#4593/5495 長編
★タイトル (AZA ) 98/ 9/21 12:40 (200)
そばにいるだけで 27−1 寺嶋公香
★内容
最後の電話を終え、送受器を置くと、純子とその母は胸をなで下ろした。
林間学校での不注意からの怪我により、短期間ながら芸能レッスンを休まざ
るを得なくなった。そのことを詫びる電話を方々に入れたところ、相手方の反
応は概ね好意的だった。
もっとも、仕事が今現在入っていないという理由が大きいに違いないが。
「喉の方は何ともないんでしょうね?」
ソファに横になった純子へ、母の問い掛け。
「そっちは問題なしよ。怪我で大騒ぎしてる間に治ったみたい」
先ほどの電話で、身体が動かなくても声は行けるでしょうということになり、
近々、試しにレコーディングしてみようとの話がまとまった。打診してくる各
レコード会社に、事務所から判断材料として提出するわけだ。
(声を聴かせた途端、どこも相手にしてくれなくなったらみじめだな)
そんな悪い想像を思い巡らせる一方で、声楽を教わったことによる自信も少
しはある。「これでだめなら仕方ない」の域にはまだ達していないものの、最
善を尽くす覚悟はできた。
「買い物に出かけてくるけれど、安静にしてなさいよ」
「はい。行ってらっしゃい。気を付けてね」
母親から言われるまでもなく、早く治さないと、何かと差し障りがある。
(夏休みに入ったばかりなのに、ついてない)
当然、宿題もあるのだが、今は机に向かう気力が萎えているので、ソファに
身を委ねたゆったりした姿勢のまま、英単語や古語の意味を辞書で調べていく。
単調作業なので、音楽をかけた。
ようやく調子に乗ってきた頃――呼び出し音に水を差された。
部屋に流れる曲のせいで最初、電話と勘違いしたが、プレーヤーを止め、耳
を澄ませると玄関の方だと分かる。
「はーい、今行きますから、ちょっと待ってください」
家具や柱を手がかりに、玄関まで、とことことこ……と時間を要しながらも
たどり着く。
ドアを目の前にして、手櫛で髪を整え、着物のしわを直した。ノースリーブ
のレモンイエローとメロングリーンの服だ。両肩の部分を紐で結わえて、頭か
らすっぽり被るワンピース。
「お待たせしました……。わ、相羽君じゃない!」
「こんにちは」
ぼんやりした視線のまま、白いポロシャツ姿の相羽はとぼけた調子で挨拶を
してきた。後ろ手に組んで、家の中を覗き込む風に首を巡らせている。
純子の方は、今日に限ってどぎまぎ。林間学校での色んな出来事が思い起こ
されて、何故かしら身体の内が熱くなる。
「こ、こんにちは……って、何の用?」
「おばさんやおじさんはいないの?」
「お父さんは仕事で、お母さんは買い物。一人で留守番よ」
「ごめん。じゃ、すぐに帰った方がいいか」
眉を寄せると、相羽は手を前に持ってきた。赤と白のストライプが縦に入っ
た紙の小箱が提げられている。
純子は一目見て何か分かった。箱を指差しながら、相羽の顔を見つめる。
「うぃっしゅ亭の……」
「そうだよ。あそこのパン、純子ちゃんのお気に入りでしょ」
「うん。だけど、どうしたの? 急に」
「どうしたのと言われても困る。お見舞い」
改めて、純子の両手に箱を押し付けるようにする相羽。
純子は自分の顔がほころぶのを意識した。
「わあ――ありがとう!」
「そ、そんなに喜ぶ? 花にしようか食べ物にしようか、迷ったんだけど」
「花も好きよ」
食いしん坊だと思われてはたまらない。きっちり言っておく。
相羽はかすかに含み笑いをして、さらにもう一つ、荷物を取り出した。それ
は小さな四角いケースに入っている。
「あと、これ……見舞い品じゃなくて、約束の物。君が好きだって言った曲を
集めてダビング――」
「してくれたの? 嬉しい!」
台詞を中途で受け取り、ついでにディスクも受け取って、胸にいだく純子。
「上がっていって。時間あるんでしょ?」
「いいの? 一人なんだろ?」
「ええ、退屈しかけてたところ。遊びに行けないから、宿題やってて……そう
だわ。数学、教えてほしいなっ」
「いや、そういう話の前に、おばさん達がいないときに上がっていいのかとい
う問題……」
相羽の戸惑った様子に、純子は笑み混じりの息をつく。
「これまでにもあったでしょうが、こういうこと。心配いらないって」
「そう言うなら」
相羽は扉を閉め、靴を脱いだ。
そして、純子に手を貸しながら、リビングに向かう。
「――涼しそうな格好してるんだね」
「ああ、これ? あは。冷房を抑えて、節約してるの」
答えてから、薄着の自分と相羽が最接近している状況に気付いた。
(うわ。私ったら、慣れ過ぎちゃってる)
林間学校でのひと騒動は、昨日の今日の話。その延長で、相羽に助けてもら
うことを当然のように受け入れていた。
少しは遠慮しようという気持ちが働き、若干距離を取った。
ソファにたどり着くなり純子は相羽から離れ、もらったディスクを壁際の戸
棚に立てかけると、彼に座るように促した。
「お茶……紅茶、入れるから待ってて」
どきどきする胸に手を当てつつ、台所に行こうとする。相羽への感謝の気持
ちもあるけれど、彼がそばにいるとどことなく心落ち着かず、でも楽しい気分
になれる。
「いいよ、そんなことしなくても」
座りかけていた相羽が立ち、純子を声で引き止めた。
振り向く純子に、相羽のいたわるような眼差し。
「僕はお見舞いに来たんだ。君は休んでなきゃ」
「だって」
「まだ治っていないんだろ。――どうしても飲みたいなら、僕がやる……やっ
てもいいかな?」
言い直す相羽に、純子は吹き出しそうになってうつむいた。口元を手で覆う
が、肩が震える。
「そ、そうね。あはは。あなたの方が紅茶を入れるのは上手、よね。場所、教
えるから、頼もうかな」
部屋と部屋との境目、柱へもたれかかるように立ち、相羽を台所へ送り出す。
紅茶の缶はそこ、ティーポットはここ、砂糖は……といった具合に必要な物
の在処を教えると、相羽は黙々と動き回った。
「レモンはないから」
「了解」
相羽の手並みのよさは、道具や環境を選ばないらしい。相羽の家で出しても
らう物と変わらぬ液体が生み出された。
「――うん。グッド」
それでも使い慣れぬ道具にさすがに自信を持てなかったのか、色を見るだけ
でなく、しっかり味見をしてからつぶやいた相羽。
先に座っていた純子の前のテーブルに、一式が運ばれる。
「ありがとう。いただきます……」
カップをトレイからテーブルに移す相羽の胸元に目が行った純子。一番上の
ボタンは外してあるので、肌がよく見える。
(小さな切り傷みたいなのが……紫になってる。昨日、あんなところまで怪我
をしたのかしら)
思い返している内に、閃いた。
「相羽君っ」
「はい?」
座る途中の相羽は、中腰のまま、顔を向けた。純子の声のトーンに、少々び
っくりしている感じ。
「首と胸の間ぐらいにあるその傷って、私のせい……よね?」
「ああ、これ」
襟を引っ張り、ボタンを留めて隠す相羽。
「何でもないよ」
「爪で引っかいたからできたんでしょう? おんぶしてもらってるときに……」
「引っかくと言うより、しがみつく」
「どっちでもいいのっ。ごめんなさい、痛かった? ううん、今も痛い? あ
のとききつく言ってくれたら、もっと注意してたのに。腕だってまだ」
純子の立ち上がらんばかりの勢いに対し、相羽は改めて座って、紅茶カップ
を指し示す。
「冷めない内に。もったいないよ」
「でも、でも……。言ってよ。言ってくれなきゃ、そんな傷になっていること
も知らないまま――」
「言わなくても気付いてくれたじゃないか。たった今」
肩をすくめ、紅茶を口に運ぶ相羽。ベーカリーの箱をおもむろに引き寄せた。
「何にする? 胡桃クリームパンの他に、ケーキが色々」
「話が終わってない」
「僕は気にしてない。純子ちゃんの気持ちもよく分かったからさ」
相羽は箱を開けて中を見せた。いちごの赤やメロンの緑、クリームの白……
色とりどりのおいしさの主張。
「困らせるために来たんじゃない。元気になってほしくて来たんだから。さあ」
「……あなたには負ける」
純子はあきらめてため息をついた。でも、不思議と微笑が浮かんでくる。
「たくさん食べて、元気になろっかな」
お見舞いのケーキを味わいながら、純子は問われるまま、症状を伝えた。
「五日もしたら治るわ。治してみせる。レッスンの方は今はお休みだけれど、
少しずつ戻していって」
「レッスンのことまで聞いてないんだけどな。口出しする話じゃないかもしれ
ないけど、万全になってからにしなよ」
「え、ええ……。それで、あなたはどうなのよ。腕とか膝とか、怪我をしたで
しょっ」
純子は相羽の静かな物腰に一瞬気圧され、次には明るい調子で尋ねた。
相羽は肘から手首にかけてを交互にさすった。
「うーん。治りかけって、かゆい」
「ふふ。その調子なら、何の問題もないみたいね」
「当ったり前。この程度で」
「だけど、おばさんはさぞかし心配されたんじゃない?」
自分の母の言葉を思い起こしつつ、質問する純子。
「それは……うん」
よく馴れた子犬みたいに、こくんとうなずいた相羽だった。
「心配させないように、無茶しちゃだめよ。うふふ」
「でも、誉めてもくれたんだぜ。よくやったっていう感じで……」
今度はちょっと反発するかのように。
「うん。私も感謝してます。あは」
短く笑って昨日の出来事を回想すると、ふっと一つの場面が引っかかった。
「……ね、相羽君。変なこと聞くけれど」
カップや小皿を脇に退け、純子は心持ち身を乗り出した。
(恥ずかしいけど、気になるから)
迷いを振り切って、続きを口にする。
「林間学校……お風呂場で、私が入っていったとき……見えたの?」
「――」
質問を待ちかまえていた相羽の顔に、朱が差した。理科の実験でよくある化
学反応みたいに、瞬く間のことだった。
「あーっ、赤くなってる! やっぱり、見えちゃったのね……知らないっ」
(わ、私も、少し、見ちゃったけれど)
純子は最初だけ勢いよく言って、あとは顔を伏せる。とてもじゃないが、相
手を正視できない。
相羽の視線も明後日の方向に。
「み、見てないよ。全部は」
「何よ、それ。ぜ、全部って」
「シャンプーが目に入って、輪郭しか分からなかった」
「ほんとにっ!」
喜んでいいものかどうかはっきりしないけど、とりあえず声を高くする純子。
それでも目はまともに向けられない。
相羽は黙ってうなずいてから、純子が自分を見ていないことに気付いたらし
く、「うん」と付け足した。
(それって……ちょっとは見たのね……えーん。私が悪いんだけれど、でも)
自分の身体を一度、強く抱きしめた純子は、勇気を出して相羽を見た。
「言わないでね」
「え……」
「間違って私がお風呂に入っていったこと。誰にも言わないで。今、郁江と遠
野さんと先生しか知らないの。これ以上広がって噂になったら、私……お嫁に
行けなくなる……」
消え入りそうな声。でも最後まで言うと、再度うつむいた純子。十秒ほどし
ても反応が耳に届いてこないので、面を恐る恐る上げる。
相羽は口元に右の手の甲を当てていた。
「わ、笑わないで」
両手に拳を作る。
「真剣なんだからっ。私だって……女の子よ、一応」
「笑ってなんかない」
手を降ろした相羽は真顔だった。そして小さな声で、「もしもそうなったら
僕が……」と口走る。
――つづく