#4984/5495 長編
★タイトル (NKG ) 99/12/25 3: 6 (198)
キセキノカクリツ(β版)2/3 らいと・ひる
★内容
**
「そういえば、お互い名前とか知らないままでしたね」
奢ってくれると言った缶コーヒーを少女から手渡される。あれから近くの公園へ
移動し、そこで落ち着いて話そうという事になったのだ。
「ありがと。俺は香坂尚人。しがないサラリーマン……じゃないや、フリーターっ
てとこかな」
「えっと、わたしはマリー・ラグレットといいます。いちおう薬剤師目指して勉強
中みたいなものなんですけど」
「へぇー、薬剤師ね。じゃあ医大の留学生とか」
尚人は、彼女の外見から中学生以下ぐらいに思っていたのだが、もしかしたら意
外と童顔なのかもしれないなと、一人納得していた。
「まあ、そんなとこです。で、お礼なんですが、缶ジュース一杯だけっていうのも
なんですから」
「俺はこれだけで十分なんだけど」
彼女の言葉を遮ってそう言うが、彼女が困った顔をするので、そこで言葉を止め
た。
「迷惑じゃなかったらわたしの気の済むようにさせて欲しいんですけど」
「わかったよ。迷惑じゃないから、好きなようにすればいいさ。ただ、高価なもの
とかのお礼だったら受け取れないよ」
「わたしはそんなにお金持ちじゃありませんからね。期待されたらどうしようかと
思いましたよ」
少女はそう答えてくすくすと笑う。
「期待したほうがよかったかな」
尚人もつられて笑う。
「そうですね。金銭的な事は無理な話なんで、メンタルな部分でのお礼にしようか
と」
「精神的な事?」
「そうです。わたしに聞いてあげられるような悩みとかそういうのがあったら言っ
てください」
そう言われて尚人の頭に雪美の事が思い浮かぶ。だが、すぐにそれをうち消した。
そんなことを彼女に言ってなんになる、彼は心の中で呟いた。
「別に悩みとかそんなんとは無縁な生活送っているからなぁ」
マリーに悟られまいと尚人は作り笑顔を浮かべる。だが、彼女はそれに気づいた
かのように寂しそうな顔をしてこう言った。
「赤の他人であるわたしにプライベートな事を言いたくないというのはわかります。
だけど、無理して笑うのはつらいことです。嘘をつくのも同じです」
マリーの悲しそうな瞳。それは哀れみとかそういうのではなく、彼女自身もそう
いうつらさを実感してきたような瞳だ。
「どうしてわかった?」
「顔にそう書いてあります。尚人さん、時々寂しそうな顔をしていました。だから、
何かあるんじゃないかなって思ってたんです」
「え? おれってそんな表情してた?」
「ええ、交番に行って何も届けられていなかったってわかった時とか、その後探し
回って見つからなかった時とか、ふいにそういう表情してましたから。だからわた
し、尚人さんは何か大きな悩み事を抱えているんじゃないかって。わたしは尚人さ
んに、大切な物を探してもらいました。だから、今度はわたしが尚人さんの為に何
かする番じゃないかって」
穏やかで暖かで、そして優しげなソプラノボイスはまるで天使のようだと、尚人
はふと思った。
「そうだな。話をするだけでも気が楽になるっていうからな、聞いてもらうとする
か」
尚人はあふれてくる涙を落とさないように上を向いてそう言った。
**
「だからさ、俺に出来ることはただ神様に祈るだけなんだよ」
尚人はマリーに雪美の事を説明した。そして、自嘲気味にそう付け加えた。確か
に誰かに話すことで、少しは心の重みがとれるのかもしれない。だが、奇跡でも起
きない限り、この最悪の事情が好転するわけでもない、ということを彼は悟りきっ
ていたのだ。
「尚人さんは、その雪美さんという方を愛していらっしゃるんでしょう?」
「当たり前じゃないか! でなきゃ、こんなに苦しんでないって」
彼は発作的にマリーに対して強い口調で言ってしまう。
「悪い。きみに当たってもしょうがないんだよな」
「あ、いえ、いいんです。わたしの訊き方も悪かったんですから。でもですね、神
様なんかに祈ってもしょうがないと思いません? 神様は願いなんか叶えてくれま
せん。もし叶えてくれるような事があっても、それは偶然であって、奇跡ではない
んですから」
少しだけマリーの言葉にいらつきを覚えた尚人だが、さすがに再び怒りを露わに
するわけにはいかなかった。
「だったら俺はどうしたらいいんだ?」
彼はただ苦笑いを浮かべる。
「彼女の事をもっと愛してやってください。彼女がいつでも笑っていられるように。
それが偽りでなく、心の底から笑っていられるように」
「?」
彼の事をまっすぐ見つめる瞳は、彼女が冗談半分に言っているのではないという
ことを証明していた。
「プラシーボ効果ってご存じですか?」
「ああ、腹が痛いって患者にビタミン剤とかを鎮痛剤と偽って投与すると、本当に
直ってしまうってアレだろ」
「メンタルな面での健康を保つ、つまり尚人さんが雪美さんの心の支えとなること
で、肉体的な面に影響が出るって事です。人間には自然治癒能力があります。それ
を最大限に活かすことで、ある程度の効果が期待できるわけなんです。それがプラ
シーボ効果ですから」
「それってどういうことなんだ」
「そうですね。奇跡的に快復するってのには無理がありますが、例えば手術の成功
する確率を上げるとか、術後の快復率に影響を与えるとか、そういう効果はあるん
じゃないかと思いますけど」
「本当にそうなのか?」
「どの程度まで期待できるかはわかりません。でも、何もやらないよりマシだと思
いませんか? いちおう医学的にもプラシーボ効果は証明されているわけですから」
「その通りだな、神様が何もしてくれない事なんて大昔からわかってたってのに……
それでも祈らずにはいられなかった俺ってバカだよな」
尚人の瞳からぽろりと涙がこぼれる。
「奇跡ってのは神様に期待してはダメです。出来る限りの事をやるってところがミ
ソなんですから。そしたら奇跡の方から近づいてきてくれるかもしれませんよ」
そう言ってマリーはウインクをする。
「ありがとう、マリー。なんとなくわかってきたよ。自分が何をすればいいのか」
「だから、湿った顔は彼女の前では見せないでくださいね」
「ああ、わかってるさ」
暮れかかった夕空を仰いでいると、乾いた風が頬を撫でてゆく。涙を乾かすには
ちょうどいいと、尚人は心の中で悲しみを受け入れ、そしてそっと奥へとしまった。
**
「最近はマメにお見舞いに来てくれるんだ」
ちょっとした嫌味も入っていたかもしれないが、見舞いに来てくれること自体は
雪美は嬉しいらしい。
「まあ、仕事が早く切り上げられるように努力はしてるからな」
尚人は嘘をついた。今までの仕事場では、毎日のように彼女の病院へと見舞いに
来ることなど不可能に近かった。だから、彼はあえて仕事をやめてアルバイトで稼
ぐことにより雪美との時間を作りだしたのだ。もちろん、前の職場への未練はかな
りあったものの、優先順位としては遙かに彼女の方が上なだけだった。
「あんまりあたしにかまうと、もっとわがままになるよ」
ふふっと笑って上機嫌の彼女だ。
「わがまますぎるのも困るけど、多少のわがままなら嬉しいものさ」
尚人は雪美のおでこに軽く口づけをする。
「どうせなら唇にしてよ。ほら、看護婦さん当分来ないからさ」
彼女は顔をあげて静かに目をつぶる。
「人が来ても知らないぞ」
穏やかで、ちょっとした幸せを二人で分かち合いながら、時は流れてゆく。
尚人のおかげで雪美もだいぶ元気を取り戻していた。最初は嫌がっていた手術も
なんとか受けることを決心してくれた。
そして手術の日取りも決まり、日々は過ぎてゆく。静かな、そして特別な事があ
るわけではないけど、それでも愛おしく思える日常が二人の心を埋めていった。
だけど、それでも不安はいつでも心の底に隠れている。ちょっとした事でそれは
広がっていく。そんなことは、尚人自身もわかっているはずだった。
「ゆき、降らないかなぁ」
ふいに雪美が呟いた。
「まだ12月だぜ。あと1ヶ月以上待たないと」
「今年のクリスマスも、ゆき、見れないんだね」
どことなく、雪美の声も暗い。だが、入院したての頃のような絶望的なものでは
なかった。
「雪は見られないかもしれないけど、イブの夜はずっと一緒にいてやるよ」
「看護婦さん見回りに来るよ。面会時間過ぎたら、ほんとはダメなんだからね」
ちょっと意地悪げに軽く微笑んで雪美は言った。
「看護婦さん来たらベッドの下にでも隠れるさ」
「あたしの布団の中に入る?」
「それはさすがにバレるだろ」
尚人は自然に笑う。そして、雪美もそれにつられて自然と笑う、はずであった。
「ゆき、降らないかな」
ぽつりと彼女は呟く。
「どうしたんだよ」
「もうずっと見れないような気がしたから」
不安という傷口はけしてふさがらない。
尚人は何も言えない。何か言ってしまったら、それは嘘にしかならないような気
がしたからだ。
「手術したって成功するとは限らないんだよね。あたしが尚人のそばにずーっとい
られる確率なんて奇跡に近いんだから。あたしはもう自分の命が長くないことは知
っている。だから奇跡を夢見たいんだよ。こんな時期にゆきが降るなんて奇跡だっ
て、尚人は言ってたけど、あたしはそんな奇跡でも見てみたかったんだよ」
奇跡は祈るものじゃない。だけど、尚人には何もしてやれなかった。声をかけて
やることでさえ。
面会時間が過ぎ、尚人は病室を後にする。悔しさがこみ上げてくる。
ばしっと壁に握り拳を叩きつけた。
人間は無力だから奇跡を追い求める。それは自然の成り行きなのかもしれない。
でも、マリーは言っていた。「奇跡は期待するものじゃない」って。
病院を出ると、彼はそのまま家に帰らず公園のベンチで空を見上げる。日はすで
に落ちているので、ぽつりぽつりと星が見え始めている。それでも、東京の空は明
るすぎて、簡単に数えられるほどしか見えない。
「こんばんは」
どこかで聞いたようなソプラノボイスが彼の耳に届く。
金色の髪が街灯に照らされて光っている。
「マリー?」
「そうです。またお会いしましたね」
マリーは後ろに手を組んで、空を見上げならこちらへやってくる。
「あんまり星が見えませんね」
「ああ、そうだな」
「元気ありませんね」
「なんかさ、ちょっとしたことで挫ける自分が情けなくなってきてね」
尚人は自分を笑った。
「よかったら聞かせてくれませんか?」
マリーはちょこんと、彼が座っているベンチへと腰掛ける。
「雪が降らないか、って雪美が言ってたんだよ」
「雪ですか。まだ12月ですから、ここでは難しいでしょうね」
「結局、俺も雪美も奇跡を祈らずにはいられないんだよ。自分が無力だから、不安
でしょうがないから」
「まあ、時には無理だって思える事でさえ、人間は望みますからね」
マリーは彼の方を向いて穏やかに微笑んだ。
「それが人間の弱い部分なんだよ」
「だったらわたしが奇跡を起こしてあげましょうか?」
マリーは立ち上がるとくるりと回転して尚人に向き直る。
「え?」
一瞬、マリーは冗談でも言っているのかと尚人は思った。
「雪です。雪を降らせるんですよ」
「クリスマスイヴに雪を降らせるってのか? 今年は暖冬で明日は雨すらも降る気
配はないってのに」
「奇跡ってのは祈るものじゃないんです。奇跡ってのは演出するものなんですから」
マリーはウインクをする。
「だからって……きみが魔法使いでもない限りそんな事なんてできやしない」
常識で考えればそういう事になる。だが、尚人は心の底でそういう部分を期待し
ているのだろうか。自分自身でもよくわからなかった。
「さて問題です。尚人さんが魔法使いに出会う確率と、わたしの知り合いにスキー
場の関係者がいて、その人から降雪機を借りられて、それを病院の屋上に設置する
ことができる確率は果たしてどちらが高いでしょう?」
尚人は唖然とした顔でマリーを見る。思わず言葉を失ってしまったようだ。
「まあ、そういう事ですから、期待しててくださいね。クリスマスの夜の奇跡に」