#4427/5495 長編
★タイトル (AZA ) 98/ 2/10 22:47 (196)
翼をその手に 〜飛空競争〜 12 永山
★内容
感覚を掴むためのシミュレーションで使った手袋は、すでにうっすらと黒ず
んでいた。
「新しいのをよこせ」
アリスを乗せた車の接近を確認すると、ジェームズは汚れた手袋を脱ぎ去っ
た。間髪入れずに差し出された真っ白な手袋をはめ直す。気分が引き締まる。
「いよいよだ」
笑みを浮かべつつ、わずかばかり車の方へと歩み寄ったジェームズ。
だがその歩みもゼンマイの切れた絡繰り人形のように、ぴたりと止まる。
「俺から出迎える必要がどこにある」
吐き捨てると折り畳み式の椅子にふんぞり返り、アリスが来るのを待ちかま
えた。太陽が高くなり、風はいくらか弱くなっていた。
車を降りたアリスは、焦れったいような足取りであったが、真っ直ぐジェー
ムズの元に歩いてくる。
やがて正面に立つと、アリスは貴婦人のそれを思わせる仕種で頭を下げてき
た。スカートの裾をつまみ上げる手がかすかに汚れていたが、フィリオを手伝
っていた名残かもしれない。
そう思うと心に波風が立つのを覚えたジェームズだったが。
「ジェームズ様。お久しぶりでございます」
「よく来た、アリス」
アリスが珍しくも笑顔を覗かせているので、ジェームズは途端に上機嫌に戻
った。その早さたるや、熱湯に浸した温度計の水銀だ。
「今日は俺の見事な飛びっぷりを、とくと見ているがいい。おまえの心も動く
はずだ。いや、そうに違いない」
「私は……子爵様のご無事はお祈りしております」
てにをはが少し気になったが、ジェームズの上機嫌に拍車が掛かった。
「フィリオのことなぞ、忘れさせてくれる」
「あの、子爵様っ。お願いがあります」
「ほう、珍しいな。成功した暁には、何でも聞いてやる」
「いえ、空をお飛びになる前でないとだめなんです」
ジェームズは、アリスの手がきつく握られているのを見つけた。興味を引か
れ、顎先で続きを促す。
それからアリスが語ったのは、普段のジェームズであれば到底信じることの
できない、むしろ鼻で笑って片付ける類の話だった。風呼鳥は神の使いだの、
空を飛ぶことを後押ししてくれるだの……。
しかし、今現在のジェームズは、少し違った。
「ふん、面白い」
一つうなずいて、目を細めた。
アリスに目を止めるきっかけとなったのが、狩猟で風呼鳥を撃ったことであ
ったためかもしれない。
あるいは、今日のアリスがジェームズにいくらか好意的に接しているのも理
由になるだろう。
「待ってやろう」
ジェームズの返事に、アリスは目を輝かせた。
「ありがとうございます!」
「しかし、いつまでも待つわけにはいかんな。ウィップル達−−迎神機を造っ
た者共にも言われている。この気象条件が変わらぬ内に飛ぶのがよいと」
「では、いつまででしょう……?」
「二十分だ。そのフィルという風呼鳥が見つかろうが見つかるまいが、俺は一
時には飛ぶ」
「……分かりました。ありがとうございます」
「アリスよ、そんな堅苦しい言葉を使うな」
ジェームズは腰を上げると、アリスを片腕を取って引き寄せた。
暫時、あらがう様子を見せたアリスだったが、強引さにあきらめたらしい。
「準備は十分前から行う。もう十分の猶予は、おまえと話がしたいからこそ設
けたのだ。さあ、おまえの話を聞かせてくれ。心が楽しくなる話を」
アリスはうつむいていた面を上げた。
計算上、出力は補えたはず。
「だけどな……」
フィリオは腕組みをした。昨夜からほとんど動かしっ放しだった両腕は、し
きりと筋肉の疲労を訴えている。
「今度は全体が重くなるし、重心がずれるだろうし、空気抵抗も変わってくる。
燃料の消費も……何だ、俺のやってることって、ジェームズと変わらないじゃ
ないか」
一瞬、笑いたくなった。
「安全に飛べる当てもない飛空機に、これから乗ろうっていうんだからな。違
うのは、こっちは危険性も認識しているが、ジェームズはどうやら全面的に信
頼しきってるらしいこと」
独りごちると、フィリオはぎりぎりまで努力してみようと、工具の一つに手
を伸ばした。
そのとき、小屋の扉が勢いよく開かれる。
「−−レベッカ、アルフ」
息せききって、子供達二人がいた。転びでもしたのか、アルフの左肘は擦り
むけていた。
「どうした? 大丈夫か?」
まだ喋り出せないレベッカ達に、フィリオは手を止めることなく話しかける。
「−−フィリ、オ。いそが、なきゃ−−」
レベッカが絞り出した言葉は、聞き取りにくかったが意味は充分に通じた。
フィリオはしばらく考え、微笑とともにうなずく。
「だから急いでいるのさ。腕が痛くってたまらない。アリスが手伝ってくれて
たから、助かってたんだけどな」
「一時、なんだっ」
アルフがすぐそばまで寄ってきて、フィリオの服を引っ張り、揺さぶる。
フィリオはまたしばらく考え、察しをつけた。
「一時って、それ、ジェームズ……様が飛び立つ時刻なのか?」
「そう!」
子供達の声が揃う。
フィリオは手の甲で額を拭った。汗と埃と油で、黒くなる。
「あと−−十五分ぐらいじゃないか! 機体を運ぶだけで、その倍ぐらい時間
が掛かるってのに!」
そこまで口走ってから、ふと冷静に立ち戻り、どうすべきかの算段を着ける。
「……いつもの潅漑池前までいく必要はないんだよな。ここから何とか飛び立
って、そのまま湖を臨む原っぱまで……ああ、でもそれだと向こうが万一成功
したとき、喧嘩みたいになるか」
手の平で顔の下半分を覆い、考え込む。
鋭く、真剣な眼差し−−が、その目尻が今、下がった。
不意に、自分のやってることがおかしく思えたのだ。
「いいさ。成功したならいいじゃないか。どうせ喧嘩してるようなものだ。正
面切って勝負してやる」
覚悟を決めると、フィリオは最低限必要な調整を行い始めた。
「レベッカもアルフも、よく伝えてくれた。今は戻ってていいよ。もし何か変
わったことが起きたら、知らせてほしいな」
「うん、分かった!」
息がようやく整った二人は、向きを換えると再び走り出した。
迎神機は、その威容を昼の光と風にさらしていた。
機体の横に立つジェームズは、派手な赤色をしたゴーグル越しに眺め上げた。
それから懐中時計を手の平の中で開く。一瞥をくれると、すぐさま閉じた。
「時間だな」
ジェームズはつぶやくと、改めてウィップルに尋ねた。
「準備はできただろうな?」
「ええ、万全でございます」
鷲鼻の頭に指を引っかけるようにしてこするウィップル。その斜め後ろでは、
車に乗り込んだバリアントが、しきりにうなずいていた。
「あとは我々がお教えしたとおりにやっていただければ、間違いなく飛びます。
飛び上がってからは、我々が車で地上から様子を観察し、必要が生じれば無線
で指示を出しますので、どうかよくお聞きください」
「分かっておるわ。耳が痛くなるほど聞いた。何度も言うな」
そう言いつつ、無線の具合をチェックするジェームズ。さしもの彼でも、こ
とここに到って、緊張を覚え始めていた。
「子爵様」
一旦離れていたアリスが、小走りに駆け寄った。
ジェームズは無理に笑ってみせた。
「ジェームズと呼んでいいぞ。特別に許す」
「そんなおそれ多い……それよりも子爵様。何故、子爵様自身がお乗りになる
のでしょう?」
「あ?」
今さら何を言っているのだと、頭を右に傾ける。
「最初は迎神機を造ったお二人のどちらかが操縦すれば、それでいいのではな
いですか?」
「何かと思えば、そんなことか。俺は一番でないと気が済まない。もしもあや
つらに試験飛行を任せたら、どうなるか。これだけの素晴らしい迎神機だ、以
前、フィリオの奴がなした記録を塗り替えてしまうかもしれん。俺は俺自身の
手で、あいつに勝つのだ」
演説口調で喋る内に、緊張感がほぐれてくるのを自覚した。いつものペース
が復活した。
「そしておまえを迎える」
「……」
アリスは呆れた風に、小刻みに首を横方向に振ると、湖とは反対側に目をや
った。そちらには、ただただ広大な緑と何本かの白い道、そして村の家々が点
在している。
「風呼鳥は間に合わなかったようだが、アリス、おまえがいるだけで充分だ」
「……ご幸運をお祈りしています。イルナスのご加護がありますように」
低い声で告げたアリスは勢いよく身体の向きを転じ、機体から離れて行く。
「まだ神話のことを言うか。やはり女だな。そのような物に頼らずとも、俺は
俺の力で飛んでみせる」
走るアリスの背中を見つめながら、ジェームズは決意を込めて言い切った。
それからジェームズが片手を群衆に向かって一度だけ力強く振ると、なかな
か大きな歓声と拍手が起きた。
祝福を感じてジェームズは勇躍、迎神機に乗り込んだ。操縦席に収まり、改
めてゴーグルを掛け直す。ゴーグルの左側には耳に沿わせる形で無線機が備え
付けられている。
「ウィップル、バリアント。よくやってくれた」
労いの言葉に二人組の研究者は、深々と頭を下げた。
「成功した暁には、特別に報酬をやろう。その前に適切な支援をよこしてくれ。
俺の勘だが、空の高い位置では風が強いような気がする」
「心配無用でございます。先ほども凧を揚げて調べてみましたが、気になさる
ほどではありません」
ジェームズの懸念を、ウィップルは断定的に否定した。そうして二人もまた
黒光りする車に乗り込む。地上から迎神機へ指示を出すための車は、ウィップ
ルらの希望もあって最新型の広く、立派な物が用意されていた。
「では、ジェームズ様。手筈通り、合図をしましたらエンジンを始動してくだ
さい。その次の合図で浮かび上がられてから後、我々が迎神機の下を着いて回
ります」
「分かっている。−−いいぞ」
真っ直ぐ前を向くと、手に力を込めたジェームズ。右手は操縦桿、左手は起
動スイッチにかかっている。汗を感じる。
「無線機はオンになっていますか」
実際に無線機を使って、ウィップルが話しかけてきた。
「あん? ああ、つながっているぞ」
耳元の無線機を横目でにらみ早口で応じたジェームズは、車へと視線を戻す。
飛ばされぬよう深く被った帽子の中で、どことなくかゆみが起きている。
「それでは−−」
先にウィップルはバリアントに目配せをした。間髪入れず、車のエンジンが
掛かる。
「ジェームズ様、お願いします」
五指を開ききった右手を挙げ、合図をよこすウィップル。と同時に車へ向か
って走った。
ジェームズはうなずきもせず、スイッチを捻ってエンジンを始動させた。
途端に起こる低音の唸り。
ど、ど、ど−−。
断絶的に始まったその機械音は徐々に間隔を狭めていき、ついには、ごごご
ごっという連続性を有するに到った。
集まった村人からざわめきが起こる。ざわざわ、ざわざわ……と、地下から
湧き起こるような驚嘆の吐息。
音の変化に合わせ、ジェームズの頭上にある大きな二枚の回転翼は次第に勢
いを増し、今や空気を激しく切っている。
機体の左右に備わる巨大な翼は、まだ静かに休んでいる。浮遊してからあと、
さらなる揚力獲得と方向制御のために用いるのだと説明を受けていた。
助手席に乗り込んだウィップルは、バリアントと同様に強風に頭を左手で押
さえていた。その右手が、親指だけを立てた形に変化する。
離陸の合図を認視し、操縦桿を軽く引いたジェームズ。回転翼の生み出す力
全てが地面に向かう。
迎神機が浮かび上がった。
−−つづく