#4413/5495 長編
★タイトル (RAD ) 98/ 2/10 22: 8 (199)
翼をその手に 〜夢の始まり〜 10 悠歩
★内容
フィリオは強く感動していた。
フィリオが求めて止まないことを、フィルは簡単にやってのけている。
フィルが弧を描いている。二人の頭の上で、大きな円を描いている。比較的風
の安定しているこの丘だが、旋回をしていれば当然受ける向きは変わる。しかも
今日はいつもに比べ、風向は変化が激しい。けれどフィルは安定した姿勢で飛び
続ける。
三回ほど弧を描くと、南の方へ向かった。そちらの方角では風の大きく変わる
ポイントがある。フィリオが飛ばした幾つもの模型を、修理不能にした風が。
しかしフィルの身体は微かに揺れたようにも見えたが、墜落することはない。緩
やかなターンをして、またこちらに戻って来た。
これまで飽きるほど観察をした、鳥の飛行。なのにいま、フィリオの頭の中に
新たなる発見をもたらした。
「あら」
すっと、伸ばされたアリスの腕に、フィルは舞い降りる。
「戻って来ちゃったの? 困った子ね」
「アリス、ごめん」
そう言うと、説明をする時間ももどかしく感じ、フィリオは駆け出していた。
「ちょっと、どうしたのよ。フィリオ!」
「上手くいく、今度は上手くいく! 絶対、飛ばせてみせるよ!」
一筋の光明。
それがアリスを賭けた今度の飛空機に、絶対に持てないと思っていた自信を、
フィリオに取り戻させていた。
部屋の戸がノックされる。
椅子に腰掛け本を読んでいたジェームズは、顔を上げることなく「入れ」とだ
け告げた。
「ジェームズさま、お連れしました」
部屋に現れた執事は、村人らしい男を伴っていた。
「ご苦労。しばらくお前は下がっていろ」
「はい、では失礼いたします」
執事が去ったのち、ジェームズの前には一人男だけが残された。
「あの……私に何かご用で?」
怯えたような目で、男はジェームズの顔を窺っている。どこか卑屈な態度をと
る、男の姿が不愉快で、ジェームズは本から視線を上げることはしない。
「フィリオ=ハートという、男を知っているな?」
「へい、なんでも空を飛ぶ乗り物を造るとかぬかしている、馬鹿な若造ですが」
男は本当にそう思っているのか、ジェームズとの賭けを知っているからなのか、
フィリオのことを侮蔑したように言う。
「そんな物が、本当に造れると思うか?」
「はっ、まさか………そんな夢みたいな話、本気で信じるのはガキどもくらいで
すよ」
歪んだ顔で、男は笑う。それを横目で見てしまったジェームズは、気分が悪く
なった。
「当然だろう。だが、実際に飛んだとしたら、貴様も都合が悪いだろう」
「は? なんのことでしょう」
「貴様、この村の生まれではないだろう」
ジェームズは本を閉じ、机の上に投げた。
「三年前、街のスラムで酔っぱらい同士の喧嘩があったそうだ。激しい喧嘩だっ
たらしくてな、警察が駆け付けた時には、一方の男は半身不随の重傷を負って倒
れていたそうだ。ところが、その喧嘩の相手はもう逃げ出していて、いまだ行方
が分からないと聞く」
「し、子爵さまは、何が仰りたいんで」
男の声は震えていた。額からは見苦しいほどの汗が、流れ出ている。ジェーム
ズが思っていたよりも、小心者のようだ。
「別に俺はそんなクズどもの喧嘩には、何の興味もない。ましてそいつの行方を
詮索するつもりなど、毛の先ほどもない。ただなあ………どこぞの村にでも隠れ
住んでいる、その男も空を飛ぶ乗り物なんぞが出来れば……村と街との距離が縮
まり、安心して眠れんだろうと、ふと思ってな」
「さあ………私には、なんとも」
男の顔は土色となり、声どころが全身をぶるぶると震わせ始めている。或いは
怯えばかりでなく、アルコール中毒のせいかも知れない。
ジェームズは机の引き出しから、小さな布袋を取り出すと、それを放り投げる。
布袋は金属音を立てて、男の前に落ちた。中から数枚の銀貨がこぼれた。
「こ、これは?」
訊きながら、男は銀貨を拾い集めていた。
「さあな………気まぐれだ。それはそうと、俺もあまり空を飛ぶ乗り物など、存
在していいとは思っていない。出来るとも思わんが、神を愚弄するような真似、
許しておくべきでない。違うか?」
「へい、全くその通りで」
男は忙しなく首を振って、頷いた。ジェームズの言葉の意味を理解したらしい。
この手の輩は扱いやすい、とジェームズは思った。
「話は終わりだ、帰れ」
「分かりました。実に有意義なお話、ありがとうございます」
「それと、この話………他の者にはせん方がいいな。場合によっては、俺も行方
不明の男に興味を持つかも知れん」
「へへっ、充分に承知しています」
出来の悪いカラクリのような動きで、男は去っていった。
「ふん、クズが………あんな男を使うまでもないとは思うが、何事にも万全を尽
くして臨むのが俺の主義だからな」
誰もいなくなった部屋で、ジェームズは一人ほくそ笑んだ。
フィリオは暫し、その雄姿に見とれていた。
あれから寝る間を惜しんで製作に当たった飛空機が、ついに完成したのだ。
「出来れば一度、テストをしておきたいところだけど」
だがジェームズとの約束は明後日。実験で大破させでもしたら、もう間に合わ
なくなってしまう。ただ飛ばさないまでも軽く滑走くらいは、しておきたい。も
っとも明後日のために残しておかなければならない燃料を考えると、使える分で
はそれが精一杯だった。
それでもぶつけ本番よりは、マシである。
「だけど………その前に、少しは睡眠をとらないと、な」
大きなあくびが出た。
納屋の外に出ると、午後の陽射しに目眩を覚えた。昨日、アリスと別れてから
ほぼ丸一日、飛空機造りに熱中していたことになる。
滑走実験は今日中に済ませ、明日は微調整に充てたい。飛空機を移動させ、軽
い滑走実験を行い、また納屋へ戻す。その時間を考えれば、夕方になる前には目
覚めていなければならない。
フィリオは陽射しから逃げるように、家の中へ急いだ。
台所を通り過ぎようとしたフィリオの目に、いつも自分の座る席に用意された
食事が目に入る。
「あれ、珍しいな」
飛空機造りをしていて、家事をしなかった日に、祖父がフィリオの分まで食事
を用意することはない。怪訝に思いながらも、それを目にするとにわかに空腹感
を覚えた。
考えてみれば、ここ数日まともに食事をした覚えがない。フィリオは席につき、
用意されていたものを暖める手間も惜しんで、食べ始めた。
じゃがいものスープと、鳥肉と野菜を挟み込んだパン。どれも冷え切っていた
が、美味しかった。単にフィリオの空腹のためだけではない。
「これ、じいちゃんじゃないな」
それは料理も豪快な祖父の味ではない。けれどフィリオには覚えのある味。フ
ィリオの最も好む味付け。
ふと、テーブルの上に置かれた紙切れに気づいた。少し乱暴な、祖父の字が綴
られている。
『アリスが持ってきた。夜食にでも食え』
どうやらこれは、昨夜アリスの持ってきた食事らしい。
空腹を癒すと、今度は睡魔が全身を支配し始める。陽が暮れる前に起きるつも
りでベッドに潜り込んだフィリオだったが、そのままぐっすりと眠り込んでしま
った。
夜の帳が、全てを包み込んでいる。遠くにそびえる山々は、背負った星空を切
り抜くようにして、その存在を知らしめている。
物騒な事件が起きた、という話は全くない村ではあったが、それでも女性の一
人歩きは心細いものだ。外灯はもちろん、自らも明かりは持たない。アリスは月
と星の明かりだけを頼りに、フィリオの家に向け、夜道を歩いていた。
出来ることならアリスもこんなに遅く、夜道を行きたくはない。けれど明るい
うちは、なかなか両親の目を盗んで家を出ることが出来なかった。
フィリオとジェームズの約束は、両親の耳にも届いていた。だが他の村人同様、
フィリオの成功など信じてはいない。
両親は両親で、アリスがジェームズの元へ嫁がなくても済む方法を探していた。
あれから毎日のように村の葡萄酒造りに関わる人々と相談を重ねている。そんな
両親は、遠回しではあるが、アリスがしばらくの間フィリオと会わないように言
ってきたのだ。
フィリオとジェームズの約束を無効にするには、まずアリスを遠ざける必要が
あると考えたらしい。
しかしアリスには両親の取ろうとしている行動の方が、フィリオの飛空機の成
功より可能性が低いように思えた。
両親以外の村人は他の手段を考えるより、アリスをジェームズに嫁がせた方が
いいと考えているからだ。下手な手段を講じて、子爵家の機嫌を損ねれば葡萄酒
どころか、村の産業全てが立ち行かなくなる恐れがある。敢えて危険を冒すより
は、そのほうが余程いい。
両親と村人たちとの話し合いから、いい方法が見つかる可能性はないだろう。
けれどアリスがフィリオに会いたいと思うのは、そちらの方が自分にとってま
だ有利な可能性を持っているからではない。その期待が全くないと言えば、嘘に
るかもしれない。けれどそれ以上に純粋な気持ちで、フィリオの力になりたいと
思っていた。
かと言って、アリスでは飛空機造りに直接協力することは出来ない。だからこ
うして、夜中こっそりと、食事を運ぶことにした。フィリオの作業の妨げになら
ないよう、祖父のランディスに預ける形で。
今夜は昨日より、さらに抜け出すのが遅くなってしまった。夕食の支度のとき、
こっそり隠しておいたミートパイと野菜スープをバスケットに入れ、夜道を急ぐ。
月明かりの中、朧気にフィリオの家が見えてきて、やっとアリスの不安は和ら
ぐ。しかし家に明かりが灯ってはいない。さすがにランディスは寝てしまってい
るようだ。
「どうしよう………フィリオはまだ、起きてるかしら?」
納屋にまわってみよう。もしフィリオも寝てしまっているようなら、家の前に
バスケットだけ置いていこうと思った。
家の裏手にある納屋へまわり、明かりが灯っているのを確認すると、アリスは
嬉しくなった。飛空機造りの邪魔になるのは心が退けるが、夜食を渡すくらいの
時間ぐらいならいいだろう。何より、フィリオの顔が見たかった。
アリスが近寄ろうとすると、納屋の明かりが、ふっと消えた。これから寝よう
というのだろうか。
ほどなくして、納屋の戸が開き人影が現れた。当然アリスは、それをフィリオ
だと信じて疑わなかった。夜道を一人で歩いてきた不安が大きかっただけに、フ
ィリオの姿に嬉しくなってしまう。
「フィリオ!」
名を呼ぶと、影は酷く驚いたような動きで、アリスの方を振り返った。
「ごめんなさい、驚かして。私よ………」
息を弾ませ、影の元へ歩み寄るアリス。やがて月明かりでも、はっきりと影の
顔が分かる距離になる。
「えっ?」
朧気な明かりに照らし出された顔は、フィリオではなかった。
「あ……あれっ」
目を覚ましたフィリオは、暗闇の中しばらく状況が理解できず、ベッドの上で
呆然としていた。
次第に記憶が甦って来る記憶。夕方になる前に起きるつもりだったのが、ぐっ
すりと眠り込んでしまったのだと知る。
「失敗したなあ」
こんな夜中では、滑走実験どころでもない。明るくなるまで待つしかないだろ
う。
とりあえず飛空機の点検をしておこう。昼間は眠くて、それどころではなかっ
た。そう思って、ベッドを抜け出したとき、自分の名前を呼ぶ声が聞こえたよう
な気がした。
アリスの声?
まさかと思いながらもランプを灯し、外に出た。裏にまわり、納屋に向かおう
とすると、今度ははっきりとした悲鳴がした。アリスに違いない。
フィリオが納屋に駆け付けると、そこに立ち尽くす女性の姿があった。ランプ
をかざすと青ざめた顔でアリスが振り返り、ひっ、と小さな悲鳴を上げる。
「どうしたんだ、アリス? こんな時間に」
「あ、フィリオ………小屋の中から、人が……」
震える指が、納屋を指し示す。
「なんだって!」