さんのおかげかもしれない)
という予感、なきにしもあらず。それに比べて自分は何をしてたんだろうと、
落ち込みそうになる。
「仲直りしたの? なら、よかった」
町田が、よしよしと首を振る。次の瞬間、すっと身を寄せてきた。
「ところでさ、純」
「はい?」
「あのばかとデートしたんですって?」
耳打ちの格好をした割に、町田は大きな声で言ってくれた。たちまち、聞き
つけた富井と井口も急接近。集音機よろしく、聞き耳を立てる。
純子は面食らって、反応が遅れた。町田を指差しながら、つっかえつっかえ
確かめる。
「だ、誰のこと、それ?」
「あいつよ、唐沢のばか」
さも当然とばかりに、腰の両側に手を添える町田。鼻息が荒くなったようだ。
純子の方はため息。そこへ、富井がかしましく質問を浴びせる。
「えー? 純ちゃん、唐沢君とデートしたのぉ? それって一対一? いつ、
どこへ行ったのよぉ?」
服を掴まれ、揺さぶられる。
「ちょ、ちょっとちょっと」
否応なしにうなずきつつ、けほけほと咳き込むと、解放してもらえた。でも、
質問の矢は続く。再び町田。
「何で、あんなのとデートしたのか、わけを聞かせてもらいましょうか」
本日の目的はこれだったのよと、気合いが入っている。
「……芙美、誰から聞いた?」
「本人からよ。近所だから、嫌でも顔合わせちゃってねえ。何だかにやついて
るから問い詰めたら、白状したわ」
「白状って、別に悪いことしてたわけでは」
「よかなーい!」
純子の抗弁を、町田は真っ向から否定。
「ああいうのをプレイボーイと言うのよ。グループならまだしも、一対一なん
て、危険極まりないわ」
「そうかしら。唐沢君、いい人よ」
「それが騙されてるっていうの。そりゃ、優しくはするでしょうね。狙った相
手には」
ぶつぶつ言う町田。その迫力に、富井と井口も口を挟めず、物言わぬ野次馬
を決め込まざるを得ない。
「美術館と映画館に行って、あと、食事もしたって?」
「う、うん。普段とほとんど同じコースって言ってたわよ」
「普段と同じって、何のこと?」
「他の女の子達とグループデートするときと同じだって。だから、唐沢君にし
てみれば、いつものように時間を潰しただけなんじゃないかなあ」
「どうだか。何よりもまず、あいつが一対一のデートをすること自体、尋常じ
ゃないわ。異常よ」
「異常……」
呆気に取られ、次いで笑ってしまった。
(何を大げさに考えてるのよ、芙美ったら。いっつも落ち着いてて大人びた意
見を言うのに、こういうことになるところっと変わるんだから)
「何もされなかったでしょうね」
町田が横目でじろっと見やってきた。
「――やだ、何考えてんのよー」
町田の腕を思わず叩いた純子。
「何にもなかったんだからねっ」
「なかったんなら結構。これ以上はやめときなさいな。被害が出ない内に」
「でも、一緒の高校行くかもしれないし、仲よくしておきたいなぁ」
「ううー、私も今から緑星にしようかしら。監視するために」
冗談めかして言っているが、案外、本気なのかもしれない町田。
「努力せずに合格できるところを目指していたのにな。緑星となると……」
「そうしようよ。一月中に決めればいいんだから、考える時間も勉強する時間
も充分あるんだし」
しかし、純子がこうして後押しすると、肩をすくめて、町田は否定した。
「無理よ。今からでは間に合いそうにないわ。だいたい、何であんな奴のため
に、私が必死になって勉強せにゃならんのだ」
「芙美……」
「それにさ、唐沢ごときが少々がんばったって、通るところじゃないでしょ、
緑星。万一、私が受かって、あいつが落ちたら、笑い話にもならないわ」
笑い飛ばした町田。大きく手を振ると、
「もう、やめやめ。この話題はおしまい! 純にその気がないと分かったら、
それでいい」
などと打ち切り宣言をして、さっさと歩き出した。
(芙美と唐沢君――と言うよりも、芙美の唐沢君への態度もよく分かんないの
よね。仲が悪いように見えて、結構、喋ってるみたいだし、みんなで遊んだり
勉強したりするとき、唐沢君がいても、芙美、ちゃんと付き合ってくれたし)
純子には理解しがたいことであった。
――つづく