#4838/5495 長編
★タイトル (AZA ) 99/ 5/30 17:56 (200)
そばにいるだけで 36−11 寺嶋公香
★内容
「……先生とは誰だい?」
紅畑が薄笑いを浮かべて応じた。
相羽は傘を持ち換えると、相手をじっと見つめ、当たり前の返答をする。
「あなたのことです」
そして先回りした台詞を付け加えた。
「教わらなくなったからと言って、それだけで先生と呼ばないのは変でしょ」
「私は君に先生と呼ばれたくないし、呼んでもらえるとも思っていなかったん
だがね。意外だよ」
「お気遣いなく。心の中までは見えませんから。それで、絵を見せてくださる
んですか? 涼原さんをモデルにしようとして断られたあと、描いた絵を」
「――なるほどね。そういうことかい」
紅畑は笑みを顔中に広げると、部屋の中を気にするように後ろを振り返った。
「長くなりそうだな。上がるか」
「許可が得られるなら」
とげとげしたやり取りのあと、相羽は部屋に通された。
どうやら独り暮らしらしいが、蛍光灯に照らし出された室内は整理整頓が行
き届いていた。入ってすぐ、左右の壁の同じような位置に絵が掛かっている。
花瓶に挿してあるのは造花だろうか、やけにつやつやして見える。
全体的に白っぽくて、病院か事務室を連想させた。唯一、パソコンの置いて
あるデスク上だけが若干散らかっているが、これとて気にするほどでない。
グレーのカーテンの向こうで、窓ガラスが雨に打たれていた。
「座りなさい」
自分の城である余裕からか、紅畑は優雅とも言える手つきで、相羽に座るべ
き椅子を指示した。
相羽がそこへ落ち着くか否かのタイミングで、紅畑は立ったまま喋り始めた。
「お茶は出ないが、かまわないだろう」
「もちろん。早く済ませたいですから」
「絵を見せてくれということだが、それは無理だ」
「何故ですか。出展した物があるはずです」
折角座ったというのに、立ち上がりたくなった相羽。だが、自らを冷静にす
ると、静かに続けた。
「実際に出展もされたそうじゃないですか」
「ない。かつてあったが、気に入らなかったので処分した」
「……最初から乗り気でない絵だったんですか。そんな早く処分してしまうな
んて」
「ふん。面白いことを言う」
実際に笑うと、パソコンの前の椅子に腰掛けた紅畑。椅子の向きを換えて、
相羽と斜に向かい合う形になった。
「まあねえ、意欲ないままでっち上げで書いた絵なのは確かだよ。分かるだろ
う? 元教え子に断られて、がっかりしてたんだから」
芝居がかってきた。道化のように表情を歪める紅畑。身振り手振りも加わっ
た。
「涼原さんを描きたいと思ったのは何故ですか」
「理由が必要かい? 芸術家の創作意欲を理屈で説明せよと言うのかい?」
「普通なら、僕だって説明を求めません」
激しく上下する紅畑の両手から目をそらし、相羽は淡々と言葉を吐いた。
「今度の場合は普通じゃない気がする。僕には、紅畑先生が別の意図を持って、
彼女に目を着けたと思えるから」
「ふーん? ますます面白いってやつだ。その理由を聞きたいねえ」
「あなたが僕を嫌っている。理由はこの一点です」
「ははは。全然つながってこないなあ。私が君を嫌うのは事実としていいが、
それを持って私が涼原さんをモデルに選ぶとは、さっぱり分からんね」
「分かってもらうのは簡単です」
相羽は向き直り、再度紅畑へ視線を合わせた。
「僕は――彼女を想っている。そしてこのことを、あなたは察していた」
「……」
虚を突かれた風に、唇を噛む紅畑。肘掛けに乗せた両腕に力が入ったのか、
椅子が軋む。相羽のストレートな表現が、予想の範囲を超えていたせいなのか
もしれない。
「違いますか」
「何だかよく分からないが。君の言うこと全てを認めたとしても、私が涼原さ
んをモデルに選ぶ理由には結び付かない」
「僕に対する嫌がらせになるでしょう」
「……自意識過剰な奴だな」
紅畑は相羽に背を向けた。パソコンの電源を入れる。いや、元から起動して
あった物を思い出したかのように触り始める。
「私がそんな暇人に見えるかね」
「さあ。少なくとも、時間は有り余っているように見えますけどね」
「失敬な。私は純粋に創作意欲から」
「では、これをどう説明します?」
相羽は真っ白な紙を取り出し、折り畳んだ状態のまま、ひらひらと振った。
彼は紅畑宅へ乗り込むに当たって、純子が受け取った偽の相羽名義の手紙を
持って来ていた。
肩越しに振り向いた紅畑に対し、裏面だけを見せつつ紙を開いていく。
紅畑はかすかに鼻で笑い、またパソコンへ。
「知らんな、そんな手紙」
「−−ふふっ、ははは」
相羽は思わず笑い出してしまった。
「何がおかしい? 変な奴だ」
「だって、先生。こんな簡単に引っかかってくれるとは期待してなかったから。
色んな手を用意してきたのに」
「わけの分からんことを。手紙なぞ知らないと――」
言葉を途切れさせた紅畑。顔色を変えて、慌ただしく、今度は椅子ごと向き
直った。
「貴様……子供のくせして、ペテンにかけたなっ?」
「ペテンじゃありませんよ。正直に言っただけです」
「いい気になるな」
勢いよく立つと、紅畑は真っ直ぐ相羽の席へ近付いてきた。そしてやおら相
羽の手から紙を取り上げる。
「こんな物っ。ああ、おまえはお利口だよ。これが手紙だとは一言も言わなか
った。それを私は手紙だと口走った。だから私が出したと言う気だろうが。し
かし、そうは行かない」
勝ち誇ったように見下ろしてくる。
相羽は目線を普段の高さに戻し、相手の言葉を待った。
「文字が透けたんだ。こういう紙に文字があれば、手紙と考えるとは当然だよ
な。見ろ、こうして」
両手で紙をしっかり広げる紅畑。その表面を見上げた。
「……何だ、これは」
「言ったでしょう、色んな手を考えてきたって」
相羽は椅子を離れ、紅畑の細い身体の横をすり抜けると、部屋の戸口のすぐ
そばへ立った。
紅畑の手にある紙は、全くの白紙であった。表も、裏も。
「手紙の実物は、ここにあります」
自分の胸元を指差す相羽。
「白紙を見て手紙だと思い込んだ紅畑先生……あなたがこの一連の悪戯を仕掛
けたんですね」
「……返事する必要はない」
紅畑は紙を握り潰し、丸めた。くずかご目がけて投げつけるが、当然、入り
はしなかった。
「どうして私を疑った? 去年の十月だぜ? 普通なら忘れているはずだ。だ
からこそ私は計画を実行に移した。それなのに」
「先に、謝ってくれないんですか」
「そんなつもり、あるわけないだろうが」
「……」
相羽は深い息をついた。奥歯を噛みしめ、いくらかうつむく。必死の思いで
こらえて、改めて口を開いた。要点をまとめず、だらだらと告げてやる。
「僕や涼原さんの住所を知っていて、僕が涼原さんを想ってることを勘付いて
いて、学校のコンピュータを扱えて、ローマ字で『じゅ』を表すのにZを使っ
て、しかもこんな悪戯をする動機のある人は、一人しかいない」
紅畑は一点についてのみ、怪訝な顔を見せた。
「……Z……?」
「関屋先生に頼んで、見せてもらったんです。あなたが学校に残したプリント
やデータ、美術作品の類を。ローマ字を使っている箇所は少なかったけれど、
日本式の表記に忠実だった」
「ああ」
紅畑は奇妙に明るい表情になると、倒れ込むようにしてデスク前の椅子に着
いた。
「あの年寄りの協力があったのか。ふん、Jなんか使わない。私は秩序だった
物が好きなんだ。ZがあるのにJを使うなんて、ばかげてる。VもFも認めな
い。CHやSHIなんて論外だ」
相羽が黙したまま、きびすを返そうとした刹那、相手は声を張り上げた。
「さぞかし満足だろうな。用は済んだな? さっさと帰ったらどうだ」
「帰るところです。見ているとつらくなる」
小さな礼をして完全に背を向けると、相羽は歩き始めた。
「つらくなる、だと? どういう意味だ?」
紅畑の声は大音量を保っていた。
相羽は靴を履きながら、静かに答える。
「こんな哀しい人は見たことありません。見ていられない」
立ち上がると傘を取る。
ドアを押し、外に出るまで、部屋の方からは紅畑の言葉が呪文のように響い
てきた。
ドアをしっかり閉めた。
傘を開きながら思う。
(雨、早く上がらないかな)
* *
六月目前だと言うのに出発の日が晴れ渡ったのは、日頃の行いとは関係ない
だろう。とにかく、素直に喜んでおく。
「すっごい荷物」
富井のぱんぱんに膨れ上がったスポーツバッグを見て、純子や町田、井口ら
は同じ感想を漏らした。
「何入れてきたの?」
「みんなと変わんないよぉ。着替えとお菓子と」
指折り答える富井。途中でバッグを持ち替えた。
「物は同じでも、数が違うみたいね」
「そうかなあ? 確かに、これだけ詰め込むには苦労したよ。入ればいいって
もんじゃないでしょ? こう、形よく入れるには」
得意げにこつを語る富井だった。そんな彼女を評して町田が一言。
「郁は、完全に『何かあったときのために』タイプだね」
「何それ?」
町田の発言には、富井以外の二人も首を傾げた。
「旅行なんかに行こうとすると不安ばかり想像しちゃって、もしもお金が足り
なくなったら困るから余分に一万円、もしも着替えが雨に濡れたら困るから余
分に二枚――」
「ふぁ! どうして分かるの? まさか見てたんじゃあ、芙美ちゃん?」
本気でそう思っているのか、富井は一際声を高くした。
「でも、一万円じゃないよぉ」
皆で笑っていると、そろそろ時間が迫ってきて、クラス別に離れ離れに。
「着いたら、またね」
「できれば相羽君連れて来てよ、純子」
井口からのお願いに肩をすくめる純子。とりあえず、五組の並ぶ位置へ急い
だ。副委員長が遅れては洒落にならない。
「来た来た、すっずはらさん!」
それまで相羽や大谷と話し込んでいた唐沢が、純子を見つけると片手を挙げ
て大きく振った。
「みんな、おはよ。晴れてよかったね」
「そうそう。今日から四日間、よろしく」
唐沢は朝も早くからテンションが高い。じっとしていられない様子で、足踏
みしたり、バッグのポケットから物を出し入れしたりと、やたらと張り切って
いる。
「いっぱい写真撮っちゃる」
「女子の写真、じゃないのか?」
同じ班の大谷の突っ込みを唐沢は否定もせず、そうだなとつぶやきながら両
手の親指と人差し指とで、カメラのフレームを形作った。そこにできた四角い
穴から純子の方を覗く。
「幸い、すぐ近くにモデルさんがいらっしゃることだし。ほい、笑って」
「うふふ。フィルムの無駄遣いしないでね」
「女の子さえ写っていれば、無駄とは言わないさ」
笑い飛ばす唐沢。
その横で相羽が片手で頭を抱える仕種を見せた。悩むと言うより、迷ってい
る感じだ。
「どうしたの?」
「前の全校集会のことを思い出してた。もし旅行中に涼原さんが疲れて倒れる
ようなことがあったら、どうやって荷物を分担するかなと」
純子は見返しながら、わざと大げさに息をついた。
「あのね、心配してくれるのは嬉しいんだけれど、そんな頻繁に倒れてたまる
もんですか。お待ちかねの修学旅行なんだから、思い切り楽しむわよ!」
――『そばにいるだけで 36』おわり