AWC 『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(52)  悠歩


        
#4322/5495 長編
★タイトル (RAD     )  97/12/24   2: 3  (200)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(52)  悠歩
★内容
 骨が折れてしまったのかも知れない。頭の芯にまで響く痛みに、良太はそう考
えた。しかも痛みのある右足は、良太の腕で抱えられるかどうかという太さの倒
木に挟まれていたのだ。
 初めから倒れていた木に、滑り落ちた良太の足がはまってしまったのか、良太
がぶつかって木が倒れたのか、それは分からない。しかし良太の力でその木を退
かすことはもちろん、足を抜くことも出来そうにない。
 それにわずかに身を捩っただけで、雨で緩んだ周囲の土は、簡単に崩れてしま
う。下手に動けば良太もろとも、さらに下へと滑り落ちてしまうかも知れない。
 美璃佳の声がそれほど遠くからは感じないので、良太のいる場所から崖の上ま
での距離は長くないはず。だが仮に足を倒木から抜くことが出来たとしても、こ
の痛みではとても上までは登れない。
 雨はいまもなお、降り続ける。
 足を抜くことを諦めて、また身体を倒した良太の上にも、氷のように冷たい雨
が降り注ぐ。
 かじかんだ指先、わずかに動かしただけで激痛の走る足。
 幼い良太の力では、どうにもならない。もちろん、美璃佳にも。
 上で良太が戻って来るのを待っている美璃佳にも、雨は容赦なく降り注いでい
るのだ。美璃佳の嗚咽と咳が、良太の耳にも届いてくる。
 このままでは、二人とも大変なことになってしまう。
 自分がこうなってしまったのは、きっとバチがあたったのだろうと、良太は思
った。
 でも美璃佳には関係ない。
 アパートから逃げ出すことも、山の中に隠れようとしたのも、全部良太が一人
で決めたことだった。美璃佳は、良太に言われるまま、何も分からずに着いて来
ただけなのだ。
 もし良太がこのままここで、死んでしまうのだとしても、自分のせいだ。けれ
ど妹まで巻き込む理由なんて、何もない。
「美璃佳………きこえる?」
「ん、きこえる」
「おにいちゃん、ケガしちゃったみたいなんだ………ここからうごけない」
「みりか、たすけにいく!」
「ばかいうな!」
 痛みに耐えながら、出来る限りの声で美璃佳を怒鳴りつける。
「だって………だってぇ」
「美璃佳がおりようとしたら、またじめんがくずれちゃう。そしたら、美璃佳も
おにいちゃんも、もっとおっこちて、ほんとうにしんじゃうだ」
「だって、おにいちゃん、うごけないんでしょ?」
 泣きながら話す美璃佳の声を聞いていると、顔に掛かる雨も妹の涙のように良
太には思えた。
「美璃佳がきたって、おにいちゃんをだっこして、のぼれないだろう?」
「うん………」
「だから………美璃佳は一人で、山をおりるんだ」
「やだ! おにいちゃんといっしょじゃなきゃ、いや」
「おにいちゃんは、うごけないんだ………だから、美璃佳が山をおりて、おとな
のひとをつれてきてほしいんだ」
「だって………みりか、ひとりじゃこわいよぉ」
「それなら、おにいちゃん、ここで死んじゃうかもしれない」
 脅すことは気が退けたが、そうでも言わなければ美璃佳はとても一人で、山を
下りようとはしそうにない。
「だから、たのむよ。美璃佳」
「………わかった、みりか、おとなのひと、よんでくるぅ………」
 消え入りそうな、語尾。四歳の美璃佳が、真っ暗で雨の降る山道を一人で行く
のは、とても決心のいることだろう。
「でも、はしっちゃダメだよ。ころんで、美璃佳までおにいちゃんとおんなじこ
とになったら、もうだれもたすけてくれないから」
「うん………まっててね、おにいちゃん」
 ばちゃばちゃと、泥の跳ねる音がした。
 意を決して美璃佳は行ったらしい。
 その音を聞きながら、美璃佳が無事に帰り着くことを、良太は祈った。
 そしてやがて音が聞こえなくなると、良太は美璃佳の兄から幼い男の子へと戻
る。痛みと心細さに、声を出して泣いた。
「ふぇ………ふぇっ………やだ……こわいよお………ぼく、まだ死にたくないよ
ぉ」
 その良太の声を聞く者は、誰もいない。



 逢魔が時。嫌な時間帯だ。理由もなく、不吉なことが起こりそうな予感に襲わ
れてしまう。
「マリア、やっぱり君は戻った方がいい」
 前髪から垂れてくる雨水を拭いながら、駿は後ろを歩くマリアに言った。山に
入っていぐ降り出した雨は、一向に止みそうな気配を見せない。それどころか時
間と共に、激しさを増して行くばかりだ。
「ううん、マリアも行く」
 にっこりと微笑みながら、マリアは応えた。しかしその笑みは、マリアの陽気
さを顕してのものではない。駿には、それが自分を励ましてくれるためのものの
ように思えた。
「だけど、何も良太くんたちが、この山にいるとは限らない。全くの無駄足かも
知れないんだ………だから、何もマリアまで濡れることはない」
 いくらマリアが寒さに強いとは言っても、今日の冷え込みは半端ではない。降
り続ける雨に、マリアの長い髪もすっかりと濡れそぼり、雫を滴らせている。い
つもは子どもっぽく見えるマリアだったが、濡れた髪のせいでやけに色っぽく見
えた。もし一刻を争って良太たちを探しているのでなければ、駿はただ見とれて
いるばかりだっただろう。
「良太くんも美璃佳ちゃんも、マリアの大切なお友だちだもん。だから、マリア
も探すの」
「そうか。じゃあ、行こう」
 駿はマリアに微笑み返し、山道を歩き出した。
 たが少し前から吹き始めた風は、よりによって駿たちの進行方向、上の方から
山の斜面を舐めるようにして下りてくる。
 山歩きに慣れた人間なら、さして気になるような風ではないだろう。けれど悲
しいことに、駿は体力に自信のある方ではない。わずかばかりの向かい風にでも、
体力の消耗は激しく、足の運びも遅くなる。しかもその風に乗り、大量の雨が顔
面を叩く。これには視界を制限されてしまう上に、痛みも伴う。
 ただでさえ陽が落ちて明かりのなくなった山道、駿たちの歩みは遅々として進
まない。
「くそっ、油断したな」
 口内に飛び込んだ雨水と共に、駿は言葉を吐き捨てる。
 山に入る前から、天気が崩れそうな予兆はあった。雨具や懐中電灯を用意する
くらいの時間はあったはずだ。だがそれをしなかったのは、駿の油断に他ならな
い。
 一秒でも早く、良太たちを見つけたいという焦りも確かにあった。しかしさし
て大きくはないこの山、小山と言ってもいいだろう。それを嘗めていた。
 街中にぽつんと聳える小さな山は、一見する限り頂上まで登りきることも容易
に思えた。天気の良い昼間なら、近所の子どもたちの格好の遊び場になりそうだ。
正に裏山と言った感じに、駿は準備を怠ってしまった。
 しかし一度街に戻り、雨具等の準備を整えてから登りなおすには時間が惜しい。
雨具と懐中電灯、そして出来れば暖を取るためのカイロは是非とも欲しいところ
だが、それは先行しているだろう良太たちも同じである。むしろ駿たちよりも、
幼い良太たちの方が切実にそれを欲しているような気がする。
 用意し直して、それを良太たちの元に届けるより、彼らを一刻も早く見つけ出
し、それを用意できる場所に連れ戻してやった方がいい。
「ん?」
 強い不快感を覚え、駿は足を止めた。
 同時に後方では、泥水の跳ねる音がした。
 見るとマリアが、両膝を雨でぬかるんだ地面に手をついて、座り込んでいた。
「どうしたマリア、転んだのか?」
 駿は駆け寄ってマリアの肩にをつかみ、助け起こす。
「ううん………違うの。いま、なにか凄くいやな感じがしたの」
 すがるような瞳が、駿を捉えた。怯えるような、マリアの目。
 マリアもまた、駿と同様に得体の知れぬ不快感を感じたと言うのだ。
「マリアもか………ぼくもいま、なんだか嫌な感じがしたんだ」
 そう言って駿は、先の見通せぬ暗い山道に目を向けた。冷たい雨に打たれなが
ら歩く山道。確かにただそれだけで、不快を感じるのには充分であった。だが駿
の感じたものは、そう言った類とは違う。人の苦痛や恐怖を間接的に感じること
が出来たとしたら、こんなふうではないだろうか。そう思えるような感覚だった。
 恐怖の伝染と言う現象がある。
 群衆の一部で発生した恐怖は、瞬く間に群衆全てに伝わってしまうそうだ。そ
の結果、大半の人々はその原因さえ知らぬまま、恐慌状態に陥ってしまう。
 いまこの場には、駿とマリアの二人しかいない。群衆の中のような、伝染の仕
方は起こり得ない。しかし駿の感じた不快は、媒介となる中間の人々を省き発生
場所から直接送られて来た、そう思えるのだった。
 もちろん、気がしたと言うだけのことであって、そんな奇異な現象が本当に起
きたのだと立証は出来ない。が、立証する必要もない。
 いま感覚の原因、送られてきた発生源について駿が推測できるのは、ただ一つ。
良太たちだった。
 なぜほとんど勘としか説明できない理由で、この山に良太たちがいると言える
のか。なぜ駿やマリアの感じたものが、良太たちから送られてきたと断言できる
のか。
 冷静な分析を、ここで行う必要などない。
 そう感じた、いまはそれだけで充分だった。
「歩ける? マリア」
 感じた不快は、マリアの方が大きかったらしい。あるいは感性の違いか。力の
抜けたマリアの身体は、まだ元に戻らないでいた。
「うん、平気だよ。急ご、駿」
 健気に笑みを浮かべ、マリアは立ち上がる。コート越しではあったが、駿のつ
かんだマリアの肩は小さく、華奢だった。
 抱きしめたい。
 強い衝動が涌き起こる。
『馬鹿な。こんな時に、何を考えているだ。俺は………』
 欲望に流されそうになった駿は、強く頭を振ってそれを否定した。
「駿?」
 不思議そうに駿を見つめるマリアの顔。
「あ、うん………なんでもない。だいじょうぶだね? マリア。それじゃ、急ご
う」
 駿は邪心を恥じて、素早くマリアの顔から視線を逸らして歩き出した。ただし
その右手は、マリアの左手をしっかりと握ったままだった。



 ばちゃばちゃと、足元を跳ねる泥水。
 スカートも靴も、そしてパンツにも染みてくる。
 けれどそんなことは気にしない。気にするゆとりもない。
 ただひたすら、美璃佳は走り続ける。
『走ってはいけない』
 お兄ちゃんは言った。
 でも走らずにはいられない。
 夜の山道を一人で行くことへの恐怖、そしてそれ以上に早く大人の人に知らせ
て、お兄ちゃんを助けてもらわないと。その思いが美璃佳をせき立てる。
 走っているのに、ちっとも暖かくならない。
 きっと雨のせいだ。
 真っ直ぐに走っているつもりなのに、道がうねうねとして見える。
 きっと雨のせいだ。
 ぜー、はー、ぜー、はー。
 息が苦しい。でも走るのを止めることは出来ない。
 お兄ちゃんが待っているから。美璃佳が大人の人を連れて来るのを待っている
から。
 もっとたくさんの空気を吸い込もうとして、美璃佳は大きく口を開いた。けれ
ど口の中に飛び込んで来たのは、求めていた空気ではなく、大量の雨。飛び込ん
で来た雨は、美璃佳の気管を塞ぐ。
「けほん……、げっ、げほっ、けほん、けほん」
 激しく咳き込んでしまう。
 きっかけは雨水であったが、喉に詰まったものが吐き出された後も、咳は止ま
らない。そして連続する激しい咳は、美璃佳の小さな身体を大きく揺さぶる。
 四歳児の美璃佳の重心は、大人と異なりそのほとんどが頭に集中していた。た
だでさえ走っていることで、重心は不安定になっていた。さらに咳き込むことに
より、バランスは美璃佳自身の足で支えきれる限度を超えて崩れてしまった。
 ばちゃっ。
 音と共に、大きく泥水の柱が立つ。
 その中心にうつ伏せになって、美璃佳が倒れている。
「う………ぐうっ」
 泥の中から顔を上げ、美璃佳は小さく呻く。泥だらけになった顔の口もとが歪
み、泥の混じった唾液が流れ落ちた。
「ふうっ、うううっ、くう………」
 声を上げて泣きたくなるのを、懸命に堪える。泥に濁った視界を、袖で拭おう
として、さらに泥を塗りつけてしまった。
「うくっ、くうっ………ぐっ、うぐうっ」
 目が痛い。頭が痛い。手が痛い。お腹が痛い。足が痛い。
 口の中が気持ち悪い。お洋服が気持ち悪い。
 堪えても、涙は止められない。拭くことも出来ない。




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