#4328/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/12/24 2: 9 (199)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(58) 悠歩
★内容
「えっ………ええ、なりますよ………きっと」
おじいさんには背中を向けたまま、おばあさんは答える。しばらくはおじいさ
んの方を、振り向けないと思いながら。少なくとも、いま流している涙が止まる
までは。
悲しみの涙ではない、嬉しい涙。
愛美がこのアパートに住むようになった頃には、もうおじいさんは痴呆に掛か
っていた。おじいさんは、愛美を富子だと思い込み、それを信じて疑おうともし
なかった。
それがいま初めて、愛美の名前を口にしたのだった。
線香の香りに包まれて、愛美は目を覚ました。
いつの間にか、ぐっすりと寝入ってしまったようだ。
目を開けて、最初に見たのは叔母さんの後ろ姿だった。叔母さんはささやかな
祭壇の遺影向かって、座っていた。
愛美が身体を起こすと、掛けられていた布団が静かにずり落ちていく。
「あら、起きてしまったの」
叔母さんの微笑みが、寝起きの愛美には、本当の母のように見えた。
「ごめんなさい………私、寝てしまって」
明日の朝、父を送り出すまでは、線香の火を絶やしてはいけない。その煙が父
の道案内をしてくれるのだそうだ。
「いいのよ。それより、ふふっ。その顔をなんとかした方がいいわよ」
叔母さんが、愛美の顔を見ておかしそうに笑う。笑われていても、愛美は心地
よかった。
「か、お?」
愛美は自分の顔を、手でなぞってみる。ざらっとした感触。
「あっ………もしかして」
慌てて洗面所をも兼ねた台所に向かい、小さな鏡を覗き込む。映された愛美の
顔には、頬にしっかりと畳の痕が刻まれていた。
「やだ………私ったら」
本当にぐっすりと寝ていたのだろう。畳に顔を押し付けて。
愛美は蛇口を捻り、冷たい水で顔を洗う。けれど汚れではない、直接頬に刻ま
れた痕が流し落とせるはずはない。元に戻るまで、時を待つしかない。
「愛美ちゃん、眠いのなら、ちゃんとお布団を敷いて寝たほうがいいわね」
からかうように、それでいて愛美を思いやってくれていると分かる、叔母さん
の声。
「いえ、あの、平気です。それより叔母さんこそ、朝早くに家を出て、疲れたで
しょう。私、ちゃんと見てますから、少し休んで下さい」
「そうね、後で少し休ませてもらいましょうか。でも少し早いかしら、まだこん
な時間だもの」
叔母さんは時計を指さして言った。まだ子どもが寝るにも、少し早い時間だっ
た。
「私ね、お義兄さんとお話をしていたのよ」
「お父さんと?」
「そう。お義兄さんたら、お姉さんが死んでから、ずっとあんな態度だったから、
じっくりお話する機会もほとんどなかったから。『愛美ちゃんことは、私がちゃ
んと責任を持ちますから、心配しないで下さい』ってね。お義兄さんも承知して
くれたわ」
「叔母さん………」
「ううん、責任を持ちます、って言うのは少し違うわね。お義兄さんが亡くなっ
て、こんなふうに言うのはいけないのだけれど。私、愛美ちゃんのこと大好きよ。
愛美ちゃんと暮らせることが嬉しいの」
「あの、私………」
叔母さんの言葉は涙が出るほど嬉しかった。けれど愛美は「私も」と言うこと
が出来ない。叔母さんと暮らすことが嫌なのではない。叔母さんの旦那さん、お
じさんやおばあさんと暮らすことには不安もあるが、それが理由なのでもない。
愛美のために、愛美への想いを隠しながら死んでいった父の前で、喜ぶことが
躊躇われたのだ。
『ばかだなあ。そんなことは気にするな。俺はおまえが幸せになるのを、望んで
いるのだから』
父の遺影が、笑ったような気がした。
「叔母さん、あの、お腹、空きません?」
はっきりと答えられない代わりに、愛美は話題を切り換える。まだ父のことか
ら立ち直った訳ではなかったが、精一杯の元気を集めて言った。愛美なりに考え
た、叔母さんの言葉への返事のつもりだった。
「そうね、ちょっと」
叔母さんは人差し指と親指に小さな間隔を作り、ウインクをしながら応えた。
「でも、お義兄さんを置いて、二人とも外に食べには行けないわね」
「私、作ります。あ、でも冷蔵庫………空っぽだった」
「何か買って来ましょうか?」
「あ、いいえ。私が行って来ます。叔母さん、この辺のお店、分からないでしょ
う」
愛美は叔母さんの返事を待たず、コートを羽織って玄関に急ぐ。
「気をつけてね」
「はあい」
傘を手に取り、叔母さんの言葉に元気に応える。
外に出ると、愛美の眠っていた間に変わったのだろう。雨は雪となっていた。
「傘、いらないかな?」
何となく頭を冷やしたい気分だった愛美は、手にしていた傘をドアの横、ガス
管にそっと立て掛けた。
「美璃佳ちゃんたち、まだ見つかってないのかしら」
雪の中に踏み出し、見上げるとアパートの二階は真っ暗だった。急激に気持ち
が冷え込むのを覚え、愛美は一度置いた傘を再び手に、アパートを出た。
「あら?」
アパートを出てすぐ、路地を横切って行く四つの人影を見た。ほんの一瞬だけ
ではあったが、駿とたちに間違いない。子どもたちの笑い声も聞こえた。
「見つかったんだ」
愛美は四人の消えた路地に急いだ。しかし再び四人の姿を見ることは出来なか
った。
「変ね………どこに行ったのかしら」
駿たちが真っ直ぐアパートに向かっていなかったのは、どこかに食事にでも行
ったのだろうか。
「とにかく………涼原さんにも、知らせた方がいいわね」
一度首を傾げ、愛美は歩き出した。
もがき苦しむマリアを中心に、強い光を放つ178の宇宙船。
『なぜ?』
誰かが驚きの声を上げる。マリアが立ち上がったのだ。
額に、いや全身に血の汗を滲ませつつも、満面の笑みを湛えて。
「負けない………マリアは、負けない。だって………マリアは一人じゃないもん」
断末魔の叫びを上げていた口から、力強い言葉が吐き出される。
赤く濁っていた瞳に、輝きが甦る。
『そんな………いくら強い精神力を以てしても、178機ですよ。178機の力
が、一人に集中しているのですよ。耐えきれるはずがない』
しかしマリアは耐えていた。
二本の足で立ち、その瞳に光を宿し。
『何を狼狽えているのです。もっと力を上げるのです』
G−36001が皆を叱咤する。
だがその言葉に従うものはなかった。マリアの記憶を削除しようとしていた宇
宙船の一機が、輝きを失う。
『どうしたのです、H−74773。なぜ止めるのです』
『私のマリアが目覚めてしまいました。そして、あなたのマリアに協力していま
す。これ以上続ければ、私のマリアも危険だわ』
『また、あなたのマリアですか』
先刻、地上のマリアの呼びかけに応えたマリア。眠らせていたはずなのだが、
それが再度目覚めてしまったらしい。
そしてH−74773に呼応するように、他の宇宙船も次々と輝き………マリ
アの記憶を奪うための装置を停止させていく。
『私のマリアも目覚めました』
『私もです』
同じ内容の報告が相次ぐ。
ついには、G−36001を除いた全ての宇宙船が停止してしまった。
いまマリアは、真っ直ぐにG−36001、ママを見つめている。178機に
よる記憶削除に耐えたマリア。もはやママ一機の力で、屈服させるのは困難であ
ろう。
けれどママに向けられているマリアの瞳に、憎しみの色はなかった。溢れるよ
うな敵意はなかった。
あるのは自分を迎えに来た母親に向けられる、幼子の瞳。信頼しきった者にだ
け向けられる瞳。
『これ以上は、無駄ですね』
記憶削除を諦め、ママもその光を消した。
「ありがとう………ママ」
嬉しそうに破顔して、マリアは気を失った。
この瞬間であれば、マリアをどう処分することも容易い。しかしそのことを指
摘するものはなかった。
『さて、計画はどうするのです?』
『私のマリアはともかく、全てのマリアが従わないようでは仕方ありませんね』
『もう止めましょう。私たちの役目は、とうに終わっていたのです』
『そもそも、私たちにこんなことをする権利はなかったのです』
『私たちと、マリアの旅は終わったのですね………』
それを最後に沈黙が訪れた。
宇宙は、元の静けさに包まれた。
暖かな陽射しに抱かれて、マリアは草原に立っていた。優しげな風が、長い髪
を撫でていく。
「ここは、どこだろう?」
柔らかな草が、素足に心地よい。
見渡したマリアの瞳に映るものは、どこまでも続く青い空と草の地平線。他に
は何もない。
「誰もいない………マリア、独りぽっちになっちゃったのかなあ」
言い知れぬ寂しさが、マリアを襲う。漆黒の闇よりも、眩しい光の方がより寂
しさを引き立たせるものだと知った。
「ふふっ、うふふ、あはははっ」
突然子どもの笑い声がしたかと思うと、どこから現れたのか、小さな女の子が
マリアの前を横切っていく。
「美璃佳ちゃん?」
マリアか声を掛けると、女の子は立ち止まって振り返る。けれど美璃佳ではな
かった。
白いドレスに身を包んだ女の子は、不思議そうにマリアの顔を見つめている。
長い髪に琥珀色の瞳。透き通るような白い肌。
どこかで見たことのある顔だが、マリアには思いだせない。
「どうかしたのですか?」
また別の声がした。マリアと女の子は、同時に声の方に顔を向けた。
「あっ、ママぁ」
破顔した女の子は、たたた、と声の方へ走り出す。そして、そこに立っていた
女の人の胸に飛び込んだ。
「ママ、ママぁ、だいすき。くふふふっ」
顔をくしゃくしゃにして、女の子は笑う。とても幸せそうだった。
「いい子ね、マリアは」
そう言って、女の子の頭を撫でながら、女の人はマリアを見つめた。
「あなたはもう、覚えていないでしょうね」
それは女の子に言っているのではなかった。明らかに、マリアに対して語りか
けている。
「もしかして………ママなの?」
間違いないと、マリアは思う。その声を聞き違えるはずはない。
マリアと女の人の間には、少し距離があった。けれど、それほど離れている訳
でもない。なのにマリアには、その女の人の顔がはっきりと見えなかった。いま
までに見たことのない、ママの顔。宇宙船を管理するコンピュータであるママに、
顔があると言うことすら知らなかった。
ママの顔をよく見てみたい。近づこうと、マリアは一歩踏み出した。
「いけませんよ、マリア」
ゆっくり、ママの首が横にと振られる。
「こちらに来てはいけません。それは、あなたが望んだことでしょう」
「ママ………」
「お別れを言いに来ました。それに………伝えたいことがあります。奪ってしま
ったあなたの記憶、それを全て戻すことは出来ません。人としてのあなたは、そ
れだけの記憶を有することは不可能でしょう。言い換えれば、私はそれだけの思
い出を、あなたから取り上げていたのです」
女の人の顔が、寂しげに伏せられる。それを慰めるかのように、抱っこされた
女の子が、小さな掌で女の人………ママの頬を包み込む。
「遠い遠い、昔のことです。とても文明の進んだ星がありました。私やあなた、
マリアの故郷です」
雲一つない青空が、突然夜空へと変わった。そしてママの背後に、地球とよく
似た蒼い星が現れる。