#4473/5495 長編
★タイトル (RAD ) 98/ 5/16 20:53 (196)
【OBORO】 =第3幕・散花哀詩=(1) 悠歩
★内容
※作中、【日龍】と書き表している部分は、それで一つの「おぼろ」という
漢字を表しています。
これは、にちへんにりゅうと書くその漢字が表記できない為の措置ですの
で、どうぞご了承下さい。
【OBORO】 =第3幕・散花哀詩=
ちゃぽん。
水面に波紋が丸く広がる。
小さな少女の投げ込んだ石が作った波紋。
けれど綺麗な円を描いた波紋も、少女が意図した結果とは違っていたらしい。
「ああん、ぜんぜんだめぇ」
両手の拳を振り下ろして、悔しがる。
そのはずみで、お尻がくっと、後ろに突き出される。小さな子どもには、手だ
け足だけの動きが出来ない。首を傾げるのにも、全身を使う。
「れいなは、へたくそね」
後ろに立っていた少女が言う。
石を投げた少女と、瓜二つの容姿を持つ少女。
二人を初めて見る者であれば、双子と信じて疑わなかっただろう。
「じゃあ、れいかねえさま、やってみてよ」
「いいわよ」
一つ歳下の妹、麗菜に乞われ、麗花は投げるための石を探す。幸いなことに、
川原には無数の石が転がっており、目的に合った形のものもすぐに見つかった。
麗花は黒っぽく、平らたい石を見つけ、拾い上げた。
「ほーら、みてて」
妹の注意を自分に寄せ、麗花は横から腕を振り、川めがけて石を投げ入れる。
平たい石は、水面で跳ねて二つの波紋を作る。そして三つ目の波紋の中に消え
て行く。
「わあ、れいかねえさま、じょうず」
感嘆の声を上げる麗菜。
しかし当の麗花は不満げに、石の沈んだ波紋を見つめている。
「しっぱいだわ。二かいしか、ジャンプしなかったもの」
結果には満足していないのだが、麗花は微笑みを以て麗菜に応える。
「ねえ、どうしたらじょうずに、はねるの? れいなにもおしえてよ」
「かんたんよ。まず、石はひらべったいのをえらぶの。れいなの石は、まるすぎ
るから、ジャンプしないのよ」
「うん、わかった」
にこやかに答えると、麗菜は手を膝に充てて身を屈め、投げるための平たい石
を探す。
「あった。ひらべったい、いし」
麗菜は目的の形状の石を探し出すと、それを手に取り、早速川面に向かって投
げようとする。
「まって、れいな。それじゃだめよ」
麗花が呼びかけると、大きく腕を振りかぶった麗菜は、とんとんとその場で小
さく飛び跳ねてから、その動きを止めた。
「上からなげたら、石はジャンプしないわ。いい? 指をこういうふうに添えて、
横からなげるの」
握りを妹によく見えるよう手を前にかざし、その後麗花は野球のサイドスロー
の形で石を投げる真似をした。
「こう?」
麗菜も同じように石に指を添え、それを麗花にみせる。
「うん、それでいいわ。それで横から投げるの」
「えいっ」
少々入れすぎるくらいの気合いとともに、麗菜の手から川面に向かって石が放
たれた。
小さく、本当に小さく、石は水面に触れて跳ね上がる。そこから一メートル、
いや五十センチにも満たない距離で再度水面にあたり、今度はそのまま沈んで行
った。
距離が短いことと、時間差がほとんどなかったため、二つの波紋はどちらがど
ちらであるのか判別が難しいほどに重なり合い、やがて完全に一つとなる。
「わあ、やった。れいなのいし、ちゃんとジャンプしたよ」
麗花へと振り返った麗菜の顔には、これ以上は望めないほどの笑みが浮かべら
れていた。
「麗花、こんなところにいたのね」
妹ではなく、麗花の名を呼ぶ別の声。麗花は声のしたほうへと、頭を振る。
「かあさま」
そう言ったのは麗花ではない。麗菜だった。
家のすぐ近くだというのに、なぜか綺麗な若草色の服を着た母親が立っている。
逆光になっているためなのか、その顔はよく見えない。なのに薄っすらと化粧を
しているのが麗花には分かった。
「どうしたの、かあさま。れいかに、なにかよう? まだご飯の時間じゃないの
に」
麗花は目を細めて母の顔を見ようとする。けれどまるで、靄(もや)が掛かっ
ているようで、やはり見て取ることが出来ない。
「お父さまがお呼びよ。お家に戻りなさい」
「はあい」
母の言葉に従い、麗花は川原から母の元にと走る。
「ああん、れいなもいくぅ」
一つ歳下の妹が、その後ろに続いて来た。
「かあさま?」
麗花は母の顔を見上げる。
「なあに、麗花」
「なにかヘンだわ………私、かあさまのお顔が、よくみえないの」
「あら、突然おかしなことを言い出すのね、麗花は」
母は笑ったようだ。
しかしその笑顔も、麗花は朧気でよく見えない。ただ、どことなく悲しそうに
も感じられた。
「もう、れいなもいくって、いってるのにぃ」
拗ねたような声に、麗花は振り向く。後ろから、とたとたと駆けてくる麗菜の
顔ははっきりと見えていた。
「とうさまがよんでるて、なんだろう。にいさまがかえってきたのかな」
麗菜がそっと、麗花に耳打ちをした。
本当にそうならいいな、と麗花も思った。
「なるほど、この娘なら問題なさそうだな」
恐い顔をした老人は、まるで睨みつけるような視線で麗花を見ながら言った。
「はい。この子が麗花でございます。で、その隣におりますのが妹の………」
「妹はどうでもいい。才能があるのは、姉の方だけらしい」
なんだか卑屈な父の声を、老人が遮る。
まだ昼間なのに、薄暗い居間。卓の上座で威張っている老人は、麗花も何度か
会ったことがある。朧月の家の当主のおじいさん。この老人の前だと、父も母も
緊張しているのが分かって、麗花は嫌だった。朧月の家は、麗花の家、師岡の本
家というものなのだそうだ。父も母も二人とも、この老人に頭が上がらないらし
い。
そう言えば、川原まで麗花を呼びに来た母の姿が見当たらない。お茶の用意を
しているのだろうか。でも老人の前には、蓋をされたままの湯飲みがもう置いて
ある。
「では、麗花の方だけで?」
「うむ。これが約束の物だ。確認しろ」
そう言って老人が卓の上に出したのは、お金。麗花が見たこともないような、
たくさんのお札がいくつもの束となって置かれていた。
それをぐっと側に寄せ、父が数え始める。
いつもと違う、父の顔。
おかしくなってしまったような、父の顔。
恐くなって、麗菜は目を背けた。開かれた障子の向こうに。
その麗花の視線の先、庭先に建つ離れの影に母がいた。一瞬、麗花と合った視
線を、母は逸らしてしまう。そして悲しげに俯く。
『かあさま?』
どうして悲しそうな顔をしているのだろう。
父に叱られたのだろうか。
それとも朧月のおじいさんに。
その訳を探し出そうとする麗花は、知らず知らずのうちに、離れの影に立つ母
へと小首を傾げていた。しかしはっきりと顔の見えない母は、何も応えはしない。
それどころか、麗花の視線を避けるように、その場から立ち去ってしまった。
「では、よいな?」
どこか横柄な老人の声により、麗花の意識は薄暗い部屋の中へと戻される。
「はい、確かに………ありがとうございます」
老人に向かって、父がぺこぺこと頭を下げている。まるで何かの虫みたいだと、
麗花は思った。
「うむ、では」
立ち上がった老人は、真っ直ぐ麗花の方へと近づいてきた。そして何も言わず
に麗花の腕をつかむと、そのまま引き抜こうかとでもするようにして、強引に立
たせる。
「いや、おじいさん。いたい!」
相手は年寄りではあったが、麗花や麗菜の父親よりも、ずっとがっしりとした
体格をしていた。幼い麗花が抵抗したところで、それは無にも等しかった。
「れいかねえさまに、なにするの」
それまで正座に慣れず、足を落ち着きなく動かしていた妹が、麗花を助けよう
と老人の腕にしがみつく。が、空いていた老人のもう片方の手で、いとも簡単に
突き飛ばされてしまう。
「れいな!」
幸いなことに、麗菜はその隣に座っていた父の腕の中に倒れた。そしてすぐさ
ま立ち上がろうとするが、父に羽交い締めされるような形で阻まれてしまう。
「いや、とうさま、はなして! れいかねえさまを、たすけないと」
「もう麗花は、お前の姉さんじゃないんだよ」
冷たい父の言葉に麗菜の、そして老人の手を振り解こうとしていた麗花の動き
も止まった。
「お前は、私が買ったのだ。たったいま、お前は朧月麗花となった」
ぎらつく二つの目が、麗花を見下ろしていた。
「うそ、いや………たすけて、とうさま」
父に、妹に向けて麗花は手を伸ばす。しかしその手をつかんで、応えてくれる
者はない。伸ばした手と、相手との距離は広がっていく。老人が力任せに、麗花
の身体を引きずって行ったのだ。
「だめぇ、ねえさまが………ねえさまが、つれていかれちゃう。はなして、とう
さま………だれか………かあさま、にいさまあ………」
叫ぶ妹の声が、遠ざかって行く。
誰も麗花を助けに来てくれない。
麗花を売った父も。
父に押さえ付けられた麗菜も。
どこかに隠れてしまった母も。
そして入院中の兄も。
額に冷たいものを感じて、麗花は目を覚ました。
薄暗い中黄色い室内灯の明かりに浮かぶ、見慣れた少女の顔が麗菜を覗き込ん
でいた。
「ごめん、起こしちゃった?」
囁くような声で、長い髪の少女、美鳥が謝った。彼女のトレードマークであり、
活発さを示すポニーテールは解かれている。
「ううん、あなたのせいじゃないわ………」
そこは朧月の家の、自分の部屋。麗花は右手を伸ばし、そっと自分の額に充て
る。冷たい感触は濡れたタオルだった。
「いま、何時なのかしら」
麗花は枕の右側へ頭を振る。本棚の三段目に置かれた時計の、青白い蛍のよう
な灯火が現在の時間を知らせてくれた。すでに午前二時を過ぎている。
「あなたがずっと?」
額のタオルを撫でるようにしながら、麗花は妹に尋ねる。
「ん、でもお姉、だいぶ落ち着いてきたみたいだったから。私もそろそろ寝よう
かと思ってたとこ」
どこか弱々しい微笑みを返す美鳥。その傍らには、氷水を張った洗面器があっ
た。
「ごめんね、美鳥………私のために」
「なに言ってのよ、姉妹なんだもん。お姉が病気の時くらいは、私が面倒をみな
くちゃバチがあたっちゃう」
力のない笑顔。美鳥は極力明るく振る舞おうと努めているようだったが、その
不安は隠しきれていない。
美鳥の隠そうとしている不安、それは他ならぬ麗花の身体のこと。四女の真月
の事件後、発作の間隔は異常に短くなっていた。麗花が人としていられるのも、
恐らくはあと一週間がいいところであろう。人でなくなる前に、全ての決着をつ
けて起きたかったが、もうとても時間が足りない。
「静かな夜ね………」
「………うん」