#4396/5495 長編
★タイトル (RAD ) 98/ 1/30 22:51 (200)
『自転車で行こう』1 悠歩
★内容
『自転車で行こう』
幸い今日は風もなく、気持ち暖かいようにさえ感じる。しかしつっかけの上の
素足は、いま季節が何であるのかをはっきりと俺に伝えていた。
その凍えた足の指先と、吐く息の白さに冬を感じながら、俺は夜の町を歩いて
いた。
腕に巻いた時計の、安っぽいデジタル数字は、もうすぐ午前一時になると教え
てくれた。
俺がこうして夜の町を歩いているのに、特に理由はない。強いて挙げるとする
なら、好きだから、としか言いようがない。
学生の頃から、人が寝静まった後の夜の町を歩くと、なぜか落ちつけた。ただ
しこれは、あくまでも人の住む町に限られる。繁華街であってはならない。
昼間は賑わい、夜は静まる街では寂しさばかりが強調されてしまう。昼も夜も
無く賑わう街では、情緒もへったくれも無い。いろんな意味で興奮するばかりだ。
学生時代、友人と共に夜を徹して、自主制作映画のシナリオ作りをした時の思
い出が残っているのかも知れない。深夜好きだった女の子をこっそり呼び出し、
共に在るはずだった未来を語り合った思い出が残っているのかも知れない。或い
はもっと昔、ガキの頃、盆踊りの帰り道に親とはぐれ、心細い思いをした時の記
憶のせいだろうか。
とにかく俺は夜の町が持つ、寂しさと心細さと、切なさと落ち着いた空気が好
きだった。
出来ればあまり暑くは無い、夏の夜がベストなのだが、冬は冬でまたいいもの
だ。虫に刺されることが無い分だけ、冬の方がいいかも知れない。
俺はバーゲン品の安物のダウンを羽織って、アパートから程近い川に来ていた。
幅のない川に架かる橋の中間辺りで、欄干に腕を載せる。眺める川面は黒く、行
き交う船もない。
ダウンのポケットから、煙草を出して口にくわえる。が、火を着けるためのラ
イターが無かった。どうやら部屋に忘れて来てしまったらしい。反対側のポケッ
トを探ってみると、行きつけの喫茶店の紙マッチが入っていた。一本目は、三回
擦っても火が起きず、そのまま捨てた。二本目は火が着いたが、擦った時の勢い
で手から離れ、川に落ちてしまった。三本目で、ようやく煙草に火が着く。
深く吸い込んだ煙を、一気に吐き出す。星空に登って行く煙が、何処まで達し
たのか、残念ながら見届けることは出来なかった。
川面で何か跳ねたような気がした。魚だろうか?
その正体を探ろうと、橋の下を覗き込む。橋に設けられた明かりによって、す
ぐ下の一部だけはなんとか川面が見える。しかし音の正体を知るには至らなかっ
た。
ダウンの前は開いたままだった。その下には、Tシャツ一枚を着ただけ。今夜
は暖かかったし、少し薄着なくらいの方が頭が冴えていい。そう思っていたから
だ。だが川面を覗き込むため、欄干におしあてた胸は、鉄製のそれに体温を奪わ
れてしまった。急激に寒さを感じ始める。
体温を取り戻そうとしてか、或いは意識してしまったためか、全身が震え出す。
「少し、暖まらないと………」
独り呟きながら、吸いかけの煙草を川に投げた。じゅっ、と火の消える音が聞
こえた。昼間であれば届かぬはずの小さな音も、夜となるとよく聞こえるものら
しい。
橋から離れ、俺は大通りを歩いた。途中、トラックが一台通り過ぎて行っただ
けで、他に車を見掛けることもなかった。
じじじじじ………
何か音が聞こえて来る。
じじじじじ………
どこかで聞き覚えのある音。
ああ、そうだ。自転車の音だ。
ペダルを漕がずに、車輪をまわした時の音だ。
自転車の音など、別段珍しくも無い。俺と同じような類のヤツか、夜の仕事に
励んだヤツが乗っているのだろう。正体さえ知れてしまえば、興味を持つ理由も
無い。
やがて前方から見え来た、俺と同じ歩道をこちらに進んでくる自転車と、それ
を押す人の姿。いつもなら特に一瞥をくれてやる事もなく、そのまますれ違って
行き過ぎていただろう。だが今夜は、少しばかり事情が違った。
俺は違和感を覚え、すれ違ったばかりの自転車を振り返る。
「がきぃ?」
違和感が気のせいで無いと知り、俺はつい、声を出してしまった。すれ違った
瞬間、妙に相手の身長が低いような気がしたが、どうりでそのはずだ。自転車を
押していたのは、野球帽を被った子どもだった。
正直なところ、俺は子どもってヤツが苦手だ。うるさくて厚かましいガキを見
ると、その頭を思い切りブン殴ってやりたくなる。自分から好き好んでガキの相
手をしてやろうなんて考えは、まず起きはしない。すっ転んで泣いているガキが
いたって、親か、でなければ他に近くに居合わせたヤツが面倒を見ればいい。余
程でなければ、まず俺は無視してやる。
だがそいつは、昼間であればの話だ。
もう午前一時を過ぎようかって時間帯に、ガキが一人で歩いているなんてただ
事じゃない。これこそ、余程って場合だ。すっ転んだガキが、頭から血を流して
いれば、俺だって無視したりはしない。
「おい、坊主」
大声で呼び止めると、ガキは驚いたらいし。背筋がぴんと反り返り、立ち止ま
る。
「何してんだ、こんな夜中に一人で? 父ちゃんか母ちゃんはいないのか?」
別に脅かすつもりなど、毛頭ない。俺はごく普通に話し掛けた、がそいつが悪
かったらしい。それでなくても俺の話し方は乱暴で、いつも怒っているように聞
こえると、知り合いからよく言われる。振り返ったガキも、明らかに怯えた目で
俺の方を見ていた。
俺はガキが苦手ではあるが、だからと言って乱暴に接していいものだとも思っ
ていない。正義感ってほど大業なものではないが、弱いヤツを脅したり暴力を奮
ったりするのを決してよしとはしない。
「ああ、びびるな、びびるな。別に取って喰おうって訳じゃないから」
俺は出来る限りの猫なで声を作って、ガキへと近寄った。普段出し慣れない声
が、我が事ながら耳に気色悪い。
赤いスタジアム・ジャンパーにブルーのジーパンを履いたガキは、それでもな
お口を噤んだまま俯いた。まあ事情は知らないが、ただ夜道を一人で歩くだけで
ガキには不安なものだろう。そこで見知らぬ野郎に突然声を掛けられて、警戒す
るのも当然か。
「なんでこんな夜中に、一人で居るんだ? 坊主の家はこの近くか?」
「………」
「黙ってちゃ、分からんだろう」
抑えたつもりだが、少しばかり口調が荒くなってしまった。一瞬、ひきつった
目を見せて、ガキは首を横に振る。
「近くじゃないって、じゃあ、遠いのか?」
今度はこくんと頷く。
見ればガキの押していた自転車は、後輪がパンクをしていて中のチューブが飛
び出している。車道を照らすオレンジ色の明かりでははっきり分からないが、靴
の踵を踏みつぶした上の靴下には、変な染みが着いている。踵から血が滲んでい
るのか?
これは相当な距離を歩いてきたらしい。
「駅前に交番があったな」
これは俺の手には余ると判断した口から、そんな言葉が漏れる。するとガキは
無言のまま、また自転車を押して歩き出してしまった。
「ととっ、ちょっと待った」
慌てて俺は自転車の荷台をつかんで、ガキを止める。面倒なガキと関わり合っ
てしまったと後悔はしているが、かと言ってこのまま黙って行かせるような無責
任な真似も出来ない。
「交番に行くのは嫌か?」
こくんと頷く。
改めて見ると、本当に華奢な身体つきをしたガキだった。一体何があって、こ
んな小さなガキが一人パンクした自転車を押してまで、夜の町を歩いていたのだ
ろうか。
「と言ってもなあ………何か話してくれない事には、どうしようもないだろう」
それでもガキは何も喋ろうとしない。
こうなると、俺に思い付く手段はただ一つ。人間、空腹であれば不安になる。
意固地にもなる。熱いラーメンを食って身体も暖まり、満腹になれば話をする気
にもなるだろう。
確かラーメン二人分の代金ぐらい、持ってたよな。
「こんちわ」
「………」
いつも通り、暖簾をくぐって真っ先に見えるのは無愛想なオヤジの顔。店内に
は見知った先客が一人。
「よう、久しぶり」
俺は顔は知っているが、名前は知らない先客に声を掛ける。
「仕事でな。一週間ばかり九州を転がしてたからなあ。で、これから札幌まで、
ひとっ走りだ」
「大変だなあ、トラックの運転ってヤツもよ」
「まあな。ごっそさん、オヤジ、金おいとくよ」
テーブルに小銭を置いて、先客は俺と入れ違いに店を出ていく。と、その先で
「なんだ? 坊主は」と驚きの声を上げた。
「おおっと、忘れるところだった。そいつは、俺のツレだよ」
「なんだい、子持ちとは知らなかったな」
「ばーか、そんなもんいるかよ」
「じゃあ、この子はなんなんだい」
「ほらほら、いらねぇ詮索している暇があったら、さっさと札幌に行っちまいな」
「へい、でっけいお世話さま」
まるで約束事のようになっている、悪態を交わし合いながら先客は停めてあっ
たトラックに乗り込み、発った。
「ほら、いつまでも外にいたら寒いだろう。早く入れ」
ぼさっと店の前に立ち尽くすガキに、声を掛けてやる。
「お金、持ってないよ」
弱々しい声だったが、俺の顔を見上げながら、初めてガキが口を開いた。
「馬鹿ったれ、ガキがそんなモン気にするんじゃねぇ。ラーメンの一杯や二杯、
俺が奢ってやる」
実のところ、二杯食われるとツケをよしとしない俺は、自分の分を頼むことが
出来なくなるのだが。
「オヤジ、ラーメン二丁、温かいのをな!」
「………」
他に客の居ない店内。俺は無駄に大声で注文すると、まだ躊躇っているガキの
手を引いて中に入れてやる。愛想のないオヤジは、何も応えず、けれど素早く手
を動かし出す。
大通りに面しているとはいえ、ここは交通量が多くはない。他にはコンビニが
あるだけのこの近所で、深夜まで営業しているこの店は、俺のような人間には有
り難い存在だった。それを思えば、オヤジの愛想の無さなど、何のこともない。
むしろどんな客が来ても余計な詮索をしない事が、今は好都合だ。普通の店で、
こんな時間にガキを連れて入れば、否応なく目立ってしまうだろうし、詮索もさ
れよう。痛くもない腹を探られるのは、決して愉快ではない。まあ、もっともこ
んな深夜にガキを連れて来る客を、全く詮索しないと言うのも、それなりに問題
があるような気もするが。
俺はガキを一番奥のテーブルに座らせ、セルフサービスの水を汲んで来てやる。
当のガキはと言うと、先ほど一言発してからまただんまり状態になっている。黒
い野球帽を目深く被っているため俯いてしまうと、明るい店内に入ってもその表
情は窺い知れない。歳は小学校の半ばくらいか。
俺は改めてガキの足下に目を落とす。初めに会ったとき、気になっていた踵の
染みを確認するためだ。案の定、それは赤黒い色をしていた。今は出血が止まっ
ているようだが、これではまともに靴を履いていられないのも道理だ。いや、踵
を踏みつぶしていても、ただ歩くことが、相当の苦痛だったはず。
見ればぴたりと合わせた膝が、小さく震えている。まさかまだ、俺のことを恐
がっているのでもないだろう………と、思う。寒くて震えているのか。店内は臭
い匂いを伴うエアコンの温風で、充分暖まってはいるのだが。或いはもっと別の
理由で、震えているのかも知れない。ガラではないが、それを思うと俺まで辛い
ような気になってしまう。
確かに俺はガキが苦手だ。だがその理由は、ガキがうるさくて厚かましいから
………それだけでは無かったりする。ぐっと歯を食いしばり何かに堪えているガ
キの顔を見るのが、なんとも辛いのだ。
「ほら」
ガキの注意を惹くために、音を立ててコップを置いてやる。それから俺はガキ
の対面(トイメン)に腰掛け、少しでもその心を解きほぐしてやろうと、我なが
ら涙ぐましい努力を試みた。
「坊主、名前は?」
「………」
「家はどこだ?」
「………」
「どこに行こうとしてたんだ?」
「………」
すべからくこの調子である。何も話してくれないことには、どうしようもない。
最終的に打つ手が一つ、有ることは有るのだが、出来ればこのガキも納得する形
にしてやりたい。そんな訳で、腹がふくれた後、こいつが心を開いてくれるのを
期待することにした。
それほど待つこともなく、湯気の立ち昇るラーメンを持って、オヤジがやって
きた。しかし仮にも客商売をしているのだから、「へい、おまちどう」と威勢の
いい一言くらい言ってもバチはあたらないだろうに。
「ほら、坊主。食え食え」
ガキの前のドンブリに割り箸を置いて、俺は言った。
「たいして旨いラーメンでもないが、身体くらいは温かくなるから」