#4894/5495 長編
★タイトル (AZA ) 99/ 7/31 10:21 (200)
そばにいるだけで 38−8 寺嶋公香
★内容
いつの間にか追い越されていた。先を行く香村が店のショーウィンドウ前で
立ち止まり、こちらを手招きしているのに気付く。
「この服、君に似合うよ。試しに着てみないか?」
* *
「確かに、前に聴いたときより悪くなっている」
鷲宇は腕組みしたままうなずいた。難しげな表情で、目を細めている。
ピアノの前に座っていた信一は、力を抜いて両腕を下ろした。指の感覚を維
持するために、手の平を閉じたり開いたりする。
「強さ一辺倒という感じだね。音の強弱がなくなって、演奏がつまらなくなっ
たかな。ピアノは専門じゃないが、これくらいなら僕にも分かる。メロディが
語っていない」
「……」
鷲宇の意見に素直に、無言で聞き入る信一。隣では、母が心配そうに唇を噛
んでいる。
「どうしてなんだろう。理由があるんじゃないかな?」
「理由……事情はありますけど、コンディション悪くしたのは自分の責任です」
「いいから、その事情とやらを聞かせてくれよ、信一君。今日中に回復するよ
うな原因であれば、レコーディング開始を延ばそうじゃない」
ありがたい言葉だったが、信一は迷った。恥ずかしさが先立って、事情を話
すのは気が引ける。それに話したところで、結局は自分自身で解決するしかな
いのだ。
鷲宇を見上げながら、強い口ぶりで言った。
「すみません。何も聞かずに、時間だけください」
「うん?」
「調子の方は何とかなりそうなんです。ただ、時間が必要だと思うから……独
りで考える時間が。だめでしょうか」
気が付いたときには、信一は立ち上がっていた。力を貸すように、母がそば
に寄り添う。
「鷲宇さん、この子のわがままを聞いてやってください。私からもお願いしま
す」
さっきわけを聞いた母は理解してくれたのだろう、鷲宇に誠意を持って頭を
下げた。
「そんなに頼み込まなくてもいいですよ」
鷲宇はかすかに吹き出していた。
「待ちましょう。ニーナにもすでに話を伝えていましてね、楽しみにされてる
んだ。僕自身、期待を裏切りたくない」
信一に向き直る鷲宇。信一は唾を飲み込んだ。
「独りになるには屋上がいいよ。心ゆくまで独りで考えて、気持ちを最高の状
態に持っていけ」
「あ、ありがとう……ございます」
「なに、気にするなって。僕のスケジュールが少し厳しくなるだけのことです」
鷲宇は言って、にやりと唇を曲げた。礼をする信一に、適度のプレッシャー
を与えるのも忘れない。
信一は母と目で会話を交わし、それからスタジオを出た。廊下にある案内図
に目を走らせる。
(屋上へ出るには……こっちの階段か)
手すりを右手で固く持ち、足元を確かめながら、ゆっくりとした歩調で昇っ
ていく。高くなるにつれ、空気がひんやりしてきたように感じた。だが、屋上
へ出ればきっと日差しがきつく、まぶしいに違いない。
階段の突き当たりに、手すりの格子を通して扉が見えた。
ノブを回し、重いドアを押し開けると、案の定、白い光が射し込んでくる。
一瞬、目を細め、手で庇を作りながら外へ踏み出した。
(じっくり、考えよう)
日陰の場所を探しつつ、そう思った。音は方々から届くが、屋上は静かな場
所だった。
(僕はどうしたいのか。自分自身の気持ちに素直に)
給水タンクの影に入り、水色をした柵に腕を乗せ、景色を遠望した。空気の
汚れがよく分かった。
(星も見えなくなるはずだ。これだけ空気が汚れて、明かりがあると)
ふとそんなことを思う。
それから視線をやや下に向け、今の自分の気持ちを見つめた。
(誰にも関係なく……僕は純子ちゃんが好きだ。もしも香村が嘘をついて、純
子ちゃんに接近しようとしてしてるとしても、それは関係ない、本質には。も
しも僕が琥珀をあげた子が純子ちゃんだったとしても、今の僕が今の純子ちゃ
んを好きなことに変わりはない)
少しずつだが、精神が穏やかになっていく。そんな気がした。
(とにかく、最初に謝ろう。純子ちゃんが香村とまたプライベートで会うと聞
いて、つい焦って、あんなことを口走ったけれど、香村が嘘を言っている根拠
は何もない。
それで純子ちゃんが許してくれたら……告白する)
ほんの短い間、自分の身体を感情が駆け抜けた。そのすぐあとに、すがすが
しさがやって来る。
自分と純子、二人だけに絞り、改めて問い掛けたことにより、心の中の重い
扉が開かれたようだった。
(――よし)
指先を見つめる。自然な笑みがこぼれてきた。
(今ならうまく弾けそうな気がする。はは、単純だな)
一つ、大きな深呼吸をすると、信一は身体の向きを換えた。スタジオを目指
して進み始める。
* *
希望が叶った割に、純子の気持ちは弾んでいなかった。少なくとも、前回の
方がまだ楽しかったとだけは確実に言える。
「――涼原さん、聞いてるかい?」
右隣からの香村の声に、純子は腕に乗せていた顔を起こした。
目の前に広がるのは海。時間的に、夕日にはまだ早いが、相変わらずきれい
にきらめいている。
行きのルートを引き返している途中、車を停めて、展望台まで足を運んだ。
手すりに肘を起き、その上にさらに顎を置いてぼんやり眺める内に、香村の話
への関心が薄れてしまったらしい。
「ご、ごめんなさい。途中から聞いてなかった」
「ひどいなあ」
「えっと、香村君の話って、芸能界のことがほとんどで、私には遠い感じがす
るから……段々興味が持てなくなっちゃった」
「意外にはっきり言うんだね」
言葉とは裏腹に、片眉を上げて面白がる様子の香村。海に背を向けると、鉄
柵に両肘を引っかけるようにしてもたれかかった。
純子は香村のそんな態度を、悪い意味に受け取った。
「あの、気に障ったら謝る」
「とんでもない。どちらかと言えばね、嬉しいんだよ。だって、それだけ打ち
解けてくれた証拠だからなあ」
赤面するのが自覚できた純子は、急いで顔を背けた。照れたのではない。い
くら香村が好意的に解釈してくれても、心ここにあらずの状態になっていたの
は事実なので、純子にはそれが恥ずかしい。こんなことまでよい風に見てもら
いたくない。
いたたまれなさから口ごもっていると、香村の方から話題を転じた。
「ところで、それ、気に入ってくれた?」
純子の着ている服を指差してくる。水色の涼しげなワンピース。肩を包む辺
りがメッシュになっており、スカート丈が長く、大人っぽく見える。
買ってもらったと言うよりも、半ば強引に着させられたと言った方が近いか
もしれない。家から着てきた服は、紙袋に仕舞って車の中に置いてある。
「う、うん。でも、いいの、本当に?」
「もち、プレゼントするよ。秋になったらまた新しいのを」
「悪いわ。やっぱり――」
台詞の途中で、純子の唇の前に香村の人差し指が縦にかざされた。
「遠慮しないでもらってくれよ。僕からの気持ち」
「……何かお返しするね」
「おっ、それがいいや。楽しみだな。事務所宛じゃなく、僕に直接渡してね」
香村の言葉を聞きながら、純子は頭の中で別のことも考えていた。
(どこで着替えよう……? 帰るまでに、いい場所あったかしら)
それから二人は場所を喫茶店に移した(正しくは、運転手の男性も着いて来
たが、席は彼だけ離れた位置に座った)。
「本当を言うと、夕飯を一緒に食べたいんだけどな」
「遅くなるのはだめ。こうして一人で遠くに出かけるのだって、やっとのこと
で許してもらってるんだから」
「分かってるって」
注文した飲み物が届けられ、しばし沈黙。ウェイトレスが去ってからも、純
子はジュースを引き寄せ、ストローに口を着けたから静かだ。
「もっと女の子らしい物をオーダーするのかと思ったんだけどな。パフェとか
プリンアラモードとかさ」
「お昼、食べ過ぎちゃったもの」
「でも、ケーキは食べると」
サングラスを外した香村が指差した先には、ショートケーキ。生クリームの
コーティングにメロンの切れ端が載っている。
「これくらいなら問題なし。それにね、私って、太りにくい体質みたい。にき
びなんかも全然できないし」
と言って、右のほっぺたを指差して、相手に心持ち向ける。途端に、香村が
目をぱちくりさせた。
「うん? え、もしかして、にきびある?」
気になって問い返したが、当の香村からの返事は遅れ気味。
「あの……香村君?」
声を潜めて相手の名を呼ぶと、ようやく答が返ってきた。
「あ、ああ……いや、きれいな肌してる。今、本気で見取れてしまって」
「――口がうまいんだから」
苦笑すると、純子はケーキをフォークで切り崩しにかかった。
香村はアイスコーヒーのグラスを手に掴んだまま、穏やかな口調で否定した。
「お世辞じゃないさ」
「またまた。そういう調子で、他の女の子にも接してるんじゃなあい? 私の
クラスにも、似たタイプの男子がいるよ。香村君に負けず劣らず二枚目で」
エアロバイクのときの出来事から、唐沢を連想しながら純子は言った。
(唐沢君にも言われたのよね、違う水着が見たいって。レオタードと水着の違
いはあっても、こういうところ、よく似てるわ)
「誰? あいつのこと?」
グラスから離した手をテーブルに置き、身を乗り出し加減になる香村。揺れ
て、液面がかすかに波立った。
「あいつって? ああ、相羽君じゃないわ。別の子」
聞き返した直後に察しが付いて、すぐさま首を振る純子。
「ふむ。当たり前だけど、かわいい子の周りには二枚目が集まるんだな」
「何のこと?」
「君のこと」
「――普段から芸能人に囲まれてる人に言われても、全然説得力ない。私のク
ラスに格好いい男子が多いのは認めていいけれど」
純子はそう言うと、香村の言葉を最初から聞き流したかのごとくに、ケーキ
を刻み、せっせと口に運んだ。
「ねえ、涼原さん」
「はい?」
フォークをくわえた状態のところに、改まった口調で呼びかけられ、純子は
きょとんとした。
香村はやっとアイスコーヒーを一口飲んで、鼻の下辺りを指でこすった。そ
れから両肘を突いて、手を組む。そこへ顎を被せるように載せ、純子をじっと
見つめてくる。
「誰とも付き合っていないんだっけ」
「ええ。前に言わなかった?」
確かに言った記憶がある。
だが、香村はそれには答えなかった。彼の口からは、全く別の言葉が流暢に
溢れ出した。
「できればでいいんだけれど、一人のタレントと付き合ってほしい。今、君の
目の前にいるタレントと」
* *
建物の外に出ると、夕闇の風が気持ちよかった。高ぶっていた身体を冷まし
てくれる。
信一が事の大変さを本当に実感したのは、録音が終わってしばらくしてから
だった。
「お手数をかけました。今度のことはいくらお礼申し上げても――」
「とんでもない」
そんな会話をしている母と鷲宇の背中を前に、前髪をかき上げ、瞬きをする。
(気が早いけれど、もし、J音楽院に通えることになったら……問題山積)
真っ先に思い浮かぶことが二つある。どちらも同程度に大切な、母のこと、
好きな人のこと。
(離れ離れになるなんて、僕に我慢できるのか?)
ここまで来て、まだ悩む自分がいる。
母には、言えば認めてくれると分かっている。しかし、分かっていることに
甘えるのは嫌だった。
――つづく