#4397/5495 長編
★タイトル (RAD ) 98/ 1/30 22:52 (200)
『自転車で行こう』2 悠歩
★内容
俺はことさら「身体くらいは」を強調してやる。調理場に戻ろうとしていたオ
ヤジが珍しく、ふんと鼻を鳴らす。
精一杯の笑顔も作った。ガキはせっかくのその笑顔を見はしなかったが、箸を
手に取ると、ちゅるちゅると遠慮がちに麺を二本啜る。
「おいおい、男がそんなちまちまとラーメンを食うもんじゃない。もっとこうす
るんだ」
俺はつかめるだけの麺を箸でつかみ、口に運ぶと一気に啜った。ずずっという
音と共に、跳ねた汁が顔に掛かった。
本当はいつもこんなふうに食べている訳ではない。ガキの笑いを取って、少し
でもリラックスをさせてやろうと考えての事だった。しかし前者の狙いは、見事
に外したらしい。ガキはくすりともしない。それでも後者の狙いは、当たったの
かも知れない。相変わらず無愛想なままではあったが、ガキは俺の真似をするか
のように、がしりと麺をつかんで啜りだした。
よほど腹を空かせていたのだろう。それから後は、大層な勢いでラーメンを食
べることに熱中している。俺だって、ここまで慌てて食う事はない、って具合に。
学生自体の悪友たちのほとんどが、今では父親となってしまっている。三月ほ
ど前、久しぶりに会ったヤツもあの頃の悪童ぶりはどこかへと消え失せ、すっか
り穏やかなパパになっていた。一緒に入った居酒屋にガキを連れてきて、あれこ
れと食わせては、その顔を嬉しそうに眺めていたっけ。
その時の俺は、ガキが飯を食う姿を見て何が面白いのだと思ったものだ。だが
こうやって、たかがラーメンを懸命に啜っているガキの顔を見ていると、ヤツの
気持ちも何となく分からなくもない。
ふと、箸を持つガキの手が止まった。それから、俺の視界の中に薄汚くてでか
い物が飛び込んで来たかと思いきや………どん、と音を立てて、何かがテーブル
の上に出現する。
「うおっ!」
本気で驚いた。手が盆踊りをするような格好になったのは、決してジョークで
はない。
いつの間に調理場から出てきたのか、店のオヤジがテーブルの横に立っていた
のだ。ったく、声の一つも掛けてくれればいいものを、おかげで恥ずかしい姿を
さらしてしまった。
それにしたってガキといい、オヤジといい、いつからこの世の中無愛想な連中
ばかりになってしまったのか。と文句を垂れてやろうと思った俺だが、デーブル
に載っていた物を見て台詞が変わった。
「なんだい、こりゃあ? こんな物、頼んでないぜ」
テーブルに載っていたのは、一枚の皿。皿の上には、ほかほかと湯気を昇らせ
る焼きたての餃子。
俺の質問に対して、オヤジはくいっと顎を動かして、ガキの方を指した。そし
て、
「俺の奢りだ。嬢ちゃんへ、な」
と、珍しく口を開いた。俺も長いこと店に通ってきたが、オヤジの声を聞いた
のは、これで二回目か三回目だ。
オヤジが喋ったのも驚きだが、それ以上に驚く事があった。
「えっ。嬢ちゃんって………ええっ? こいつ、男の子だろ!?」
俺の目は、オヤジとガキとを忙しく行き来する。とぼけたオヤジの勘違いか何
かだろう。ガキのスタジアム・ジャンパーは赤いが、男が着ておかしな色ではな
い。野球帽……いや、女が被っていて悪くはないが。髪の毛だって短い。胸だっ
てない………それはまあ、ガキだからか。
「ふん、野暮ちんが」
そんな捨て台詞を残すと、オヤジは人を驚かせておいて何のフォローもなく調
理場へと戻ってしまった。
「おい、坊主………いや、お前、女の子なのか?」
ガキは答えない。
口から垂らしたままだったラーメンが、噛みきられてドンブリに落ちる。
答えてくれないのなら仕方ない。俺は右手を伸ばすと、こちらの意図を察せら
れるより先に、素早くガキの帽子を取り上げた。
「あっ」
ガキが小さな声を発した時には、もう野球帽は俺の手の中にあった。
戸惑いに満ちた、大きな瞳が俺を見つめる。なるほど、この瞳は女の子のもの
のようにも思えるが。
帽子を取ってみたら、中に隠していた長い髪がこぼれ落ち、広がっていく。と、
でもなれば、すぐに納得出来るのだがそうではない。帽子を取ってみても、髪は
ショートのままだった。ジャギーって言うヤツか。不揃いな毛先のヘアスタイル
だ。いや、どうもプロの仕業と思えない。長い髪を素人が無造作に切り落とした
ように見える。それからもう一つ、額のやや右側にある青い痣が気に懸かる。不
自然なヘアスタイルといい、誰かの悪意が感じられるのは俺の考えすぎだろうか。
野球帽を目深に被っていたのは、これを隠すためだったのだろう。
やはりオヤジの言うように、女の子なのだろうか。一番手っ取り早い方法は、
股間に手をあてれば済む事だが、ガキとはいえ、本当に女の子だった場合洒落に
ならない。
「君は、女の子なのか? しのぶちゃん」
俺は奥の手を出すことにする。案の定、それは俺の思惑通りの効果を、ガキに
もたらす。
「ど………どうして、私の名前を?」
これでほぼ確定した。このくらいの年齢で、自分を「私」と言う男の子など、
滅多にいるものではない。
「俺は魔法使いなのさ」
自分で言いながら、背中が痒くなる。今時、幼稚園児でも騙せないような嘘に、
言った自分自身が恥ずかしい。この子の反応次第で、俺は再起不能なまでに落ち
込んでしまうかも知れない。ベストな反応としては、目をまん丸くして「すごい、
ほんとうなの?」と言ってくれるのが理想なのだが。ふん、と鼻を鳴らすのだけ
は勘弁して欲しい。
たが、少女の反応はそのどちらでも無かった。大粒の涙をぽろぽろと流して泣
く、と俺の予想外の反応を示してしまった。
空になった二つのドンブリと、一枚の皿。
餃子は俺としのぶと半分ずつ、腹の中に収めた。ただし俺が望んで餃子を食べ
た訳ではない。俺に対する気兼ねも有ったのだろうが、しのぶが是非にと言うの
で食べたのだ。
しのぶにだけに奢ったつもりらしいオヤジの、調理場の向こうからの、不満げ
な視線を気にしながら。
当初の目論見どおり、腹がふくれた事でしのぶの気持ちも落ち着いたようだ。
俺のことを「魔法使いのおじさん」と呼んだところから、先刻のちゃちな手品も
効果があったか。「お兄さん」ではなく「おじさん」と呼ばれた事は大いに不満
であるが、今は言わないでおく。
ちなみに手品のタネは、説明するのもばかばかしい程簡単なものだ。最初にし
のぶと会って、俺を無視して行こうとした彼女の自転車の荷台をつかんだとき、
後ろに書かれていた住所と名前を見ただけの事。だからしのぶが、どうしても話
をしてくれなければ電話帳でその住所の番号を調べるつもりだった。
もっとも少女の見てくれと「忍」と漢字で書かれていた名前から、すっかり男
の子と思い込んでいたのだから。しのぶもちょっと考えれば、俺が「坊主」と呼
んでいたことからその魔法が如何に怪しいか、分かりそうなものだ。
そこは子どもの浅知恵。心細さも手伝っての事だろうが、しのぶは、ぽつぽつ
と止まり切らない鼻を啜りながら、「魔法使いのおじさん」に事情を説明してく
れた。
少女の名前はしのぶ。九歳になったばかりだそうだ。自転車の後ろに書かれた
住所、ここからはずいぶんと離れた町から夜の八時頃に家を出てきたそうだ。二
時間も走らないうちに自転車はパンクしてしまい、そこからは俺と出会うまで、
ずっと歩いていたと、言うことだ。
「それで、家を出てきた理由は? どこに行くつもりだったんだ?」
この質問には、ここまでどうにか話をしてくれたしのぶの口も、また重くなっ
てしまった。俺は質問を変えてみる。
「おでこの痣は、どうした? 転んだのか?」
やはりしのぶは黙して語らない。
ふと店内の時計に目を遣ると、もう午前二時を過ぎている。まともな、多少は
まともで無くても大抵の親であれば、小学生の娘がこの時間に家に居なくて、慌
てない筈がない。ひょっとしたらもう、警察に連絡していても不思議ではない。
ここはひとまず、家に連絡をしておくのが無難だろう。下手をすれば、後から俺
が警察からのお叱りを受ける事にもなりかねない。
突然立ち上がってカウンターの上の電話機に向かう俺を、しのぶの不安そうな
視線が追ってくる。そしてぱらぱらと電話帳をめくる背中に、しのぶの方から声
が掛けられた。
「どこに………電話するんですか?」
「君んちだ。いくらなんでも、ご両親が心配してるだろうから」
ぎぃっ。
俺の言葉の終わるより早く、何か嫌な音が店内に響いた。それが安い造りの床
を、椅子の足が擦っていった音だと気づいた時には、俺の腰の辺りにしのぶが抱
きついていた。
「おねがいします、お父さんのところには電話しないで! 魔法使いのおじさん」
たかが九歳の女の子の力と、侮ってはいけない。驚くほど強い力でしのぶは抱
きついてきた。しかしそれは電話を掛けようとする、俺の動きに邪魔となるもの
でも無かった。それこそ熊のような怪力で、俺の胴を真っ二つにでもしない限り。
ただ、しのぶの家には帰りたくないと言う必死の想いだけは伝わる。その想い
に完全に応えてやるのは問題だが、少しくらいの猶予は与えてやる事にする。
「じゃあ、ちゃんと話してくれるか? 家出の理由を」
背中越しで見づらかったが、しのぶが力無く頷いたのが分かった。
俺たちは、改めてテーブルに戻る。
そしてしのぶの口から語られたのは、大方予想はしていたが聞いていて愉快で
はない彼女の家庭の事情ってヤツだった。
しのぶの両親は、一年ほど前に離婚。なぜ離婚する事になったのか、しのぶは
知らないと言う。とにかく母親は「しばらくしたら、きっと迎えに来る」と言い
残し、しのぶをおいて家を出て行ったそうだ。とにかく、しのぶは父親と二人で
暮らす事になった。
それから何日かして、突然見知らぬ若い女がやって来て、しのぶの家に住み着
いた。これが離婚の原因だろう。よくある話だ。
女は露骨なまでにしのぶを疎んじた。何かに着けて、理由を見つけてはしのぶ
に折檻していたらしい。多少は親としての良心が有ったのだろう。初めのうちは
しのぶを庇っていた父親だが、最近では女と一緒にしのぶへの折檻に加わるよう
になった。自分の娘より、若い女の身体を選んだと言う事か。
きっと迎えに来ると言った母親の言葉を信じ、しのぶは堪えてきた。その間、
しのぶの様子を気にして何回か掛かってきた母親からの電話には、元気にしてる
からと応えて。彼女なりに、一人で頑張っている母親の事を気遣っていたのだ。
しかしそんなしのぶの我慢も、今日………正確には昨日だが、ついに限界に達
した。
夜、しのぶが自分の部屋で宿題をしていたところに、憤怒した女が入って来た。
風呂の中に、長い髪がたくさん浮かんでいるではないかと、しのぶを怒鳴った。
ばかばかしい理由であると、俺は思う。風呂に髪の毛が浮いていて、なんの不
思議があるのかと。もし俺がその場に居合わせていたら、女の事を笑っただろう。
しかしその時、怒りの矛先を向けられた九歳の少女には、そんな事は出来ない。
それは自分の髪では無いと、説明をした。実際、自分の髪が残っていると女が
怒ることを知っていたしのぶは、家の風呂はほとんど使っていなかったそうだ。
父親が僅かにくれる小遣いをやりくりして、銭湯に通っていたらしい。
だが女は、そんなしのぶの説明を聞く耳など持っていなかった。それどころか、
しのぶが口答えをしたと、更に怒りを募らせた。そしてハサミを持ち出して、し
のぶの髪を切ろうとした。もちろん、これにはしのぶも抵抗を試みたようだ。け
れど九歳の子どもが、猛り狂った大人の女に適う道理はない。結局、大事にして
いた長い髪は無惨にも切られ、挙げ句騒ぎを聞きつけて現れた父親は、何を逆ら
っているのかと、数度に渉ってしのぶを打ち据えた。
もうこんな所には居たくない。母親に会いたい。
遂にしのぶは、父親と女の目を盗んで、自転車で家を飛び出してきたと言う。
人の話は、全面的に信用してはいけない。特に誰かに対して悪意の含まれた話
は。とかく人は、自分が如何に酷い仕打ちを受けたかを事実の何倍にも誇張し、
己の非は隠してしまうもの。これは俺の三十余年の人生経験で得た教訓。
これに当てはめれば、目の前で泣いている少女の話も100パーセントとして
聞く訳にはいかない。もう一方の当事者である父親や女にも、言い分はあるはず
だ。
ただ受けた仕打ちが悔しくてか、母親が恋しくてか、話し終えて泣きじゃくる
少女の髪が無造作な形で切られている事、その額に痣が残されているのは紛れも
ない事実。いくらか誇張された部分があるとしても、しのぶが虐待を受けていた
のは嘘でないと思っていいだろう。
何より、目の前で泣かれてしまっている、と言うのは効果がある。涙は女の武
器とは、よく言ったものだ。それは子どもであっても、あてはまるらしい。万が
一、その話の中に嘘が有ったとしても騙されてやってもいい、と思わされてしま
う。
「お母さんの住所は、分かっているのか?」
本人も父親の元には戻りたくないと望んでいるし、虐待の事を思えばとりあえ
ず今日のところは母親の所に送ってやるのがいいだろう。その後の事は当事者同
士で話し合うしかない。
ところがしのぶは、首を横に振った。母親の住所は分からないと言うのだ。
「だけど、何回か電話をしたんだろ?」
「いつも………お母さんから電話をくれるの………だから私、ばんごうもしらな
い」
「おいおい。じゃあ、どこに行けばいいのかも分からず、家を出てきたのか。無
茶にも程がある」
俺の言い方がまずかったのか。しのぶはテーブルに突っ伏して泣き出す。繰り
返して言うが、俺はガキに泣かれるのは苦手だし、女の涙にも弱いのだ。
魔法使いのお兄さん、としては何とかしてやりたいところだが。これにはちゃ
ちな手品を見せるにもタネが無ければ、どうしようもない。