#4837/5495 長編
★タイトル (AZA ) 99/ 5/30 17:55 (199)
そばにいるだけで 36−10 寺嶋公香
★内容
「折角だからありがたく聴かせてもらうよ。ただ……しばらく待ってほしい。
心静かに聴きたいですからね」
純子と相羽は顔を見合わせ、互いに微笑んだ。
落ち着くまでの間、先生の方から話を始めた。
「あなたも彼の演奏をよく聴くのですか」
純子への問い掛けだ。
少し考え、自分でも判断しづらいという風に首を傾げる純子。
「聴くことは聴きますが、関屋先生の方がきっと回数多いですよ」
「そんなものですか。それでもよく見かける気がする、あなたと相羽君が並ん
でいるところを」
「それは、まあ……委員長と副委員長だから、かな」
同意を求める視線を相羽に送る。
相羽はひとまずうなずいてから付け加えた。
「今日は涼原さんの方がメインだったんですよ、先生」
「え?」
先生と純子の声が重なる。
純子としてはどちらかと言えば触れられたくない点だったので、打ち消した
いところだった。しかし、関屋先生が続けて何か喋ろうとしているのを邪魔す
る真似はできない。
「ということは、彼女こそ音楽室に用事があったと。どんな用事ですか」
問いに対し、けちん坊のお財布みたいに口を閉じていた純子だが、相羽が簡
単に説明してしまった。
関屋先生は腕組みをし、感心した様子でうなずく。
「ははあ、二人は本当に仲がよいんだ。聴いてみたいのは山々だが、今日は遠
慮しましょう。相羽君への誕生日プレゼントならば、それは特別な歌というも
の」
そこまでで一旦切ると、先生は人差し指を立てて考える仕種を見せた。純子
の顔を見て、続きを始める。
「そう言えば、涼原さんは芸能活動をしていると聞いていたけれども、歌手も
ですか」
「い、いえ。違います」
心苦しいが、ここは正直に答えるわけにいかない。おかげで口元の筋肉が強
張ってしまう。
幸いにも、関屋先生はそれだけで納得したようだ。話題を転じてきた。
「私みたいな教師をどう思う?」
唐突な問い掛けだった。返事に窮した純子は相羽の方を見た。相羽も同様ら
しかった。
「これは聞き方がまずかったね。特定の生徒と親しくするのを嫌に感じる人が
いるかどうか、ということを知りたいんですよ」
「――紅畑先生の」
相羽もまた唐突にその言葉を出した。
純子が「え?」とつぶやく。
(紅畑先生の名前がどうして……?)
関屋先生の顔を見ると、頭をかきながら苦笑していた。
「その通り」
必要最小限の応答。
まだ飲み込めない純子には、相羽から説明が入る。
「紅畑先生は、僕と関屋先生が音楽の話をしているのを見ると、いつも不機嫌
になっていたんだ。あ、純子ちゃんも見たことあったっけ?」
「え、ええ。一度だけ。理科準備室の前だったかしら。ああいうのが、何回も
あったの?」
「まあね。聞こえないくらい小さな声でぶつぶつ言いながらそばを通り過ぎた
り、聞こえよがしに咳払いしたり。かと思ったら、はっきり文句を言ってきた
こともあったよ。要するに、先生は生徒に対して公平でなければいけない。だ
から授業以外でも特定の生徒と親しくするのはけしからん!という理屈」
肩をすくめた相羽。嫌な記憶をなるたけ嫌な思いをせずに掘り起こそうと、
芝居がかってみたのかもしれない。
純子はかすかに眉間にしわを寄せ、小首を傾げた。
「その理屈、分からなくはないけれど、相羽君と関屋先生のは全然当てはまら
ないわ。だいたい、紅畑先生だって逆の意味で不公平なところあった……相羽
君に対して」
「ま、好かれてなかったのは確かみたいだったね」
他人事のように流す語調の相羽。
代わりに関屋先生が口を開いた。
「私も年齢差があるとは言え、紅畑先生とはそりが合いませんでしたねえ。あ
の人は大変にきっちりとした性格だった。行き過ぎに見えるくらいに。先生は
こうあるべき、生徒はこうあるべきという枠を持っているんだろうね。あの人
が趣味で描いた絵を見せてもらったことがあるのだけれども、正方形や正三角
形、円などの幾何学模様を整然と並べた物だった。ああ、この人らしいと思い
ましたね、あれには」
「授業で習ったときは静物画だったんですけど、やはり写実的でした。完成し
た絵を見たら、写真を目指しているみたいな感じがあった、よね?」
関屋先生に話していた相羽は、急に純子に同意を求めてきた。純子は即座に
首肯してから言葉を付け足す。
「私さぁ、紅畑先生から絵のモデル頼まれてた」
「――ほんと?」
相羽は声を上げたが、関屋先生の方は静かなまま、ただ目をしばたたかせて
いる。ともに、少なからず驚いたのは間違いない。
純子は四月始めの出来事を伝えた。すると案の定、相羽から間髪入れずに質
問が飛んでくる。
「それで? まさか引き受けたとか」
身を乗り出すどころか、立ち上がってしまった彼の様子に、純子は微苦笑を
浮かべた。
「ううん。かなり熱心に誘っていただいたんだけど、結局断って……」
「なんだ」
見た目にも明らかに安堵する相羽。立ち上がっていた自分に気付いて、さも
何ごともなかった風な顔付きですとんと腰を下ろした。
「悪いことしたかなあって気になってるの」
「気にする必要なんかないよ……多分」
関心を失ったのか、ぶっきらぼうな口調になる相羽。
一方、関屋先生は、
「面白いねえ。紅畑先生は先生でなくなったからこそ、そんなことを頼んでき
たのかな」
と、珍しくも揶揄する口ぶりになって言った。次いで、一転して真面目な調
子に戻る。
「教育熱心には違いないから、引き受けてもよかったかもしれませんよ」
「はぁ」
曖昧な返事をした純子の横合いから、相羽が口を挟む。
「どういう理由で教育熱心だと思われるんですか」
「臨時教員だと言うのに、生徒皆さんのことを把握するために、随分と労力を
注いでいたのを私は見ましたからね」
相羽の表情がおかしかったのだろう、関屋先生は含み笑いをしつつ答える。
「お辞めになる間際にも、受け持ったクラス全員の成績を始めとするデータを
一覧にしてまとめてました。将来よそで授業を受け持つ機会を得たとき、参考
にするというようなことを言っていた」
「……分かりました」
相羽はそう返事しながらも、まだ何やら引っかかっているようだ。視線を関
屋先生から外し、窓の外へ向けた。
しばしの間のあと、先生はやおら手でぽんと音を立てると、
「お喋りが過ぎたようだ。一曲、お願いしようかな」
と、相羽へ投げかける。ワンテンポ遅れた反応があった。
「――僕の好きな曲でいいですか」
相羽の台詞を意外感を持って受け止めたのは純子。
(珍しいわ。たいてい、相手のリクエストを聞いてたような気がするんだけど。
もしかして、今日は私の言いなりに弾いてたから飽きたのかしら?)
「全くかまわない」
先生の返事に、相羽はさらに注釈を加える。
「クラシックじゃないんです。それでも?」
「いいよ」
一分後、メロディが室内に満ちていく。
ビートルズの曲を弾く相羽を目の当たりにしたのは、純子は初めてだった。
誕生日なのに家路を急がない相羽に、純子は心の中で首を傾げつつも並んで
歩いていた。
(お母さんが家で待ってるんじゃないの?)
知らず知らず、横顔を見つめる。
思案顔の相羽は視線を感じたか、うつむいていた面をふっと起こすと純子へ
向き直った。
「どうかした?」
「え、ううん、別に大したことじゃ……それよりも、さっきから黙り込んで何
考えてるのよ。気になるじゃない」
「……考えていたのは……」
相羽のぼんやり目つきが、ある瞬間、急に笑みを携えた。
「君のこと」
「な――また冗談ばっかり」
純子は相羽の右の二の腕をぶつポーズをした。目測が狂って、本当に当たっ
てしまった。
「いてて」
「あ、ごめんなさい。でも、痛いのは嘘でしょ」
「うん」
首をすくめる相羽。
「だけど、君のことを考えていたのは嘘でも冗談でもないよ。――君と紅畑先
生のことをね」
「なぁんだ。大した話じゃないわよ、ほんと。直接会ったのは最初の一度きり
で、あとは電話で三回程度。先生からの催促が二回くらいあって、私からの断
りの連絡を入れておしまい」
「それはいいんだけど……」
再び前を向き、歩き出しそうな気配の相羽。でも、足を前に進めず、ぶらぶ
らさせるのみ。聞くべきかどうか迷っているようだった。
「はっきり言ってよ、焦れったい」
純子が後押しして、ようやく話し始めた。
「紅畑先生の絵、どうなったんだろ? 純子ちゃんに断られたってことは、モ
デルがいなくなったわけだから、描かなかったのかな」
「さあ、知らない……でも、他のモデルさんを見つけて描いたんじゃない?
私じゃなきゃならないってことないんだからさ」
押し込んでいた責任を掘り起こしてしまい、少し胸が痛んだ純子。だから、
ことさら明るい調子で想像を述べた。
「先生に完成した絵を見せてもらってないんだ?」
「そりゃそうよ。断ったんだもの。なのに見せてほしいなんて、頼めるはずな
いでしょ」
「いや、ぜひ見せてもらうべきだね。出展したというのなら、どこかのギャラ
リーに飾ってあるのかもしれないし、見る権利は誰にでもある」
何故だか知らないけれど自信満々に言い切る相羽に、純子は目をぱちくりさ
せた。
「私は別にそこまで知りたいなんて」
「そう。だったら僕が聞きに行くよ」
決心をにじませる強い口調のあと、今度こそ相羽は歩き出した。不意のこと
に、純子も急いで追い付く。
「ちょっとぉ」
「純子ちゃんは気にしなくていいから」
相羽は晴れ晴れした表情で言った。
(変なの……誕生日で浮かれてるのとも違うし)
意味が飲み込めなくて、純子は首を捻るばかりだった。
* *
雨が降っていた。雲の下にあるあらゆる物を徐々に湿らすかのように、ぽと
ぽと、しとしとと。
学生服の肩に着いた水滴を払いながら、憂鬱な気分にぴったりだと相羽は思
った。
(鷲宇さんにピアノを聴いてもらう直前の状態に比べたら、まだずっとましか)
玄関前に立つと、力を込めて呼び鈴のボタンを押す。自分の推測が当たって
いようがいまいが、まともな会談なんてはなから期待していなかった。
(つまんないことから片付けていかないと)
「こんにちは、紅畑先生」
純子から教えてもらった住所を頼りに、相羽はやって来た。到着してから最
初の三十秒程度は、相手も意外そうな表情をするだけで沈黙が続いた。雨音だ
けが間断なく聞こえ、たまに強くなる。
「これはこれは……珍客だな」
「僕も来るつもりなかったんです。理由がなければ」
再び、居心地の悪い空気が流れる。閉じた傘の先から水が滴り、床のセメン
トに黒い模様を広げていく。
「その理由とは? 玄関で済む話かね」
「済むかもしれないし、済まないかもしれません」
「……ふん。では、試しに言ってみたまえ。場合によっては上げてやる」
眼鏡を押し上げつつ、紅畑が言った。
「先生の絵を見せてもらえませんか」
――つづく