#4504/5495 長編
★タイトル (FJM ) 98/ 6/ 1 3: 0 (164)
願い 3 リーベルG
★内容
3
「なんですって!?」
「ここに入ってきたときから聞こえてたよ」妖精はカップを差し出した。「今ご
ろ気づいたの?」
「黙って!」
シズカは怒鳴ると目を閉じて耳をすました。
言われてみると、確かに赤ん坊の泣き声のようだ。とても弱々しく、ひょっと
したら気づかなかったかもしれないほど小さいが、こうして意識を集中すれば確
かに聞こえる。
「この店の奥?」シズカは目を閉じたまま訊いた。
「そうだよ」妖精は興味なさそうに答えた。「ミルクティーが冷めるよ」
「ばか!」
シズカは店の奥に飛び込んだ。
様々な調理器具やオーブンが並ぶ調理室を抜けると、こじんまりした台所に出
た。店主の住まいなのだろう。当然、人気はなく、全ての電化製品の電源は落と
されていた。疫病発生の報が伝えられると同時に、都市に住む人間の大半は地方
へと脱出していった。多くの人が二度と帰ってこられないと思っていたので、冷
蔵庫やテレビのスイッチを切っていくことなど考えもしなかったのだが、ここの
店主は几帳面な性格だったらしい。
「どこなの?」シズカは泣き声を求めて、首をめぐらせた。「どこにいるの?」
「二階だよ」いつのまにか後ろに立っていた妖精が言った。まだティーカップを
手に持っている。「どうするつもり?」
シズカは返事もせずに二階へ通じる階段へと走った。妖精はやれやれ、という
表情でゆっくりとその後を追う。
すでに泣き声はやんでいた。シズカは焦り、あやうく階段を踏み外すところだ
った。
二階の広い部屋に、ベッドが二つ並んでいた。店主夫妻の寝室らしい。きれい
に片づいている。
片方のベッドに、ベビーベッドが置かれている。中に赤ん坊が横たわっていた。
シズカは声にならない叫びを上げて、赤ん坊を抱き上げた。
「しっかりして!」
赤ん坊はまだ生きていた。だが、その生命はほとんど尽きかけていた。医学の
知識が皆無であるシズカにでも、それは明らかだった。
まだ最初の誕生日すら迎えていないらしい。その性別すら定かでない顔は真っ
赤で、大粒の汗が噴き出している。呼吸は浅く速い。きれいなベビー服に包まれ
た身体は、燃えるように熱かった。
「死なないで!お願い!」シズカは赤ん坊を揺さぶった。「いま、水を持ってく
るから!」
シズカはできるかぎり丁寧に赤ん坊をベビーベッドに戻すと、入り口付近にい
た妖精を突き飛ばすように飛び出して、階段を駆け下りた。キッチンに駆け込む
と、コップをつかんで、水道の蛇口をひねった。
水は出なかった。
「ちくしょう!」シズカは叫んで蛇口を叩いた。「出てよ!出なさいよ!」
「無駄だよ」妖精が言った。「給水なんかとっくに止まってるよ」
妖精を罵る時間すら惜しんで冷蔵庫を開く。とたんにむっとするような臭気が
シズカを襲った。残っていた野菜やスライス肉のパックなどが腐敗しているのだ。
「もう!冷蔵庫のコンセントまで抜くことないのに!」シズカはここにはいない
店主に文句を言いながら、下部の収納庫を引き開けた。中身が半分ほど残ったウ
ーロン茶のペットボトルがあった。
「ラッキー!」
シズカはボトルをひっつかむと、階段を駆け上がって二階に戻った。キャップ
を開けると、赤ん坊を抱き上げて、半分開いたその口元に、ペットボトルをあて
がう。
「そんなことしたら、窒息しちゃうよ」相変わらず興味のなさそうに妖精が声を
かけた。「ただでさえ弱ってるんだから」
「じゃあ、どうすればいいのよ!」シズカは振り返った。
「そのキャップに注いで、一滴づつ口に垂らしてやればいいんじゃないかな」
シズカは礼も言わずに、床に落ちていたキャップを拾い上げて、ペットボトル
の中身を注いだ。それから、震える手で赤ん坊の口元に持っていくと、少し垂ら
した。ウーロン茶は砂漠にしみこむように、赤ん坊の乾いた唇に吸い取られた。
だが、赤ん坊は水分を求めていても、すでに呑み込むだけの力が失われているよ
うだった。
「そんなことしても無駄だってば」妖精が冷静にそれを裏づけた。「その子はも
う手遅れだよ。熱は高いし、何日も栄養を取っていない。加えて脱水症状、貧血、
部分的な随意筋の麻痺。肺炎も併発しかけてる。どれかひとつでも、そんな子に
は致命的だよ。さっき、まがりなりにも声が出せたのが奇跡だね」
「例の病気?」諦めずにウーロン茶を赤ん坊に与えながら、シズカは訊いた。
「最初の発熱は終わったみたいだね」妖精はちらりと赤ん坊を眺めた。「たぶん、
この子は、そのとき仮死状態になったんだろう。両親は死んだと思い、ベッドに
寝かせて、それから脱出した。その後、蘇生したんだね」
赤ん坊の口元から、ウーロン茶がこぼれた。シズカは涙を浮かべて赤ん坊を抱
きしめると、妖精を振り返った。
「何とかならないの?」
「何ともならない。たとえ、一時的に体力が回復したとしても、何日かしたら疫
病の最後の症状が出て死ぬんだよ」
「何で、そう冷たいのよ!」
妖精は肩をすくめた。
「言っただろ。妖精は現実的な種族だって」
「この子は死にそうなのよ!」シズカは叫んだ。「どうすればいいの?」
「だから、何ともならないって……」
「例の病気じゃないの!まだ、最後の症状が出るまで何日かあるでしょ?」
「まあね」
「せめてそれまで生き延びさせてやってよ」
妖精は天井を仰いで、雄弁なため息をついた。
「どうして人間って、そう無駄なことばっかりやって、人生を無駄に費やすんだ
ろうねえ。ときどきあきれかえるよ。ましてや、シズカの人生は何日もないとい
うのに」
「そんなことどうだっていいでしょ!この子を助けるにはどうすればいいの?」
「ふむ。そうだねえ……」
妖精はティーカップを持ったまま、シズカが抱いている赤ん坊の顔を観察した。
シズカの努力にもかかわらず、赤ん坊の容態は全く好転した様子はなかった。
「まず、この脱水症状を何とかしないとね。病院で点滴を打つ必要がある。それ
から抗生物質の投与、解熱処置かな」
「それをやってよ」
「ここじゃ無理だね」妖精は冷酷に告げた。「大きな病院に入れないと」
「病院に連れてくわ」
「医者も看護婦もとっくに脱出してるよ」
「おねがい、何とかしてよ!」シズカは涙を流しながら叫んだ。
「無駄だね。もうあきらめ……」
「最初の願いを言うわ!」妖精の言葉を遮ってシズカは告げた。「この子に必要
な治療をしてやって」
「ちょ、ちょっと待って」妖精は理解に苦しむという顔でシズカをまじまじと見
つめた。「本当にそんなことを願い事にするつもりかい?」
「悪いの?」シズカは妖精をにらんだ。「早くしてよ!」
妖精はしばらく探るような視線をシズカに向けていた。シズカは強固な意思を
瞳に宿し、その非人間的な視線を受け止めた。迷いはない。
「わかったよ」妖精はとうとう口を開いた。「じゃあ、その願いを正式に受理し
てもいいんだね?最後の意思表示を頼む。言葉でね」
「最初の願いよ」シズカは躊躇うことなく答えた。「この子を治してやって」
「確認しておくけど、疫病までは治せないよ。疫病の関連症状もね」
「わかってる」
妖精はあきらめたようにため息をついた。
「よろしい。君の第一の願いは受理されたよ。ちょっと待っててくれる?すぐに
戻るから」
妖精の姿はかき消えた。
シズカは赤ん坊をベッドに戻した。シーツは汗でぐっしょり湿っている。
「おねがい……」シズカは目を閉じてつぶやいた。「……早く、早く!」
その言葉に答えるかのように、妖精が姿を現した。両手に点滴セット、タオル、
様々な薬品などを山のように抱えている。
「お待たせ」妖精は微笑んだ。「ちょっとそこをあけて」
「急いで!」
妖精は人間ならばとうてい不可能なスピードで点滴セットを組み立てた。薬品
パックを吊し、注射針のついたチューブをつなぐと、赤ん坊の細い腕に無造作に
針を突き刺す。見ていたシズカは思わず痛そうに顔をそむけたが、赤ん坊はもは
や苦痛の泣き声をあげることもなかった。
「何とか間に合ったね」妖精は言った。「とりあえず脱水症状だけは、これで何
とかなると思うよ」
「思うじゃダメよ」シズカは妖精をにらみつけた。「もし失敗したらただじゃお
かないからね!絶対でしょうね?」
「後二時間遅れてたら、完全にアウトだったけどね」妖精はシズカを振り向きも
しなかった。「ちょっといくつか注射をしなくちゃ。どいてて」
妖精は慣れた手つきで四本の注射器に薬液を満たすと、静脈を確かめもせずに
次々に注射していった。それが済むと、ぐったりした赤ん坊の服を脱がして、全
身の汗をタオルでていねいに拭いた。
「女の子なのね」シズカはつぶやいた。「何か手伝おっか?」
「いいよ、邪魔になるだけだ」妖精は冷たく答えた。
「そういう言い方はないんじゃ……」シズカは文句を言いかけて思い直し、妖精
の治療を受ける赤ん坊を見守った。
およそ三十分後、妖精はようやく手を止めてベビーベッドから一歩後退すると、
満足そうに微笑んでシズカを見た。
「落ち着いた」さっきのような冷たい声ではなかった。「肺炎が思ったより軽く
てよかった。あとは六時間おきに抗生物質を投与すれば大丈夫」
「よかった」シズカは安堵のため息をついて、赤ん坊の額にそっと触れた。「熱
も少し下がったみたい」
「これで第一の願いは成就されたね」
「まあね」シズカはベッドに腰を下ろした。「でも、何か意外だったわ」
「何が」
「魔法でも使うかと思ったのに。たとえば、手を振るだけで病気を治してくれる
とか」
「うん、できないことはないよ」
「じゃ、なんでやらないの?」
「ある程度の限度を越えて干渉することは禁じられているんだ。だから、こんな
手間のかかる人間の方法で対処したんだよ」
「禁じられてるって……誰に?」
「言えない。第一、そんなことはもうどうだっていいだろ」
「まあね」シズカはベッドに身体を倒した。「もう時間もないしね」
「さてと。シズカも何か食べたらどうだい?」
「そういえばお腹空いたわ。ケーキも少ししか食べられなかったし。あ、そうい
えば熱いミルクティーはどうなったの?」
「ああ」妖精は背中に手を回した。「忘れてた」
シズカの目の前に、湯気を立てるティーカップが差し出された。