AWC 『自転車で行こう』3            悠歩


        
#4398/5495 長編
★タイトル (RAD     )  98/ 1/30  22:52  (200)
『自転車で行こう』3            悠歩
★内容
 まさか俺がこのままこの子を預かる訳にもいかないし、父親のところに返すし
かないか。しかし話を聞いた以上、いくらなんでも薄情過ぎる。でなければ、事
情を説明して警察に委せるか。
「………せんの、………え、き」
 腕の中に顔を埋めたままだったので、その声はくぐもってはっきりとは聞こえ
なかった。
「何?」
 聞き返すと、しのぶはくしゃくしゃになった顔を上げ、再度同じ言葉を口にし
た。
 神崎線の嵩原田駅と。
 電話で一度だけ聞いた、母親の居所の手がかりだそうだ。しのぶは、それだけ
を頼りに母親の元を目指していたのだ。
 その駅に近い町の、先刻聞いていた母親の名字……離婚後、旧姓に戻したらし
い……を探し出せばなんとかなる。
「オヤジ、電話帳を………」
 貸してくれ。
 最後まで言う必要は無かった。
「三つだ」
 オヤジが広げた電話帳を、カウンターの上に置く。
 俺は席を立って、その電話帳を取る。なるほど嵩原田駅周辺の住所が掲載され
たページが開かれており、その三カ所にボールペンでラインが引かれていた。こ
のオヤジ、無愛想なくせに妙に気が利くところもある。俺同様、女には弱いクチ
か?
「この電話帳、いつのだ?」
「最新版だ」
 しのぶの母親が離婚したのが一年前、すぐに電話を入れていて電話帳に載って
いるかぎりぎりだ。時期的には間に合っていても、本人が掲載を拒否している事
だって有り得る。
「ほら、この三つの中に、君のお母さん名前はあるか?」
 うだうだ考えるより、しのぶに見せた方が早い。
 電話帳を見つめる涙に濡れた瞳に、ふと光が射したような気がした。
「これ、これが、お母さんのなまえ!」
 作り物のような細い指が、一点を指し示す。
「よし、じゃあ行くぞ」
「行くって?」
「他にどこがある? お母さんのところだ」
 しのぶの顔に喜びの笑みが浮かぶ。なるほど、やっぱりガキは泣いているより、
笑っている顔の方が気持ちいい。
「オヤジ、悪いが今日はツケといてくれ」
 俺のポリシーには反するが仕方ない。今は財布から金を出す間も惜しかった。
「ふん、奢ってやらあ。今日だけな」
 オヤジの言葉に、俺は拳の親指を立てて応えた。そして店の外に急ぐが………
しのぶが着いて来ない。
「おい、何してる………」
 と振り返って見ると、しのぶは座っていた椅子から少し離れた場所で、顔を歪
ませて蹲っていた。踵の辺りを気にしているようだった。
 俺はしのぶの元に戻り、素早く靴下を脱がせる。
「うわっ、ひでぇなこれは」
 俺の顔まで歪んでしまう。酷い靴ずれだ。踵がぐちゅぐちゅになっている。お
まけに足は、ぱんぱんに張っていた。
 その踵にはオヤジが持ってきてくれた、大判の絆創膏を貼ったが、これでは当
分まともに歩くことは出来そうにない。もう思案するのももどかしい。俺はしの
ぶの小さな身体を抱き上げた。
「えっ………」
「歩けないんなら、仕方ない。こうするしかないだろう」
「でも………私、自転車があるから………」
「パンクしている自転車なんて、邪魔になる。何、しばらくの間、このオヤジが
大切に保管してくれるさ」
 オヤジは、ふんと鼻を鳴らしただけだったが、それは了解したとの印だと勝手
に決め込む。少し恥ずかしそうにしているしのぶを抱いたまま、俺は夜の町へと
駆け出した。

 しのぶを抱え駆け出したのはいいが、母親のいる町まではオリンピックに出場
するようなマラソン選手だって、一時間やそこらで行ける距離ではない。当然電
車など走っている時間ではない。俺は車なんて持ってはいないし、ラーメン代が
浮いたとはいえ、タクシーに乗れる金もない。と、なれば他に手段はない。
「ちょい、ここで待ってろ」
 しのぶを下ろしたのは、俺のアパートの真ん前だった。それから俺は、アパー
トの前に長らく放置したままの愛車を引っ張りだす。鍵は掛かっていない。誰も
盗もうとは思わないだろう、小汚い自転車だ。
「自転車にはもう、乗り飽きただろうがな。今度は運転手付きだ。我慢してくれ
よ」
「いいんですか?」
「いいもクソもない、早いとこ、後ろに乗りな」
「うん!」

 そろそろ午前六時になろうとしているのだから、もう四時間近く走っている事
になる。さすがにこれだけ走ると、日頃の運動不足が痛感される。初めはほとん
ど無いにも等しかった、後ろの少女の重量も、ひと漕ぎ毎に増えていくような気
がする。足が鉛のようで、一度停まると再度動き出すのに、えらく苦労する。
 身体中からこれ程の汗を流すのは、いつ以来の事だろう。本当なら身も凍るほ
ど冷たいはずの明け方の大気も、全く感じられない。背中にしがみついている、
しのぶの体温のせいもあるのかも知れない。
「魔法使いのおじさん、私もう、足、へいきだよ。自転車こぐの、かわる」
 何回目かの、しのぶの申し出。九歳の子どもでは一人でだって、足を着く事の
出来ないこの自転車に乗れる訳はない。まして、俺を後ろに乗せて走れるものか。
第一ずっと後ろに居たとは言っても、小学生の子どもが一睡もせずに、一晩を冷
たい冬の風にさらされて過ごしたのだ。体力も相当消耗しているだろう。もっと
もしのぶは、本気で交代しようと言っているらしいが。
「馬鹿ったれ………ガキが………気ぃ、遣うな」
 強がってはみるものの、息も切れ切れの情けない状態だった。そんな俺をまだ
「魔法使い」と呼ぶしのぶは、余程めでたいのか、純真なのか。
「ほら………もう、ここら、辺り………のはずだ」
 電柱に付けられている、番地を記したプレートを見ながら俺は言った。自転車
で四時間、ようやく目的の町に達していたのだ。
「お母さん、この近くにいるの?」
「ああ」
 そうは答えたものの、ここまで来て急に不安になってくる。あの電話帳に有っ
た名前が、はたして本当にしのぶの母親のものなのだろうか。そうであったとし
ても、いまその住所に居る保証もない。どこかに出掛けている可能性も有る。そ
れならまだしも、電話帳が発行された後に引っ越している可能性とて皆無ではな
い。
 迂闊だった。
 まだ結果が出てもいないのに、早くも後悔の念に捕らわれる。
 考えてみれば、ラーメン屋での時点で電話してみれば良かったのだ。深夜とい
う事で、遠慮してしまった。気が急いて、そこまで頭が回らなかった。ラーメン
屋を出てからも、電話のチャンスは有ったが、いまのいままでそうしようとも思
わなかった。もっとも住所はしっかりと頭に叩き込んでいたが、電話番号は憶え
ようともしていなかったのだが。
「えっと、ここが2の11で………で、ここが2の23? おい、なんで11の
次が23なんだ」
 ここまで来たら、目的の住所を探すのが一番早い。が、意外と目前まで来て、
手間取っている。
 後ろのしのぶは、静かになってしまった。だが少女の鼓動が早くなっているの
を、俺は背中越しに感じていた。
 ふいに、目の前の角から女性が現れた。ラフの格好に、ちょいとコートを羽織
っている。いかにも近所の人間が、用足しに外に出てきたといった具合だ。
「お、かあさん………」
 しのぶの言葉に、俺は自転車を止めた。
「しのぶ………しのぶなのね?」
 こちらを向いた女性の唇が震えていた。
「お母さん………お母あさん!!」
 自転車が軽くなった、と思った次の瞬間。俺の横を赤い影が抜いていく。
 抱き合う母と子。
 感動のご対面ってヤツだ。
「おか………さん、あの…あのね」
「うん、いいのよ。ごめんなさい、ごめんなさいね」
 後から知った事だが、あのオヤジが気を利かせて、俺たちが出て行ってから、
しのぶの母親に電話をしていたそうだ。
 まだ父親との話し合いも残されているだろうが、まあ、何はともあれ。ひとま
ずはハッピーエンドってところだろうか? 
 何だか家族ってヤツが羨ましいと思えた。
 ここから先は、野暮ちんの出る幕はない。俺は自転車の向きを変え、ゆっくり
と漕ぎだした。
「おじさん! 魔法使いのおじさん」
 お兄さんと呼べって。
 後ろから聞こえたしのぶの声に、俺は振り返らず、軽く右手を挙げて応えた。
 ここからまた、四時間掛けてアパートに戻る事を考えると、少々気が重たかっ
たが。


 どうにも今夜は寝付けない。まだ真新しい天井を見つめていた俺は、眠ること
を諦めて身体を起こした。
 あれから一年が過ぎて、俺は隣町のマンションに住み替えていた。以前のアパ
ートでは、少しばかり手狭になってしまったからだ。
 俺は静かに着替えを始める。夜の町を散歩するために。
「どうしたの、あなた?」
 女の声。俺の隣で寝ていた、前のアパートが手狭になった原因の一つが起きて
しまったらしい。そう、俺の女房だ。
「すまん、起こしちまったか」
「また散歩に行くつもりなのね」
「ああ。どうにもこの習慣だけは、治せなくてな。悪い」
「ふふ、謝る事なんてないのに。悪い遊びに走っている訳じゃないんだから……
…でも、外は寒いから、暖かくして風邪をひかないようにしてね。それから、出
来るだけ早く帰ってきてね」
「分かってる。じゃあ、行って来るよ」
 外に出てみると今夜は風がなく、暖かいようにも感じられた。だが吐く息の白
さに、いまがまだ冬であることを知らされる。
「さて」
 煙草に火を着けながら、今夜はどこまで歩こうか考えた。近くに川があればい
いのだが………残念ながら、このマンションの近くには無い。俺は夜、川を見る
のが好きだったのだが。
「またこんやも、夜のおさんぽですか? 魔法使いのおじさん」
 夜の静かさにそぐわない、明るい声が響いた。俺は顔をしかめながら振り返る。
「もう魔法使いは、勘弁してくれ………しのぶ」
 そこにはようやく肩まで髪を伸ばした十歳の少女、しのぶがいた。
「だって、自分で言ったくせに。『おれは魔法使いなんだ』って」
 くすくすとしのぶが笑う。
 あの日から三日ほど経ってからだろうか。突然俺のアパートにしのぶと、その
母親が訪ねて来た。住所も名前も教えていないのに! と驚く俺に、しのぶは笑
いながら言ったのだ。
「私も魔法が使えるの」と。
 何て事もない。俺と同じ手品だった。しのぶを乗せた俺の自転車の後ろにも、
やはり住所と名前が書いてあったのた。
「頼むからもう、その話はしないでくれ」
 一年前のちゃちな手品を思い出し、恥ずかしくなった俺は苦笑いしながら、手
を合わせてしのぶへと拝み込む。
「うーん、忘れてもいいけど。私、おなかがすいてるんだ」
 やれやれ、何か食わせろと言う事か。こんな夜中に。太っても知らないぞ。
「ちっ、仕方ない。で、何がいいんだ?」
「あのね、ラーメンが食べたいの」
「ラーメン? インスタントでいいのか」
「ううん、あのラーメンがいい。一年前、あのおじさんのお店で食べたラーメン」
「えっ、あの店は隣町だぞ。ちょっと遠い………」
「自転車で行こう!」
 俺は少し考えた。しのぶを母親のところまで連れて行った後、しばらく筋肉痛
で動けなかったのを思い出したのだ。だが、まあ隣町までなら四時間も掛からな
い。
「ん、まあいいだろう」
「やったあ!」
 嬉しそうにしのぶは、ぴょんと飛び跳ねる。
 相変わらず俺は女に弱いと思いながら、それはそれでいいかとも思う。
 俺としのぶは、それぞれの自転車に跨った。
「じゃあ行くぞ、しのぶ」
 言い終えるより早く、俺はダッシュで自転車を漕ぎだした。
「ああん、早ずきるぅ〜。待ってよ、お父さん」
 俺と、しのぶ……俺の娘はあのラーメン屋目指し、夜の町を走り抜けて行った。

                               【完】
                          1998.1.30




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