#4893/5495 長編
★タイトル (AZA ) 99/ 7/31 10:20 (200)
そばにいるだけで 38−7 寺嶋公香
★内容 16/06/13 15:34 修正 第2版
心構えする暇もなく、いきなり海面からの反射光を見てしまった純子は、思
わず目を瞑りながら叫んだ。それから左右順番にそろりそろりと瞼を開け、見
てみる。広大な田園地帯でたわわに実る黄金の稲穂――昼前の海はそんな感じ
があった。
「ちょっとだけタイミングが悪かったな。海のロケーションは夕日が最高なの
は当然として、今はまぶしいね。もう少し早ければよかった」
「そんなことない。きれい。気持ちもいいわ」
窓から潮の香りを感じた気がした。水平線をバックに波間を漂うヨットが確
認できる。あそこにいれば、もっと気持ちいいに違いない。
「泳ぐ?」
突然、香村が持ちかけてきた。
「え?」
「今日はそこそこ暑いしさ。水着ならどこかで買えばいいや」
「でも」
再び髪を触る純子。水に入っては、折角のおしゃれが意味をなさなくなる。
(ここははっきりしなくちゃ)
「やめとくわ。心の準備ができていないし、疲れちゃう。ほら、もうすぐ期末
テストがあるでしょ。帰ってから少しは勉強しないとね」
「……じゃ、仕方ない。考えたら、僕も素顔をさらすのはちょっとまずいだろ
うしね。次回の楽しみに取っておこうっと」
「あ、あの、私、次は」
「いいじゃない。何度でも会えば。会えるよね?」
「……」
純子は答えず、顎を引いてからシートに身を沈めた。
その後入ったシーフードレストランでは食が進んだ。純子が普段食べる昼食
の量の1.5倍ぐらいと言えば大げさになるかもしれないが、市川から体力を
着けなさいと言われたことが頭に残っていた。無論、料理がおいしかったのも
大きな理由である。
(食べた分、運動しなくちゃ。モデルの方ができなくなるかも)
空になったデザートの皿が下げられてから、意を強くする純子。早速、香村
に聞いてみる。
「この近くにスポーツ施設、ないかな?」
「そりゃあるけれど、運動したいなら、海が目の前にあるんだから泳げばいい」
香村はお冷やを飲んで、隣の運転手と目を見合わせた。運転手は相変わらず
何も喋らない。
「泳ぐのはだめ。一人だとつまんない。他のことで汗をかきたいの。あまり髪
が乱れないような……ジョギングとかサイクリングとか」
「道端でできるものばっかだね」
「香村君がいいのなら、そこら辺を走ってくるわよ」
今にも立ち上がりそうな気配で言うと、対する香村は慌て気味に首を振った。
「そりゃあよくない。貴重な時間を無駄にしたくないな。ええっと、確か、運
動公園があったと思う。その中に、エアロバイクみたいな物が置いてあるとい
いんだけれど。それに、服はどうするのさ」
香村の心配は杞憂に終わった。運動公園の体育館に行ってみると、エアロバ
イクはちゃんと設備されていたし、トレーニングウェアは貸し出ししてあった。
「便利な世の中になったもんだね」
どちらかといえば呆れ気味につぶやいた香村。彼は着替えずに、器具の横で
見物するにとどまる。休日なのに――休日故なのかもしれないが――利用者は
少ない。天気がよいせいもあって、屋内の施設を使っている人は数えるほどし
かいなかった。純子は無論のこと、香村に気付く人もいない。
しばらく黙って見ていた香村が口を開く。
「楽しい? ……聞くまでもないな。顔を見れば分かる」
「何か言った?」
「……どうせならレオタード着てほしかったな、と」
「ええっ、やだ!」
ペダルを踏み込みながら、大声で否定する純子。
香村の表情に悪戯っぽい笑みが宿った。
「そうだ、君のレッスンの見学に行きたいな。当然、レオタード」
「やだなあ、アイドルが中年のおじさんみたいなこと言って。ファンが知った
ら泣くよ?」
笑いを含めながら切り返した純子。うん、だいぶ慣れたなと実感できる。
「それは困る。秘密にしといてね」
「ねえ、香村君はやらないの?」
香村の名を気兼ねなく口にできる。
「事務所の方でスケジュールが組んであって、それに沿ってやってるんだ。こ
れ以上余分な筋肉を付ける気はないな」
「そっか。じゃあ、このあと、スケートしましょ」
「インラインスケート?」
「さっき見たわ。ここ、インラインスケートができるみたい。これなら身体造
りとは関係なし」
「怪我するぞ。危ないことはするなって、君は事務所から言われてない?」
「大丈夫。得意だから。サポーター付けるし」
「まったく。水泳がだめで、どうしてスケートならいいんだか」
結局、エアロバイクのあとはインラインスケートを楽しんだ。香村に驚かさ
れて、一回だけ尻餅突いたけれど。
(あー、気持ちよかった。これだけ身体を動かせば問題ないよね)
さあ、次はいよいよ。
(思い出話!)
* *
リハーサルが続いていた。
調子はよくなかった。精神面は最悪と言っても過言でない。全体にいらぬ力
が入り、音が暴力的になっていた。鍵盤を叩く指は、まるで武道の試合に臨む
ときのように強張っている。信一自身もとっくに気付いていた。
(まるでコントロールできない)
手を止め、じっと見つめる。録音時には最高の状態に持って行くつもりで、
早めにスタジオ入りして練習を開始したのに、完全に目算が狂った。無論、ス
タジオ使用料はかかっている。
(もうすぐ来る時刻。まずいな)
スケジュールの合間を縫って、鷲宇がわざわざ来てくれることになっている。
そして、そのときがレコーディングスタートでもある。
しかしまだ気分が乗らない。原因は明らか。純子と口喧嘩したままなのが、
尾を引いているのだ。加えて今まさに純子が香村と会っている時刻。
(ああ……ふう)
心の中の声でさえ、言葉にならずため息と化してしまう。想像が嫌な方向へ
まっしぐらに走って行く。
――テーブルを挟み、香村の話に聞き入る純子の姿。両頬杖をついて、幸せ
そうな笑顔をなしている。真ん中に置かれたジュースのグラスには、ストロー
が二本。片方には薄い口紅の痕が。やがて香村の手が伸びて、純子の手を取る。
そして何かを囁く――。
思い描いた場面を打ち消すため、信一はかぶりを振った。何度も何度も。
「どうしたの、信一?」
母の声に面を上げ、後方を振り返った。仕事を終えて直行してきたらしいス
ーツ姿の母が、足早に駆け寄ってくる。その表情を見て、自分がよほど苦悩し
ているように見えたんだと信一は意識した。
(今日は……強がれない)
小手先で生み出した音でごまかすことはできない。何ともないと答えて、実
際の演奏が情けないものだったら、母は悲しむだろう。信一のプライドだって、
それを許さない。
信一は椅子を離れた。母に近寄り、目の前で言った。
「だめかもしれない」
「え……?」
目を見開く母から視線を逸らし、信一は自嘲気味に続けた。
「今日の調子、最低なんだ。できることなら、録音を延期してもらいたいくら
い。嫌になる」
「延期なんて」
「分かってるよ。今日しかないってことぐらい」
笑顔を作ろうとしたが無理だった。再び母親へと向き直るかどうか悩んで、
結局思い止まる。
「この程度で挑戦しようなんて、みんなに笑われるかな。それに、父さん、聴
いててきっとがっかりしてる」
「何を弱気なこと言ってるの。普段の気持ちで臨めばいいんじゃないの?」
信じられないとばかり首を小刻みに振った母。これほどまでに自信をなくし
た息子の姿は初めて見た――そんなところかもしれない。
「普段の気持ちになんて、なれないよ」
「緊張してる? リラックスするために、ちょっと外に出たら」
「違うんだ」
信一は、覗き込んできた母に対し、きっぱり答えた。あとが続かない。
「……何か理由があるんでしょう?」
すべてを見通すかのような母の瞳。信一は、聞いてもらえるのを待っていた
のだ、多分。
「母さんでも、自分はまだまだだと思ったことある? 僕は今、ちょうどそん
な感じなんだ」
* *
思い出話をするには邪魔な存在だった運転手がいなくなり、やっと二人きり
になれたのは、ちょうど三時のことだった。場所は歩道。中学生同士で入れる
ところには限りがある、せいぜいファーストフード店だがあいにくと最寄りの
店舗は騒がしかったので散歩しながらということに。
「あのときは、二年前に発見された、新しい始祖鳥の化石が、日本にお目見え
するってことで、話題になってたんだよね」
香村がサングラス越しに斜め上を見つめながら、話を始めた。いちいち純子
に確認を求めるようなリズムだ。
「うん。有名なドイツで掘り出された世界初の物より状態はよくなかったけど、
じかに目にできてやっぱり感動しちゃった。ちゃんと羽毛が分かったんだもの」
「ああ。コ……えっと、何だっけ、コンプソグナトゥス? ややこしい名前だ
から合ってるかどうか自信ないけど」
頭に手をやり、純子を見やる香村。純子はしっかりうなずいた。
「そうそう。始祖鳥の化石羽毛が残っていないと、コンプソグナトゥスの化石
と見分けつかないのよね。あの恐竜展でも並べてあって、よく似てた」
「大きさが違うよな。始祖鳥が四十センチぐらいなのに対して、コンプソ――
面倒だから省略――コンプソはその倍ほどあるんだろ。専門家も、間違えない
ようにしてほしいね」
香村の得意げで断定的な物言いに、純子は急いで意見を述べた。
「ううん、それは決めつけられないんじゃない? ひょっとしたら四十センチ
よりも大きな始祖鳥がいたかもしれないんだから」
「……なるほどね」
目を丸くしたあと、額を手の甲で拭う香村。
「君の方が詳しいな」
嬉しくなり、顔いっぱいに笑みを浮かべた純子。
「私って、本当に小さい頃から恐竜や化石の本に親しんできたから。たとえば
始祖鳥の化石を前にして、大昔、こんな生き物がいたんだと想像するだけで、
わくわくするの」
「ふむ。飛ぶ姿は、さぞかし勇壮だったろうなと?」
笑みを込めた香村の問い掛けに、純子は戸惑った。
(……始祖鳥はほとんど飛べなかったって、定説になってるのに。香村君の知
識が旧いだけ?)
敢えて否定することはやめておく。折角思い出話にこぎ着けたというのに、
いい流れを壊したくない。
「他にもシノルニスの化石や、プロトアビスの化石の写真があって、今考えた
ら、凄く充実していたんだわ、あの展示。小さいときは、有名なのばかり目が
行くものね。もっともっと、じっくり見ておけばよかった」
「――よく覚えてるねえ」
呆れ口調で香村がこぼした。口元がひきつるように笑っている。
「どうせならあのとき、涼原さんと一緒に見たかったなあ。きっと色々教えて
もらえたろうに」
「あはは、どうかしら。迷子になって、私、泣きそうにしてたから。もう全部
頼り切ってしまって」
「あれはよかった。かわいかったよ。印象に残ってさ、おかげでその日見た恐
竜や化石はほとんど忘れちゃって、君の顔ばかり覚えてしまったんだな、うん」
「もう、からかわないで」
自分の台詞が気に入ったのか、満足そうな香村。純子は肩をすくめて歩みを
若干早めた。
「私は泣きそうになってても、しっかり覚えてたわよ。何たって、コートゥル
スラプトルの大発見があったもん!」
「うわ、もう勘弁してくれぇ」
両手で耳を押さえるポーズの香村。
「前にも言ったけれど、恐竜や化石のこと、最近はすっかり忘れちゃってる。
頭が痛くなりそうだよ。今はドラマの台詞を覚えるので精一杯さ」
「……分かったわ」
言いたいことはあったけれども、引き下がった。相手は大変な売れっ子のア
イドル、仕事の話を持ち出されると弱い。
(だいたいは思い出話できたから、しょうがないか。でも、大発見だったのに。
恐竜と鳥の関係を解明できるかもしれない大発見。新種の化石、コートゥルス
ラプトルが見つかったおかげで、大きく変更されたのよ。今は関心なくしちゃ
ったのかな、それとも忘れちゃったのかしら、香村君……)
――つづく