#4557/5495 長編
★タイトル (AZA ) 98/ 7/31 9:52 (199)
そばにいるだけで 26−2 寺嶋公香
★内容
(急がなくちゃ)
純子は気ばかり焦っていた。
十組、今日の午後最初の授業は音楽。教室移動しなければいけない。
しかし純子は今、社会科準備室から自分のクラスへ戻るところ。
給食当番と日番が重なった上、昼休みの残った時間は、林間学校に関する新
たな資料をステープルで綴じる作業を一人でしていたためだ。
資料を綴じるのは本来、昨日の放課後にやっておくべき仕事だったが、芸能
レッスンのおかげで済ませることができなかった。
(相羽君たら、やっておくって言ってくれたけれど、そうも行かないもんね)
副委員長の彼は、男子の全員の分を昨日の内に作り終えている。その相羽の
手助けを、純子はきっぱり断っていた。
(助かるし嬉しかったけど。自分の仕事は自分でやらなくちゃ)
とは言っても、現在の状況では、ちょっぴり後悔をしていなくもない。
ドアに飛び付き、盛大に音を立てて引き開ける。
(−−やっぱり、誰もいない)
すでに教室は空っぽだった。
机にたどり着くと、音楽の教科書と五線譜のあるノート、それに縦笛を取り
出し、小脇に抱えた。間髪入れず方向転換し、部屋を飛び出す。
が、駆け出す前に忘れちゃいけない。教室に鍵を掛けねば。これは日番の役
目である。
(急げ、急げ)
歩調に合わせた速いテンポで、心の中でかけ声を。
もちろん、廊下は無人ではない。授業開始まで間もないというのに、各教室
を出入りする人はたくさんいた。
そんな合間を縫って、やがて階段手前の曲がるべき角が見える位置に到達。
純子はそれでもスピードをほとんど落とさず、前進あるのみ。階段の前に出て
からさっと方向転換すればいい。
が、気が急いていたせいだろう、周囲への注意−−視覚はともかく聴覚がお
ろそかになっていたことを、純子はあとになって思い知らされる。
角を折れたその刹那−−誰かの姿を見、話し声を聞いたような気がする。
瞬く間もなく、純子はぶつかりそうになった。危ういところで避けるも、持
っていた教科書が飛び、笛が転がる。
相手の方はもっと被害甚大、しりもちをついてしまった。それが誰なのか、
確かめる余裕が純子にはまだない。
「いてて……」
小さく呻いていたのは相羽だった。よくよく見れば、彼の他にも同じクラス
の男子が数人。
そうと知れた途端、今日二度目の衝突に、純子もすまない気持ちでいっぱい
になる。今朝、感じた恥ずかしさも忘れ、立ち上がりかける相羽のそばまで行
くと、しゃがんで手を取った。
「ごめんなさいっ。だ、大丈夫?」
「大丈夫……それより涼原さん、わざとやってない?」
「む。何でそんなことを私が」
引っ張っていた手をぱっと離す。
相羽は多少よろけたが、でも無事に立ち上がった。
「だって、朝と今とで、二回続けてだったから。狙われてるような……」
「だ、誰が好きこのんで、あんたにぶつかったりするもんですか!」
力を込めて否定すると、何だか妙な空気になった。相羽ばかりか、他の男子
達も一様に変な目つき−−どう対処していいのやら迷うような−−になってい
た。
それを察した純子は、口をつぐんで様子を窺う。
(え? 何、どうしたの?)
「そういうつもりで聞いたんじゃないんだけど」
相羽が渋々といった感じで口を開いた。間を取る様子が、いかにも喋りにく
そう。
「じゃあ、どういう……」
「たとえば僕の方が何か嫌われることをしちゃって、その仕返しかと想像して、
聞いてみたわけで」
「そ……ない、そんなことない!」
顔の前で急いで手を振り、この場から逃げ出そうとする純子。
でも、忘れ物を思い出した。散らばった音楽の教科書や笛やらを拾わなくち
ゃならない。手をあたふたと動かす内にも、顔が真っ赤になってくるような気
がして、必要以上に意識的にうつむく。
(早くしようっ)
胸元に抱きしめる形で拾い集め、純子は立ち上がると、その勢いを保ったま
ま一気に走る。後ろで相羽達が何か話しかけてきたようだったが、聞こえない
ふりをした。
人影のない校舎の端っこまで来て一旦止まり、壁に手をつきながら、息を整
える。
(な、何で……『好きこのんで』なんて言葉が出て来たのよ?)
自分の口走った台詞を思い起こし、首を傾げる。
そして片手を口元へ。
(私……好きなのかもしれない、あいつのこと。少なくとも気にしてる)
やっと気付いた−−ような思いは錯覚?
が、今、それどころではない。即座に頭を振った。
(音楽室に急がないと……そう言えばあの男子達、どこへ行く気だったのよ?)
理由が分かったのは音楽室に入ってからだった。
「保健室に行ったんだよー」
富井がかしましく説明してくれたところによると。
給食後ずっと忙しかった純子は知る由もなかったけれども、昼休み、グラウ
ンドでサッカーをやっていた男子達の一人が軽い怪我をして、保健の先生の厄
介になった。その様子を見に行ったのが相羽達男子数名であったとのこと。
「そんなに人数が抜けたから、しばらく自習なのね。でも、保健委員の白沼さ
ん一人が行けばよかったんじゃないの?」
「一緒にサッカーしてた仲だから、心配して行ったんだと思うよ。男子は男子
同士の方がいいし」
「それにしたって」
(あんな大勢で歩いてなきゃ、私とぶつかることもなかったはず)
お喋りの途中で、音楽の先生が控えの間から出て来た。橙色のゆったりとし
た服を着ている先生は、ふくよかな顔の持ち主だ。それに揃えたみたいに貫禄
のある身体を揺すり、手をぱんぱんと叩きながら言う。
「ほらほら、静かにして。今は練習の時間です。言っておきますが、来週、笛
のテストがあるんですからね」
「ええーっ!」
渦巻くブーイングにも、先生は同じく手を打って鎮めた。
仕方なく笛を持ち、課題曲の練習に取りかかるクラスメート。もちろん純子
や富井も右に倣え、だ。
「指がうまく動かないから、縦笛って苦手ーっ」
富井がぼやきながらも吹き口をくわえ、その先端で教科書のページを押さえ
つけている。
「純ちゃんはいいよね、ぱぱぱって指が反応するから」
「でも、指が太くないから、たまにずれちゃって、穴を押さえ切れないときが
あるのよ」
「太いより細い方がいいじゃないのぉ」
自分のまん丸とした指を、富井はじっと見つめた。
純子は苦笑しつつ、笛に唇を当てる。
「−−ん? あれ、何か変な……」
感触がいつもと違う。具体的にどこがどうとは説明できないが、意識に違和
感が芽生える。
(気のせいかな)
そう思って曲を始めたが、すぐにやめてしまう。間違いなくおかしい。
純子は口を離し、手を返すと笛をしげしげと眺めやった。
(……違うわ。傷やつやが私のと違う)
慌てて笛を入れる袋の方を見やる。笛も袋も学校指定であり、全員が同じ物
を使うため、一見しただけでは判別しにくい。
「どしたの、純ちゃん?」
富井の問い掛けには答えず、純子は袋にある名前を確かめた。
「−−わっ、何で?」
左下隅にある囲みには、相羽信一の四文字。
「ど、どうして?」
「だから、それはこっちが聞いてるんだってば」
富井の口調が、やや苛立ちを含んだものになっている。
「い、郁江。相羽君の席はどこ?」
「え? そこだけど」
首を振り、ついでに指差して教えてくれたその机には、教科書も笛も載って
いなかった。
そのことを純子が口にすると、富井はさも当然という風にうなずいた。
「音楽室に来て先生に事情を伝えてから、すぐ、保健室に行ったよ。だから席
に着かずに、教科書なんかは持ったままなのよね。って、それがどうかした?」
黙って、かくんと首をうなだれる純子。
(さっきぶつかったとき、入れ替わったんだわ)
念のため、教科書やノートも調べてみたが、こちらの方は純子の物だった。
(笛だけ入れ替わるなんて、どうしてよう? これって、か、間接キスじゃな
いの! 朝の出来事って、これの前触れだったのかも……)
練習を始めない純子を、富井は不思議に感じたらしい。彼女もまた手を休め、
突っ込んでわけを聞いてくる。
「か、隠せないから言うけれど」
純子は口で言うよりも、笛の袋を指し示した。この方が早くて確実だ。
富井は純子の方へひょこんと首を伸ばし、間もなく気付く。
「あー? 何で、何で? 純ちゃん、相羽君の笛、持ってるー!」
「そ、そんな大声出さないでよ」
運よく、室内は好き勝手な笛の音が不協和音を奏でているから、聞かれた様
子はない。
純子は音楽室に来る直前にあったことを打ち明けた。
「−−分かった? な、何でもないのよ」
「ふうん」
そう言って、しばし黙り込み、上目遣いをする富井。
純子は両手に拳を作り、唇を拭いながらもどきどきしていた。富井が怒るの
ではないかと、緊張する。
だけどそれは杞憂だった。眼差しの高さを元に戻した富井は悔しそうに片目
を瞑る。
「私もぶつかればよかったぁ」
「は、はあ……」
「ね、ね、純ちゃん。その笛、ちょこっと貸してちょうだい、なぁんて言った
りしちゃったりして。きゃー!」
どこかくすぐったくなったかのように、富井は身をよじった。
純子は富井の考えていることが分かって、ため息をつく。
その直後、相羽達が戻って来たため、富井の考えが実行に移されることはな
かった。本気だったかどうかは別にして。
ともかく笛を交換し、そして授業が始まる。
音楽の授業が終わるや、白沼が素早い行動に出た。
相羽を掴まえ、ピアノ演奏を聴きたいと言い出したのだ。
「お願い。また聴いてみたくなったのよ」
「いいよ。ただ、次の時間のクラスが来るだろうし、僕らも戻らないと」
突然のことに、相羽も戸惑いが露だ。
白沼はしかし、強硬な姿勢を崩さずに要望してくる。
「休み時間に収まるようにすればいいじゃない。一曲だけでいいわ」
甘えた響きの声であるが、言っている内容はなかなか強引のようである。
そんなやり取りを後目に、純子はそそくさと去りたかったのだけれど、富井
に引き留められていた。
「私も聴く」
固い決意を表明する富井。純子の着ている服の袖を握って放さないのは、同
席してほしいという意味らしい。
「別に今じゃなくても、頼めば弾いてくれるんじゃないかなあ」
純子が言っても、富井は聞かない。
「これ以上油断していたら、白沼さん、どんどん相羽君に接近するよぉ。そう
は行かないもんねーだ」
独り言のように言って、ピアノのそばへと先回りする。
「相羽くーん。私も聴きたい。弾いて弾いて!」
午前中の白沼との衝突が記憶に鮮明なためか、今日の富井は一人でもかなり
積極的だ。純子にも応援するよう、耳打ちしてくる。
「ほら、純ちゃんも」
「何で私まで……」
と、小声で言ってはみたものの、すでに巻き込まれたからには、ここで黙っ
ているとかえって変かもしれない。白沼も相羽もこちらを見ているし。
「相羽君。私も聴きたいな、あなたの演奏。オサリバンがいい」
間接キスのインパクトを払拭すべく、できる限りの笑顔を見せて、ちょっと
小首を傾げた。
すると、その効果があったのか、相羽は白沼の方を見やり、
「僕が曲目を決めていい?」
と応じた。
白沼は純子達を一瞥し、不服のあまり何か言いたげに口をもごもごさせてい
たが、やがて踏ん切りを着けたように首を縦に振った。
「当然、いいわよ」
−−つづく