#4323/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/12/24 2: 4 (200)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(53) 悠歩
★内容
美璃佳は空を見上げる。涙と雨で、濁った視界を洗うために。
まだ痛みも治まりきらず、視界も完全ではない。それでも美璃佳は立ち上がっ
た。
お兄ちゃんが待っている。美璃佳を待っている。お兄ちゃんは待っている。美
璃佳が大人の人と助けに行くのを。崖から落ちたお兄ちゃんはもっと痛い。ケガ
をしているかも知れない。早く助けてあげないと死んでしまうかも知れない。
だから。
いまは泣いてはいけない。
よろめく足どりで、美璃佳は再び歩き出そうと、一歩を踏み出す。
「くつ、が………ないよぉ………」
転んだはずみで、左足の靴が脱げてしまったようだ。
探そうにも、暗くなった山道。近くにあるものさえ、はっきりと見ることが出
来ない。
「はやく………いかなくちゃ、いけな………だもん」
靴を諦め、美璃佳は裸足のまま歩き出す。
靴よりも、お人形よりも、お兄ちゃんの方が大事。
痛みと、恐怖と、視界の悪さと、そして自分自身の不調すら振り切るように、
美璃佳は走り出した。
「駿!」
突然足を止め、マリアが叫ぶ。
マリアの手を握っていた駿も、当然急ブレーキを掛けるようにして、停止を余
儀なくされる。
「なにか、聞こえる………」
「えっ」
何が聞こえると言うのか。マリアはそれっきり前方を見据えたまま、まるで電
池が切れてしまったかのように動きを止めてしまった。
駿もまた、マリアに倣うようにして前方を見つめ、耳を澄ます。
規則的に続く雨の音。
それ以外に聞こえるものはない。
「なにも聞こえないよ………」
「ほら!」
停止していたマリアが、ぴくりと反応を示す。
マリアが反応したその音は、駿の耳にも届いていた。前方、闇に包まれたその
中からわずかだが、雨音とは違う何かが聞こえてくる。
びちゃ、びちゃ、びちゃ。
初めは微かに、次第に大きく。泥の跳ねる音が近づいてくる。
「誰かが、こっちに走っくるみたいだ。まさか………」
まさか猪や熊の出そうな山ではない。こんな時間、しかも雨の中、ハイキング
を楽しんでいた人間の下山でもあるまい。
「うん」
マリアも駿の考えを肯定する。
そして暗闇の中から、小さく朧気な影が微かに浮かび上がった。その影もまた、
駿たちに気がついたようだ。足を止め、じっとこちらを窺っている。
沈黙が続く。雨の音が、やけにうるさく感じられた。
「美璃佳………ちゃん?」
見覚えのあるシルエットに向かい、相手を驚かさぬように駿は優しく声を掛け
た。
「しゅ………にい、ちゃ……」
聞き取りにくい音声ではあったが、影の方でも駿の名を呼び返す。
こちらの正体を確認した影、美璃佳は真っ直ぐと駆け出して来た。そして転ぶ
ようにして、身を屈めた駿の腕の中へと飛び込んだ。
「うわっ……うわっ、うわあああん」
美璃佳は力一杯に駿の首にしがみついて泣き出した。もし美璃佳にもう少し力
があったのなら、駿はそのまま首を絞められて窒息してしまったかも知れない。
「よしよし、美璃佳ちゃん、落ち着いて。もうだいじょうぶだから」
しがみつく美璃佳の力があまりにも強く、抱き抱えて立ち上がるだけでも一苦
労だった。それでも駿はどうにか立ち上がり、落ち着かせようと美璃佳の背中を
さすってやった。その身体は酷く冷たい。
この雨に悪路。そこを走ってきたのだから、泥で汚れてしまっているのは当然
といえよう。しかし顔や服の前側まで汚れているのは、ここに辿り着くまでに何
度か転んだ証拠だ。調べてみれば、擦り傷の一つや二つはあるだろう。
「美璃佳ちゃん。お兄ちゃん、良太くんはどうしたの?」
美璃佳を見つけても、まだ安心することは出来ない。むしろ美璃佳だけが見つ
かり、そのそばにいるはずの良太の姿がないことに、大きな不安を感じる。駿は、
その良太の行方を美璃佳に訊ねてみた。
「にぃ、ちゃ……こっちゃ、た………の。けが、って……いた、って、けないの
………」
興奮気味の美璃佳は、泣きながら説明をしているらしいが、駿にはさっぱり分
からない。しかも以前の風邪がぶり返してしまったのか、時折激しく咳き込み、
その話をさらに難解なものにした。
けれどその様子から、いま良太はただならぬ状態に置かれているらしいと推測
出来た。
「美璃佳ちゃん、落ち着いて、分かるようにゆっくりと話して」
「………から、にいちゃ………け、なのぉ……はや、く」
何かを急かすようにして、美璃佳は駿の身体を揺する。駿は危うく美璃佳を抱
いたまま転びそうになるのを、どうにか堪えた。
「はやくう………いそ、で」
なおも美璃佳は駿を急かし続ける。何が起きたのかは分からないが、このまま
美璃佳の来た道を進めば良太の元に着けるかも知れない。些か頼りない気もする
が、美璃佳が落ち着くには時間が掛かりそうだ。それを待つよりは、先に動いた
方がいいだろう。そう考え始めていたところで、マリアが話し掛けて来た。
「駿、美璃佳ちゃんを貸して」
「えっ、ああ」
駿は差し出されたマリアの腕に、美璃佳の身体を預ける。しっかりとしがみつ
いた美璃佳を渡すのは難しいかとも思えたが、意外と簡単に行った。美璃佳にし
ても駿に抱かれているより、マリアの方が落ちつけるのだろうか。
「ねえ、美璃佳ちゃん。なにがあったのか、マリアに教えて」
赤ん坊をあやす母親ように身体を揺らしながら、マリアは優しく問い掛ける。
訊いている事柄は駿と代わりはないのだけれど、口調は穏やかだった。あるいは
美璃佳以上に、駿の方が興奮していたのかも知れない。その証拠に、マリアに抱
かれている美璃佳は、さきほどより幾分落ち着いて来たように見えた。それでも
やはり、美璃佳の言っていることは駿に理解出来るものではなかった。
けほけほと、美璃佳が咳をした。
『肺炎にならなかったのは、幸運としか言いようがない、な』
以前美璃佳を診てくれた医師の言葉が思いだされる。
あれから駿なりに、注意はしてきたつもりだ。ほとんど外食ではあったが、金
銭的に無理をして栄養もつけさせたはずだ。しかしそれもほんの一週間くらいの
こと。その程度の期間で、美璃佳の身体が極端に強くなったとも思えない。
大人の、至って健康体である駿でさえ、この雨と寒さはかなり堪える。まして
や体力に不安のある美璃佳はなおのこと。
改めて自分の手から離れた美璃佳を見ると、酷い有様だった。限界まで水を吸
い込んだ服は、マリアの腕に抱きしめられた部分から水が絞られるように、滲み
だしている。
走っている間に、雨によって流されたのだろうが顔には泥の跡と、小さな傷が
幾つか見られる。服にも泥染みが大きく、というより染め上げたように残されて
いた。お気に入りだったはずの『フラッシュ・レディ』の靴も、片方がなくなっ
ている。
すぐにでも風呂に入れて、乾いた服に着替えさせてやりたい。せめて、顔だけ
でも綺麗にしてやりたい。そう思ったところで、ここではどうしようもない。転
んではいない分だけ、駿の方がマシではあるが、水を吸って重く冷たい服を纏っ
ているのは、美璃佳と同様である。美璃佳が抱きついていた部分には、その形に
泥染みが残されていた、
「たいへん!」
美璃佳の話を聞いていたマリアが、大声を上げた。
「聞いてた? 駿」
大きな瞳が駿へと向けられる。
「聞いてはいたけど………マリアには、美璃佳ちゃんの言ってることが、分かっ
たのかい?」
「良太くんが、崖から落っこちたの!」
「なんだって! ど、どこで? 怪我は? 意識はあるのか?」
「もう、いっぺんに言われても、マリアも答えられないっ」
珍しく、マリアが声を荒げた。荒げてさえ、耳に心地よい声ではあったが、聞
き惚れている場合ではない。
「ごめん………」
「良太くんの落ちた崖は、このずっと先。いっぱい走って、木のいっぱいあると
ころの、向こうの崖だって。良太くんね、動けないんだって」
美璃佳の言葉を通訳してくれたのはいいが、それでも結局必要な情報はだいぶ
欠けていた。しかし良太が崖から転落し、怪我・打撲等で動けない状態にあるら
しい。もしかすると、本当に一刻を争う状況かも知れない。
詳しい場所を知りたかったが、完全に落ち着いたとしても、美璃佳がはっきり
と覚えているかは疑問だ。おそらくは初めて来た山、雨と暗闇で周囲の地形も朧
気である。
「マリア、美璃佳ちゃんを連れて戻って!」
早口で言い放ち、駿は駆け出した。場所の特定は出来ていなくとも、ここより
先であることは間違いない。また、良太あるいはそれを助けようとするこちらに
も危険がないとも限らない。駿一人で向かった方が身軽であるし、二人を危険に
さらす恐れもない。
ところが駿の後ろから、足元の泥を跳ね飛ばして着いて来る音がする。そして、
その足音は、ぴたりと駿の横に並んだ。
「マリア!」
駿は二重の意味で驚いた。
まずはマリアが駿の言葉に従わず、着いて来てしまったこと。美璃佳のことを
考えれば、すぐにでも山を降りて身体を暖めてやるべきだ。良太の元に辿り着い
ても、もしかすると駿一人では手に余る状況であるとも考えられる。だがそのよ
うな場合、マリアや美璃佳が役に立つとは思い難い。それよりも駿は、先に下山
したマリアが、誰か助けを呼んでくれることを期待していたのだ。
そしてもう一つは、マリアが駿のペースに遅れることなく、着いて来ていると
いう事実。確かに駿は、それほど体力に自信のある方ではない。だが自分よりず
っと華奢な体つきのマリアより、体力はあるつもりだった。しかもマリアはその
胸に、美璃佳という負荷を抱えているのだ。それなのに、マリアは全く苦しそう
な顔を見せず、駿と並んで走っている。
「戻れ、戻るんだ、マリア」
さすがに駿は足を止め、マリアを強く怒鳴った。腹が立ってと言うより、美璃
佳の身を案じて。
「……やぁ」
応えたのはマリアでなく、美璃佳だった。
駿たちと出会ったことで、気が緩んだせいだろう。美璃佳はマリアの胸の中で、
ぐったりとしていた。しかし疲れ切った表情ではあったが、その目は強い意志を
込めて駿へと向けられている。
「美璃佳ちゃん、いっしょに行くって言ってるよ」
その美璃佳の意志を代弁するかのように、マリアが言った。
「いいかい、ぼくたちみんなで行っても、良太くんを助けられないかも知れない。
だから美璃佳ちゃんとマリアは、山を下りて人を呼んで来るんだ。もちろんぼく
も、一人でなんとかなるようなら、ちゃんと良太くんを助けるから」
「いくのぉ」
弱々しい声量ではあったが、先ほどとは違い明瞭な言葉で美璃佳は意志を示し
た。
「りょうた………おにいちゃん、を……たすけるの」
「マリア、無理にでも美璃佳ちゃんを連れて、戻るんだ」
何としても兄の元に行きたいと言う、美璃佳を説得するは困難だと駿は判断し
た。そこで強引にでも連れて行くようにマリアへ指示した。しかしマリアもまた、
駿に従おうとはしなかった。
「マリアも行くよ、良太くんのところに。美璃佳ちゃんといっしょに」
「マリア!」
緊迫した状況にも関わらず、マリアは屈託のない笑顔を浮かべて言う。このマ
リアを説得するのは、美璃佳よりも難しそうだった。これ以上、問答に時間を費
やすのは望ましくない。
「ったく………聞き分けのない女の子たちだ」
露骨なまでに駿は不快感を顔に顕すが、マリアは臆する様子を微塵も見せない。
「ほら」
駿は両の腕をマリアへと伸ばした。その意図を測りかねたのだろう、マリアは
不思議そうに駿の腕を見つめている。
「美璃佳ちゃんは、俺が抱くよ。重いだろう」
駿が同行することを許したと知ると、マリアの笑顔は一層輝きを増した。
「ありがとう。でも、いいの。美璃佳ちゃんは、私が抱っこしてる」
そうは言われても、駿とて男としてのプライドがある。女性であるマリアに美
璃佳を抱かせたまま、自分は身軽なままでは駿の立つ瀬がない。もっとも、先ほ
ど見せた脚力からも駿よりマリアの方が体力が上であるようにも思えるのだが。
「美璃佳ちゃん、ぼくが抱っこしてあげるから、こっちにおいで」
もう動くこともしんどいのか、それともマリアから離れたくないのか、美璃佳
は駿の元に来るどころか、胸にしがみつく手を固く握りしめてしまった。
考えてみれば、母親の愛情をほとんど受けたことのない美璃佳は、マリアの温
もりに安らぎを覚えているのかも知れない。
「マリアは平気だから、急ごうよ」
もしかすると、マリアの胸の中にいた方が、駿が抱いてやるより幾分暖かいの
かも知れない。着替えさせてやることが出来ないのなら、マリアに預けていた方
がいいだろう。少々納得し難いものも残るが、マリアが言うように駿もここは急
ぐことを最優先に選んだ。