#4836/5495 長編
★タイトル (AZA ) 99/ 5/30 17:54 (200)
そばにいるだけで 36−9 寺嶋公香
★内容
「多分、テープを郵送して、向こうで聴いてもらうことになるだろう。いつ頃
までに録音できる?」
この質問には答えられず、信一は隣の母親を見た。
「急なことなので、具体的な見通しはありません。それに、明々後日からこの
子の学校、しばらく修学旅行なんですよ」
「へえ。いいな」
母親の言葉を受けて鷲宇は微笑を信一に向けてきた。
信一はふと旅行の準備のことを思い起こし、頭の中でチェックする。
(カメラはどこかでレンズ付きフィルムを買うとして……)
見上げたりうつむいたりしていると、鷲宇から重ねて言葉をかけられた。
「彼女とも一緒だってね」
「はい?」
「えーと、何て呼ぼうかな。風谷美羽、久住淳」
「ああ……」
鷲宇の笑みにスパイスが加わったようだ。信一は生返事だけにした。
これには鷲宇も折れたか、あっさりとその名を口にする。
「涼原さんが無茶しないよう、見守っててもらおう。今彼女に何かあったら、
僕の方も大変だから。はは」
「頼まれなくても、同じ班だから嫌でも目に入りますよ」
『嫌でも』なんて心にもないけれど。
息子の心の動きをあたかも読み取ったように、母親が話題を引き戻した。
「そういう事情ですから、帰って来たあとになりますわね」
「うん、ちょうどいいじゃないでしょうか。何日間かの余裕があるわけですよ
ね? その合間に僕の知り合いに言って、準備を整えさせますよ」
「そんなことまで――」
一から十まで世話になり通しでは申し訳ないという意味のことを言おうとす
る相羽の母を、手で制した鷲宇。
「気になさらないでください。聞くところによると、涼原さんを“発掘”なさ
ったのは相羽さんだそうですね。これは、そのことに対する感謝の気持ちです。
それに」
笑みを浮かべていた鷲宇の表情が引き締まったように見えた。
「僕も信一君のピアノを聴いてみたい」
真っ直ぐな視線を受けて、信一は瞬きを止めた。全校集会で前に呼ばれて表
彰を受けたら、こんな気持ちになるだろうか。誇らしさや嬉しさに、緊張感と
照れが加わって。
「――弾くだけなら今からでも」
冗談めかして返した。言って、少しだけ後悔した。真面目に受け取られたら
困る。そして鷲宇という人はそういうところがあるのだ。分かっていて、つい
言ってしまった。
静かな間ができた。
信一は唇を上下とも内側に噛んだ。その心の内は、寝床に入ってまんじりと
もせずに考えごとをするときに似ているかもしれない。
「そうだな」
果たして、鷲宇は肯定的な台詞を吐いた。
「まあ、そんなことはないと思いますけれどね。万一にも箸にも棒にも掛から
ない腕前だったら、僕もニーナに合わせる顔がなくなるわけだし。信一君、や
ってみようか?」
* *
定期試験と修学旅行の間には、ちょっとした――幾人かの女子にとっては重
要な――出来事があった。出来事と言うよりも、メモリアルデーとした方が適
切かもしれない。
(わ、忘れてた)
当日の昼休み、他クラスより遠征してきた富井や井口、あるいは同じクラス
の白沼が行動を起こすのを目の当たりにして、純子は土壇場で思い出した。真
っ白だった頭の中に、あぶり出しの文字のように浮かび上がる。
「五月二十八日って……相羽君の誕生日だったのよね」
純子がつぶやくのへ、プレゼントを渡し終えた井口が目を白黒させた。
「何を今さら。覚えてなかったの? 意外ーっ」
「だって」
人差し指を立てた右手を宙に浮かせ、口を開きかけた純子。言い訳しようと
して、寸前でやめておく。
(練習やリハーサルで忙しかったから、なんて理由にならないよね……)
「久仁ちゃんは何渡したの?」
富井が井口に聞いている。
「私、懐中時計の鎖。安物だけどね。相羽君の懐中時計の鎖がだいぶ古びてい
たのをチェックしてたのよ」
「えー? 気付かなかった」
歯ぎしりまでして悔しさを露にする富井に、井口が「そういう郁江は何あげ
たのよ」と質問返し。
「私はねえ、人形を手作りしちゃったぁ」
声は小さくしたが、嬉しそうに返事する。
「男の子に人形?」
「うん! ちっちゃいのなんだけどね。サッカーの服着てる相羽君をモデルに
してマスコット人形作って、キーホルダーに着けてみたの。我ながらかわいく
できて満足したから、思い切って渡したんだぁ。いいと思うでしょ?」
「試験前に指に絆創膏を貼っていたのは、そのせいだったのね」
二人とはクラスの違う純子は、へえ、そんなこともあったんだと首肯する。
(それにしても、私はどうしようかな。これからプレゼント用意するのは難し
いから、行動で示そう……今日が部活あるなら思い切りサービスするという方
法も採れたんだけど)
あいにく調理部の活動日ではなかった。
幸いにも、修学旅行が終わるまでは、久住淳としてレッスンを受ける必要が
ない。フリーだ。だから放課後、時間が空いていることは空いているのだが。
(しょうがないか。ここはストレートに)
ようやく一人になった相羽の肩を、純子は後ろから指でつついた。振り返っ
た相羽が笑顔になるのを見届けつつ、単刀直入に聞く。
「相羽君、誕生日プレゼント、何がいい?」
「……」
相羽の目が大きくなったようだ。眉間の辺りを手の甲でこする仕種のあと、
元のように前に向き直る。
「相羽君、どうかした? ねえねえ」
机の前に回り込むと、膝を折って目線の高さを相手と同じに揃える純子。
相羽は午後からの授業の用意を始めた。そして重要なことを話すみたいに、
ゆっくりと口を開いた。
「嬉しいけれど唐突だなと思って。今日聞いてくるなんて、忙しない」
「それは……忘れちゃってたの。許してね」
両目を閉じ、手を拝み合わせる純子。いつまで待っても反応が返ってこない
ので、左目だけ開ける。
相羽はそれを待っていたかのように、すぐ答えた。
「思い出してくれて、サンキュ」
ほんのちょっぴり、瞳が潤む。ハートはもっと潤んだ。
(なんて――優しい!)
絶対今日中に、気持ちよくお祝いしてあげようと、石よりも固く決心。
できれば相羽の望む物を慮って、さり気なくお祝いしてあげたい。でも、今
からだと時間が足りない。やはり直接聞くしかなさそうだ。
「それで、何がいい? 品物は難しいけれど、できるだけ努力するから」
「気持ちだけで――」
「私の気が済まないのっ」
相羽の台詞を遮り、きっぱり言い切る純子。そのとき、予鈴が鳴った。話を
急がなくては。
「とにかく、学校が終わってもしばらく残ってね、お願いよ」
「はあ」
「絶対よ。リクエストがないんなら、何か考えるからっ」
念押しすると、身を翻して自分の机へと小走り。
背中に目があるわけでなし、このときの相羽がどんな表情をしていたのか、
純子には全く見えなかった。
放課後になってから、相羽は希望を出してきた。
故に今、純子と相羽は音楽室にいた。他には誰もいない。
「本当にこんなことでいいのー?」
純子は、答の分かっている質問をした。
「もちろん」
ピアノの前に座り、相羽は指馴らしを軽くやり終えた。
相羽のリクエストは二つ。「歌が聴きたい」と「サインがほしい」だった。
その内の一つ、歌の方は相羽がピアノで伴奏してくれるという。曲は何でも
いいとのこと。
「やっぱり、『そして星に舞い降りる』はよした方がいいわよね。もし他の人
に聴かれたら、ばれるかもしれないから」
「曲は任せるってば。僕の弾けない曲は困るけれど」
「……『ねこふんじゃった』でもいい?」
ふと思い付いて意地悪を言う。
相羽は悲しげに眉を寄せた表情を作ると、「仕方ない」と無念のつぶやきを
上げた。それからおもむろに、今にも弾き始めるかのように両腕を振りかぶる。
純子は教壇を降りて、ピアノの横へ――相羽へ――駆け寄った。
「嘘よ、嘘! 本気にしないで」
相羽はピアノの鍵盤に触れる直前に、両手を宙で静止させていた。純子のい
る右を向いて、分かってると言いたげに軽くうなずいた。
(またやられたわ……)
短い間うつむくと、お下げ髪を振って面を起こす純子。
「『上を向いて歩こう』」
「え?」
せめてものお返しに、意外な選曲をしてやった。案の定、さしもの相羽も目
を白黒させている。
「『上を向いて歩こう』よ。教えてもらったばかりだけど、鷲宇さんが好きな
ナツメロの一つで、アメリカではスキヤキって言うんだって」
「いや、それは知ってるけれど。君が唱うの?」
「何でもいいって言ったじゃない」
「分かった。じゃ、ちょっとだけ練習する時間を」
有名な曲だから探せば音楽室のどこかに楽譜があるかもしれない。しかし相
羽は譜面なしに、メロディを口ずさみながら手探り状態で感覚を掴んでいった。
「知ってる曲?」
「むかーし、遊びで弾いたことあるよ」
ものの五分ほどで練習は終わった。
「よし。都合いいときに合図して」
「ううん。相羽君に合わせるから、いつでもOKよ」
ピアノの向こうで相羽がうなずき、前奏が始まった。
* * *
気持ちよかったし、相羽がまだ聴きたがったこともあって、他に二曲も唱っ
てしまった。『オー、シャンゼリゼ』と『アメイジング・グレイス』、ともに
鷲宇からレッスンを付けてもらった曲だからそこそこ自信を持って唄えた。
「ああっ、楽しかったあ」
指先で胸を軽く押さえ、息をつく。高揚した気分を落ち着ける。
「ありがとう。プレゼント、確かにいただきました」
最前列の椅子に座っていた相羽が拍手をした。三曲目はアカペラだったので、
相羽は聴衆に徹することができて一層満足したのかも。
「人前で唱うのって、あんまりないから緊張したのよ。おかしくなかった?」
「全然。いつの間にこんな……鷲宇さんて凄いんだな。屋上で聴いたときより
もまたレベルアップしてて、震えた」
「まったく、大げさなんだから」
ここと屋上では音響効果が段違いでしょ、と続けようとした純子だったが、
ドアをノックする音に中止を余儀なくされた。相羽と二人してそちらを振り向
く。
「どうぞ! 何でしょうか?」
「いいかね?」
確認を取ってから戸を引いたのは、関屋先生だった。稀なことに走ってきた
らしくて、呼吸に合わせて肩を激しく上下させている。
「ど、どうしたんですか」
「い、いや。君が……相羽君が、音楽室の鍵を借りていったと小耳に挟んだん
ですがね、これは当然ピアノ演奏するんだろうとぴんと来たのだけれども、済
まさねばならない用事を抱えていて、それを片付けて飛んで来たのだが、間に
合わなかったようだね。ぜひ聴きたかった」
息を切らしかけているというのに、先生は区切ることなく喋った。それだけ
気が急いていたのかもしれない。
「……光栄です」
さしもの相羽もびっくりしたのか、そんな短い言葉しか出ない。いつもなら、
「先生が廊下を走っちゃあまずいでしょ」ぐらい言いそうなものだ。
純子は、関屋先生が腰に後ろから手を当てたのを見て思い出した。そして、
相羽へ提案する。
「ピアノ、弾いて」
「――OK」
意図を一発で理解した相羽は、ピアノの前に回ると蓋を開けた。
「悪いね」
椅子に腰掛けつつ、呼吸音を交えて言った関屋先生。ネクタイをいじりなが
ら付け足す。
――つづく