#4594/5495 長編
★タイトル (AZA ) 98/ 9/21 12:42 (198)
そばにいるだけで 27−2 寺嶋公香
★内容
早すぎて、純子にはほとんど聞き取れなかった。
「え?」
「僕が……喋らなかったらいいんだろ。誰にも言わない。誓う」
相羽の決意の現れた言い様に、純子はほうっと息をつき、胸に手を当てる。
「よかった」
「いちいち口止めされなくたって、言うもんか。こっちだって冷やかされるの
はたまらない」
相羽は早口――むしろ焦ったような調子で言うと、天井を斜めに見上げる。
そのまま、落ち着きをなくした感じできょろきょろと。瞬きも忙しげになった
みたい。
純子も火照りの残る顔を下に向けて、黙りこくる。
静寂ができた。
部屋の中はもちろん、外から入り込んでくる“すきま音”も。
あるいはそれは気のせいかもしれない。静かなこの間を必要以上に意識して、
何か喋らなくちゃと思うが故に、他の音が耳に入らない。時間も長く感じる。
「あのっ」
たまらず声を発する純子。いつの間にか口の中が乾いていたらしくて、少し
しわがれていた。せめて唇を湿らせる。
「しゃ、写真、楽しみよね。いっぱい撮って、思い出もたくさんできた」
「う、うん。そうだね」
ぎこちない会話のあと、理由もなく笑う二人。
相羽はどうだか分からないが、純子の方は脳裏のスクリーンから浴室のシー
ンを追い出すことに、なかなか成功しない。吹っ切ろうとして、思わず立ち上
がった。
「純子ちゃん、足……」
「いいの、いいの! ミルクティにしようかしら、なんて思ったから」
多少ふらつきながらも、台所に向かう。
背後で、相羽の立ち上がる気配を感じた。
「それなら、言ってくれよ。取りに行くから」
「相羽君、他人の家の冷蔵庫をちょくちょく覗く気?」
遠ざけるため、わざと意地悪を言って、急ぐ純子。抹茶色をした冷蔵庫の前
にたどり着くと、片手でその角を持ち、もう片方の手を取手に掛けて力を入れ、
扉を開ける。少々苦労して、牛乳瓶を一本、取り出した。
「相羽君もミルク入れてみる?」
会話を途絶えさせぬように気を付けながら、居間に戻ろうと足を運ぶ。
「危なっかしいな」
心配げにつぶやく相羽。部屋と部屋との境目に立つ彼の前を通り、居間に一
歩を踏み入れた刹那、純子はバランスを崩してしまった。
「あっ」
鋭く叫び、前のめりに倒れそうになる。その身体の下へ、相羽の腕がすかさ
ず届く。
「――ほら、言った通り」
誇らしそうな口調の相羽は、純子の二の腕を掴んで支え、改めて立たせてか
ら椅子へと導く。牛乳も奇跡的に無事だった。
「あ、ありがと」
お礼を述べながらも、内心では別のことを考える純子。
(逆効果だわ。もう大人しくしとこう。その分、お喋りでごまかす、と。うん、
それが一番。そうしてないと、どことなく息苦しくて)
椅子に落ち着いた純子は、服のしわを直そうと、スカート部分を手前に引っ
張る。必要以上に時間を掛けるのは、頭の中で話題を探しているから。
「えっと。あ、そうだわ。ハンカチ、返さなくちゃ」
「ハンカチ? ……そうか」
相羽はすぐに理解したらしく、軽くうなずき、純子の方を見た。
と、彼の口から妙な調子の声が漏れた。
「あ……」
ハンカチを取りに行こうと立ち上がりかけていた純子が顔を向けると、相羽
の戸惑った表情が見て取れた。目が泳いでいる上に、頬がかすかに赤くなって
いる。
「どうかした?」
「あ、あのっ。動かない方がいいと、思う、よ」
声が裏返るのに合わせたように、相羽は純子に背を向けた。
動かないでと言われても、何のことだか分からない。小首を傾げる。
「変なの。どうかした?」
「――かっ肩肩」
「カッカタカッタ?」
「肩を見ろって!」
純子は相羽の口調の急変ぶりにむくれて、「何よ」と不機嫌一杯の響きで言
いながら視線を右斜め横に向けた。
「あっ、あっ」
両肩を視認して、ようやく事態を飲み込めた。
肩の紐がほどけて、一重結びになってしまっている。特に右側は今にも離れ
離れになりそうなほど。
慌てて手で押さえにかかる。右手で左肩、左手で右肩の紐を。
その弾みで、右の紐は完全に解けてしまった。
「きゃっ」
「もういい? 結べた?」
「ま、まだ! こっち見ないで」
回らぬ舌で何とか伝え、修復に取りかかる純子。
が、焦りと気恥ずかしさとで、指がなかなか言うことを聞いてくれない。
そして唐突に――玄関のドアの開く音。
買い物篭を板張りの廊下に置く音が、かすかに聞こえたような。
「ただいま。お客さん、お友達なの、純子?」
* *
果物のセットを買った頃になって、相羽は落ち着きを取り戻した。
「よし」
自転車に跨り、白沼の家に向かう。久しぶりだけれど、道は覚えている。果
物が傷まないようにと、自転車篭には入れずに片手で持ったまま。運転は慎重
に。
(小遣い、ピンチ)
一日の内に二人の見舞いに行くなんて、なかなかあるものじゃない。だから、
気持ちの切り換えがしきれず、戸惑う。
加えて相羽自身、切り傷はまだかさぶたが取れない状態なのだ。怪我人が怪
我人を見舞っているような風景ができるわけで、相手に気を遣わせてしまいか
ねない。
さらに、先ほど、純子の家を訪ねた際のハプニングで、相羽の精神的疲労は
ピークを迎えようとしていた。
白沼家に着き、インターフォン越しに来意を告げると、当然のように中へ通
された。見舞品を手渡してから尋ねる。
「白沼さんは……絵里佳さんは、元気ですか」
「ええ、もうほとんど」
白沼の母とはほぼ初対面と言っていい。華やいだ雰囲気を持つ人だと思った。
自宅にいるにしては、派手なアクセサリーを身に着けている。横顔などは、
親子そっくりだ。鼻や顎の辺りのシルエットが、ぴたりと重なるだろう。
「念のために、こうして面倒を見ているのだけれど、その必要もなくなったよ
うだわ」
言うと、ウィンクをする白沼の母。まつげが長いので、音が聞こえそうな錯
覚に陥る。
相羽の方は、きょとんとするほかない。目で問い返したつもりだった。
が、返答をもらう前に、白沼の自室に通ずるらしいドアの前に到着した。
「絵里佳?」
母親の呼びかけに白沼の声はなく、その代わり、ドアが静かに開いた。
「嬉しい、来てくれて!」
飛び出してきた声の主は、ドアの開き方とは対照的に賑やかだった。
相羽の両手を取ると、小さな振幅で上下させる。表情には笑みが絶えない。
「元気そうで安心したよ」
気圧されつつ、相羽は応じた。
白沼は相羽の手を引きながら、さらに答える。
「本当は、直前までぐったりしていたの。いっぺんに回復できたのは、あなた
がお見舞いに来てくれたか・ら」
語尾の微妙なアクセントに合わせ、白沼は相羽を部屋に完全に引き入れ、ド
アを閉める。クーラーが程良く効いていた。クローゼットに勉強机、複数個の
本棚等が配されているのに、まだ広い。ベッドはないが、多分、寝室を別に持
っているのだろう。
カーテンが引かれた室内を、蛍光灯が白く照らしている。そのせいか、二人
きりになって改めて窺うと、白沼の顔色はまだよくないように見える。
(これで声に張りがなかったら、全然治ってないと思うだろうな)
苦笑しそうになるのを押し込め、相羽は白沼に大人しく休むよう促した。
白沼の方はいくらか考える素振りのあと、一つうなずき、「治りかけが肝心
と言うわね」と唄うようにつぶやいた。そして、あらかじめあった丸く大きい
クッションにちょこんと正座する。
対面する位置に同じクッションがもう一つ。相羽来訪を耳にして、白沼が手
早く置いたものとみえる。
「座って」
「長居するつもりはなかったんだけどな。ま、ここまで上がり込んどいて言う
台詞じゃないか」
「そうよ。お茶して行っても罰は当たらないわ」
白沼の言葉が合図だったかのように、ドアが遠慮がちに小さくノックされた。
「いいわよ」
呼応して入ってきたのは、女のお手伝いさん。以前、クリスマスパーティの
ときに見た人とは違っていた。
その腕のトレイには、オレンジ色の液体の入ったグラス、カットしたメロン
を載せた皿、シューアイスらしき冷菓が各々二つずつある。彼女はそれらを置
くと、一言も発さぬまま立ち去った。
相羽も黙礼をしただけだったせいもあるかもしれないが、それにしても無口
だ。
いや――むしろ、白沼に気を利かせたとも考えられる。
参ったなとばかり、相羽が後頭部に手をやるのへ、白沼はおっ被せるような
口調で告げた。
「さあ、食べてよ」
「……いただくのはいいとして、白沼さんはこういう冷たい物、もう大丈夫な
んだ?」
「ええ、まあね。自分の家に戻って来たら、完全に安定したわ。精神的なこと
も関係してたみたい。私ってデリケートだから。――ほら、早く口を着けて」
「いただきます」
純子をお見舞いした際に食べた分がまだ腹に残っていたが、相羽は手を伸ば
した。最初はシューアイスから。
「それね、M**のなの。パッケージを見れば分かるでしょうけど。おいしい
って有名なのよ」
説明を聞きつつ、相羽は一口かじってみた。
(……固い。冷やしすぎのような)
それでも口の中で転がしていると、アイスクリームが溶け出してきた。いか
にもシュークリームらしく、カスタード味が舌に広がる。
「うん。確かにおいしい」
「でしょ。気に入ってくれた? 最高だものね」
自らも菓子を口に運びながら、白沼は賛同を求める話しぶりになった。
「ん、まあ……」
ジュースを飲むのに紛らわせて、語尾を濁す相羽。味を問題にしているので
はない。
(冷たい物を食べるなら、暑い場所の方がいい)
余計なことを考えた罰か、こめかみが痛くなってきた。つい、指先を当てて
しまった。
「あら、大丈夫? 急いで食べるからよ。お見舞いに来て調子悪くしてたら、
洒落にならないわ」
白沼はチャンスを狙っていたかのごとく、クッションを持って、相羽の隣ま
でやってきた。ぺたりと座り込み、覗き込んでくる。
「こんなの、病気でも何でもないだろ」
痛みが去ったのでしかめっ面を戻し、頭を小さく振る。
「白沼さんこそ、本当に治ってる? 僕が帰ったあと、ぶり返したなんてなっ
たら、嫌だよ。恨まれる」
「ほとんど治ったって言ったでしょ。完全に元気になるまで、あと一押し。相
羽君がいてくれるのがちょうどいいわ。楽しいし」
「……」
言葉を継がず、ジュースを再び飲む相羽。
「ねえねえ、いい機会だと思うのよね。色々と聞かせてよ、相羽君のこと。初
めて会ってから一年も経っているのに、まだよく知らない」
「たとえば?」
「そうねえ、趣味や特技なんかはもう分かってるから……好きな芸能人とか」
興味津々といった眼差しを向けてくる白沼に対し、相羽は横顔を向けたまま。
ちょっとだけ考え、返答する。
「鷲宇憲親(わしゅうけんしん)かな」
「男じゃないの。女性の有名人で好きなタイプは?」
白沼の怒ったような口ぶりに、相羽はため息をついた。またしばし黙考する。
(純子ちゃんの名前を出すわけにいかないし……せめて芸名が決まってたらな)
熟慮の結果は――。
――つづく