#4324/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/12/24 2: 4 (199)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(54) 悠歩
★内容
それを幸運と呼んでいいものか。
雨は収まった。しかし気温は、また下がって行く。あくまでも収まったの雨で
あって、空からは別の物が降り始めている。
雨は雪へと変わったのだった。気温の更なる低下は、もちろん駿にとっても有
り難くないことだが、体調の心配される美璃佳、そして救助されるのを待ってい
るであろう良太にも好ましい事態ではない。ただ一人、マリアだけが物珍しそう
に「駿、これなに? 空から白いものが落ちてくる」と、訊ねてきたがさすがに
足は止めなかった。
その前に存分に降った雨のため、すっかりと水の浮いた地面に積もるには、ま
だ相当の時間が必要であろう。氷水となった水たまりは駿の安物の靴から滲みて、
足先を凍らせる。ただ歩くだけでも、痛みを感じさせた。
悪路が一段と酷くなり、また駿自身も激しく息切れをしてしまったため、走る
ことは止めていた。マリアはまだ疲れた様子を見せないが、もし彼女が転びでも
したら、胸に抱かれた美璃佳にも危険が及ぶ。というのは、駿の言い訳か。
たった一つ、雪によって助けられたこともある。
降りしきる雪が、わずかではあるが山の周りの街明かりをここまで届けてくれ
る。強い風が吹けば別だが、これで駿の視界は少し広がった。これで地べたも白
くなれば、かなり見通しも良くなるのだろうが、もしそうなれば動けないでいる
良太が危険だ。
「止まって、駿。美璃佳ちゃんが何か言ってる!」
マリアの声に、駿は足を止め振り返る。
「おにい、ちゃ………りょうたにいちゃ、このちかく………」
弱々しい美璃佳の声。その後に続いた咳すらも弱々しい。どうも美璃佳の元気
がないのは、単なる疲れとか安心したからと言うものではなさそうな気がする。
ひょっとして、駿はとんでもない判断ミスをしてしまったかも知れない。どんな
ことをしても、美璃佳は山を下ろすべきだったのではないか。
「この近くに良太くんがいるんだね」
駿は、さっと周囲を見回す。せめて足跡でも残っていれば、助かるのだが。あ
いにく激しく降った雨は、良太たちのわずかな痕跡も残して置いてはくれなかっ
たらしい。
「良太くん、良太くん!」
良太の名前を呼びながら、駿は道の両側の雑木林の、右側へ入った。左には山
の登り斜面が聳えている。崖に落ちたと言うのだから、良太がいるとしたら右の
下り斜面のはず。もっともそれは、この近くであると言った美璃佳の言葉が正し
ければの話だ。辺りは暗く、似たような斜面、雑木林が続く山の中、はたして美
璃佳の記憶がどこまで正しいのか。
視界の先、木が途切れて街明かりがうっすらと見える。そこからは、いま駿の
立っている地面が続いていないという証。手前の虚空を舞う雪と、後ろの街明か
りが幻想的な光景を生み出し、つい駿は現状を忘れて見入ってしまった。
その駿を我に返してくれたのは、マリアだった。
「駿、あれ」
美璃佳を抱いているため、マリアの手は自由にならない。小さな顎が、何かを
指し示した。
「あっ、これは」
駿はマリアの顎の延長上、崖から二、三メートル手前に落ちていた子供用ジャ
ンパーを拾い上げた。良太のものだ。
「良太くん!」
崖の直前、街の方角へと傾いで生えた木に手を掛け、駿は下を覗き込む。
「良太くん! いたら返事をしてくれ!!」
先刻までの雨のせいで、足元の土はかなり危なっかしい状態になっている。駿
が手を掛けている木の下、崖の縁に当たる部分で土のそげ落ちた痕が確認出来た。
ジャンパーの発見と考え合わせせれば、良太がここから落ちた可能性はかなり高
い。
大声で名前を呼んでみるが、返事はない。
「良太くん、いた?」
「来るな!」
こちらに近づこうとしたマリアを、駿は叱りつけるようにして制した。
「足元が相当緩んでる。それ以上近づいたら、崩れるかも知れない」
声を和らげそう説明してやると、マリアは無言でこくんと頷いた。別に言葉で
応えても構わないのだが、声を出すと雪崩のように土が崩れるとでも思ったのだ
ろう。
マリアが素直に従ってくれたのを確認すると、駿は再び崖の下へと声を投げ掛
ける。
「良太くん、良太くん」
やはり応えは返らない。
舞う雪のお陰で明るくはなっているが、それをもってしても崖下に光は届いて
いない。ここから駿の目だけを頼りに、良太の姿を探すことは困難に思われた。
やはり判断を誤ったのか。
今から山を下りて助けを呼んだとしても、致命的な時間のロスがある。もしま
だ良太がこの崖の下に生きていたとしても、降り積もって行く雪の中、それほど
長い時間は………
「……にいちゃ………りょうたおにいちゃん!」
駿が不吉な考えに捕らわれているところに、それまでぐったりとしていた美璃
佳の信じられぬほどの大きな叫びが届いた。
「み、美璃佳」
そして、眼下の闇から応える声が聞こえた。
「良太くん! 無事か」
二十二年間の人生で、これほど心の震えた覚えはない。駿は下から聞こえた声
の位置を確認して叫ぶ。
「そのこえ、駿お兄ちゃん?」
元気一杯とは言えないが、はっきりした口調。間違いなく良太のものだ。どう
やら駿の考え掛けていた、最悪の事態には至っていなかったらしい。
「ああ、美璃佳ちゃんとマリアもいる」
「よかった………美璃佳、ちゃんとお兄ちゃんたちと、あえたんだ」
声を頼りに、良太の位置を確認することが出来た。駿のいる場所から、やや右
寄り、四メートルほど下に斜面に身を預ける格好で横たわっている子どもの姿が
ある。
「動けないのか、良太くん?」
「………うん。あし、ケガしちゃった。それで、木にはさまれたの」
「挟まれた?」
駿の位置から詳しくは見て取れない。崖と呼ぶには少々大袈裟な斜面ではある
が、どうにも足元が緩んでいて、ここから下りるのは難しそうだった。
しかし気丈に振る舞ってはいるが、良太とて衰弱しているはず。のんびりと構
えてもいられない。どこか下りれる場所はないかと、辺りを見回す駿の目に斜面
から突き出た木が目に止まった。良太のいる場所から、崖の上まで真っ直ぐに延
ばした線上の、少し右側。崖の上から一メートル前後の位置。立ち枯れしていた
が、見た目ではその根元はしっかりしているように思える。
駿は崖の縁を避けて、その木の真上に移動した。足元に注意を払いつつ覗き込
んで見ると、駿の体重くらいはなんとか支えられそうな気がする。いま駿が乗っ
ている崖の縁も、先ほどの場所よりはしっかりとしていた。
細心の注意を払いながら、駿は降り始めた。
言いつけを守り、マリアはその場所に立っておとなしく、駿の行動を見つめて
いた。
『ありがとう、もう一人のマリア。美璃佳ちゃんも、良太くんも見つかったよ』
もう応えてくれぬと分かっていたが、心中、子どもたちを探すのに力を貸して
くれたもう一人のマリアに感謝しながら。
駿が良太を助けて来れば、もう終わる。後は四人で仲良くアパートに戻るだけ。
そう思っていた。
ところが。
突然マリアは、爪先から頭へと何か冷たい物が走り抜けて行くような感触を覚
えた。
雪が降っている。寒いのは当たり前なのだろう。しかしマリアにとって、この
くらいの寒さなど、震えるようなものではない。極寒の大地、灼熱の砂漠、そう
言った場所を幾度となく経験したマリアには地球の、日本という地域の寒さなど
苦になるものではなかった。
いまの震えは、気温のせいではない。もっと別のもの。
マリアは言い知れぬ悪寒を感じた。そして。
にわかに胸の中の美璃佳が、軽くなっているのに気がついた。
「美璃佳ちゃん?」
そっと名前を呼んでみる。けれど応えは返らない。
つい二、三分前、兄を呼んだ口は閉じられ、その後次の言葉を綴ってはいない。
激しかった咳も、影を潜めている。
疲れて眠ってしまっただけ。
初めはそう思った。思おうとした。
けれど胸を通して伝わっていた、美璃佳の温もりが次第に遠退いて行く感覚が、
そうではないとマリアに告げる。
「美璃佳ちゃん、起きなよ。ほら………もうすぐ駿が、良太くんを連れて戻って
くるよ」
ぺちぺちと、美璃佳の頬を軽く叩く。けれど反応はない。
「ねえ、美璃佳ちゃん………起きなよ………起きてよ」
今度は強く、美璃佳の身体を揺すってみる。マリアの胸に預けていた美璃佳の
小さな腕がこぼれ落ち、力なく垂れ下がった。
「美璃佳ちゃん………うそ………」
否定したところで、変えようのない現実。
天性の無邪気さを持つマリアではあるが、現実を的確に判断する能力には長け
ている。それは本来マリアに科せられた役目には、不可欠な能力。
その能力は、美璃佳の状態をマリアに伝える。
この個体は、既に生命活動を停止していると。
「うそ……うそだよ。違うもん、間違いだもん。そんなの………絶対に、違うん
だもん」
懸命に否定しても、事実は動かない。その判断能力の的確さは、マリア自身が
良く知っている。
けれど。
たとえ事実であろうと。
判断に間違いないと分かっていても。
認めない、認めたくない。
しかしいくらあらがえど、動かない事実。
「やだよおぅ………美璃佳ちゃん」
既に呼吸の止まった少女の頬を、指でなぞる。
「どうして、みんな消えちゃうの………マリアの前から………」
消える。
何のことだろう。
自分の口から出た言葉を、マリアは理解出来ない。
自らの記憶を、自らが持つことを許されないマリア。
長い旅の中で得た知識で、美璃佳を救えるかも知れないのに。
「お願い、ママ………返して。美璃佳ちゃんを………私の記憶を」
実際に足を乗せてみるまでは不安もあった。しかしその木は、予想以上にしっ
かりと地中に根を張っていて、駿一人の体重ではびくともしない。
さらに下側を調べて見ると、張り出した太い根が良太の横、一メートル足らず
を通っていた。
斜面自体は、思ったほど角度はない。土の状態さえ良ければ歩いてでも良太に
近づくことは可能だろう。ただ激しく降った雨のために、崩れやすくなっている。
けれどこの根を伝って行けば、なんとか良太に近寄れそうだ。
「がんばれ、良太くん。すぐ助けてやるからな」
一言声を掛けて良太を励まし、駿は下り始めた。最近の運動不足が不安材料だ
ったが、もともとは田舎育ちの駿。子どもの頃、野山を駆け回って遊んだ経験が、
こんな時に役立った。意外なほど簡単に、良太に接近する。
「うっ………」
ここで改めて周囲の状況を確認した駿は、良太に聞こえないように息を呑んだ。
気取られて、良太の不安を掻き立てないために。
良太は斜面の途中、仰向けに横たわっていた。身体がその位置で止まっている
のは、右足が倒木の下にもぐり込み、挟まれる格好になっていたため。
そのために身動きがとれなくなっているのだが、これは幸運と言っていい。
良太のすぐ下、倒木より先は今日の雨か、それ以前からなのか土が滑り落ちた
らしく、大きく地面が抉られていた。そしてそこから尖った大岩が幾つも顔を出
している。もし良太が足を挟まれることなく、そこまで滑落していたら無事では
済まなかっただろう。
「良太くん、俺が分かるな?」
駿は手を伸ばし良太の顔の泥を、指で拭ってやりながら訊ねる。
「うん、分かる………駿お兄ちゃん」
「足、抜けそうにないか?」
「うん、だめ。ケガしたみたい………いたくて」
「よし。もうちょっと頑張れよ」
駿はゆっくりと、つかまっていた根から手を離した。足元の土はだいぶ水を吸
っており、いつ崩れても不思議ではない。慎重かつ素早く済まさなければならな
い。
良太が足を捕られている倒木を調べてみた。それほど太くはないが、子どもの
力で動かすのは難しいだろう。もっともその下の状況を知らず、良太が倒木を動
かしていたら大変なことになっていたのだか。
駿が力任せに蹴れば、落とすことも出来そうだがそれは危険が大きい。極力静
かに、良太の足を抜き取る方法を考えるべきだろう。
「んっ?」
挟まれた良太の足元を見て、駿は妙なことに気がついた。