#4506/5495 長編
★タイトル (FJM ) 98/ 6/ 1 3: 3 (145)
願い 5 リーベルG
★内容
5
シズカは悲鳴をあげ、よろけた拍子にひっくり返りそうになったが、かろうじ
て後ろに数歩ステップするだけですんだ。妖精は落ち着き払ってシズカの前に出
ると、右手を軽く前に突き出して手を広げた。
「なんだ」男の声が聞こえた。「誰かと思ったら、かわいい女の子と男の子じゃ
ないか」
おだやかな声だった。無益な略奪と破壊を繰り返す暴徒ではなさそうだ。シズ
カは少し安心した。
が、妖精はそうは思わなかったようだ。険しい顔を崩さないまま、手のひらを
上に向けて何かをつぶやく。とたんに手のひらに青白い炎がゆらりと立ち昇った。
男の姿が闇の中に浮かび上がる。
大きな男だった。地上からほぼ二メートルの位置にある頭は、つるつるのスキ
ンヘッドだった。少し太った印象を受けるが、身長にふさわしい規模の筋肉がし
っかりついているからだった。青い作業服のような服を着ていた。
「やあ」男は言った。「おれは、おおだかよしはるって言うんだ。ヨシハルって
呼んでくれ」
「あたしシズカ」シズカは答えた。「こっちは名前の知らない妖精。この子は名
前の知らない赤ん坊」
「よろしくな」
「君は逃げないのかい?」なぜか固い表情のまま妖精が訊いた。
「逃げる?何から逃げるんだ?」
「疫病さ」
「ああ。あれか」男はにやりと笑った。「おれは心配ないんだ。おれは病気なん
かしたことないからな」
「感染してないというの?」
「そのとおりさ」
シズカは鼓動が高まるのを感じた。不意に希望が沸き起こる。妖精を押しのけ
るようにして男に訊いた。
「そ、それって、病気に対して免疫があるってことですか?」
ヨシハルと名乗った男は、哀れみと優越感を等分に浮かべてシズカを見下ろし
た。
「そんなものじゃない。わけを知りたいか?」
「ええ!」
「それは、おれが選ばれた者だからだ」ヨシハルは誇らしげに言った。「だから、
おれは病気なんかしないのだ」
シズカはまじまじとヨシハルの顔をみた。ふざけたり、からかったりしている
様子は全くない。真剣そのものの表情が浮かんでいる。
「信じていないな?」
「いえ、あの……」シズカはかすかに恐怖を感じた。「そうじゃないけど……」
「信じられないのも無理はない。だが、その理由がわかれば君も納得するだろう」
「り、理由って?」
「おれが食べているものだ」男は夢見るような表情を浮かべた。口元から涎がし
たたり墜ちる。「選ばれた者のみが口にできるものだ」
妖精が不快そうに顔をしかめたまま、さりげなくシズカの前に出た。シズカは、
なぜ、こんなに不安を感じるのか理解できないまま、妖精の庇護をありがたく思
った。
「知りたいか?」
あまり知りたいような気分ではなくなってしまった。もはや、ヨシハルの答え
は充分に想像がつく。それでも、シズカは訊かずにはいられなかった。
「なに?」
ヨシハルは、にっと歯を見せると、ズボンのポケットに手をつっこみ、何かを
握ってシズカの目の前に突き出した。
嘔吐をさそう腐ったような臭いが、シズカの鼻をついた。シズカは思わず一歩
後ずさった。
「怖がることはないよ」ヨシハルは優しい口調で言った。「ほら」
血にまみれた眼球が二つ、ヨシハルの手のひらにのっていた。
シズカは悲鳴をあげることもできず、まなじりを裂けんばかりに開いて、それ
を凝視していた。
「うまいんだよ、これが」ヨシハルは太い親指で、眼球をころころ転がしながら、
ささやくように言った。「特にちぎり取ったばかりのやつは。知ってるかい?目
ん玉ってさ、むしり取ってからしばらくは生きてるんだ。この視神経をちょっと
触ってやると、瞳孔が開いたり閉じたりするんだ。おもしろいだろ?」
「あ……あ」シズカは後ずさりした。「いや」
「こいつを食ってれば、病気なんか恐れることはないんだ」ヨシハルはにこやか
に笑いながら進み出た。「今まで、この秘密を知ったやつは、この手で殺してき
たよ。この秘密を知る人間が増えてくると、おれが喰う分が少なくなるからな」
膝が崩れそうになるのを、懸命に支えた。身体が震えている。寒さではない。
恐怖のためだ。抱えている赤ん坊の暖かみだけが、シズカに立っている力を与え
ていた。
「でも、特別に君も仲間に入れてあげよう。これを喰えば、君も病気なんか恐れ
ずにすむ」ヨシハルは眼球をシズカの目の前に差し出した。
シズカは悲鳴をあげ、反射的にヨシハルの手を払った。手のひらから眼球が飛
び、闇の中に消えていく。ヨシハルは子供のような泣き声をあげた。
「あ、あああ!大事な目ん玉が!最後の二個だったのにい!」
ヨシハルは、巨体に似合わぬ敏捷さで、眼球が消えていった方向に足を踏み出
した。だが、すでに眼球が手の届かないところに行ってしまったと悟ったのか、
ゆっくりと振り向く。その顔を見たシズカは、悲鳴をあげていたことなど忘れて
しまうぐらいの恐怖が、身体全体を貫くのを感じた。
ヨシハルの顔には非人間的な笑みが浮かんでいた。妖精の冷たい笑いの方が、
まだしも人間らしかった。
「い、いや……」
シズカは赤ん坊をきつく抱きしめて、後ずさりした。ヨシハルが放射している
のが、激怒や憎悪ならば、これほど恐怖を感じることはなかっただろう。
「なくしてしまったんだね」奇妙に優しい声音が、ヨシハルの口からもれた。「
でも、心配いらないよ。君のをもらうから」
言葉と同時に、ヨシハルの手に大型のコンバットナイフが出現した。刃の先か
ら柄まで乾いた血が幾重にも塗りたくってある。
「さあ」ヨシハルは笑みを浮かべたまま一歩踏み出した。「君の目をもらうよ」
そのとき、ようやく妖精が動いた。うんざりしたような顔をヨシハルに向け、
吐き気をこらえているようにくぐもった声で言う。
「冗談じゃない。シズカはぼくのものなんだ。とっとと消えちまえ」
「何だ、君は。この子のボーイフレンドかい?」
やっぱり、こいつはまともじゃない。シズカは確信した。妖精は、いちおう人
間の姿をとっているものの、ちょっと見れば別の種族であることはすぐにわかる。
だが、ヨシハルの目には、そのような差異など全く映っていないらしい。
「邪魔しないでくれよ、な」
一瞬のきらめきとともにナイフが消えた。シズカは息を呑み、一歩後ろに下が
った。その本能的な動作がシズカの命を救った。
ほとんど数ミリの差で、ナイフの切っ先がシズカの目の真下の空気を切り裂い
た。シズカは、その残像すらみることはできず、それが通り過ぎた後、ようやく
何が起こったのかを知っただけだった。
「おっと。ちょっと外したか」ヨシハルはくすくす笑った。「踏み込みが甘かっ
たかな。でも心配いらないよ。次は外さないから」
「き……」シズカは喘いだ。「きちがい!」
ヨシハルは、状況を無視すれば無邪気そのものに見える笑顔を浮かべ、ナイフ
を持ち直した。
「せっかく何も気づかないうちに、終わらせてあげようと思ったのにね。気の毒
だけど、苦痛と恐怖を味わってもらうことになるね」
「きちがい!」
そのとき、ようやく妖精が口を開いた。
「おい、ちょっと待てよ」妖精をゆっくりとシズカを背中にかばった。「シズカ
はぼくのものになることになってるんだ。悪いけど、他の人間を探してくれない
か?」
「きみは誰だっけ?」
「誰だっていいよ」
「そうだね」ヨシハルはうなずいた。「誰だっていいね」
再びナイフが空気を切り裂いた。切っ先はまっすぐ妖精の顔を狙っていた。
妖精がよけなかったのは、後ろにいるシズカのことを考えてことだった。かわ
りに、妖精の細い手が、ナイフを上回るスピードで跳ね上がり、ヨシハルの手首
を強烈に叩いた。ナイフがヨシハルの手を離れ、闇の中へと消えていく。
「うがあ!」ヨシハルが咆哮した。
「消えなよ」妖精は冷酷な口調で言い渡した。「次は手がなくなるよ」
ヨシハルの瞳に稲妻のような憎悪が走った。だが、それは瞬く間に消え失せ、
あきらめの色が浮かぶ。
「わかったよ」ヨシハルは手を上げた。「おれには時間はたっぷりあるんだから」
「とっととどこかへ行けよ」
「ああ」
ヨシハルは素直に背を向けた。
息を呑んで見守っていたシズカが、ほっと安堵の息を吐こうとしたとき、ヨシ
ハルのかかとがものすごい勢いで跳ね上がり、真横から妖精に襲いかかった。さ
すがの妖精も虚を突かれ、強烈な蹴りを脇腹に叩き込まれてしまった。
「妖精!」シズカは悲鳴をあげた。
ぶざまに地面に横転した妖精を見向きもせず、ヨシハルはシズカに向き直った。
「さあ。君の目をもらうよ」ヨシハルはにこやかに言った。「残念ながら、もう
ナイフは持ってないんだよ。だから、指でほじくり出すしかないねえ。当然、刃
物で切るのに比べて苦痛は何倍にもなるけど仕方がない。すぐに楽にしてあげる
からね」
ヨシハルは右手の人差し指をぴんと伸ばして、シズカの目の前に突きつけた。
言いようのない恐怖に、シズカの身体は凍りついたように固まり、後ろに下が
ることもできなかった。その恐怖を敏感に感じ取ったのか、腕の中の赤ん坊がみ
じろぎしたが、そちらをみるどころではなかった。
ヨシハルの手がシズカの肩を掴もうと伸びた。