#4319/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/12/24 2: 0 (200)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(49) 悠歩
★内容
これで先ほどの考えは、愛美の早とちりだと分かった。だが他に分からないこ
とが、発生してしった。もしものことがあったら………父はあの時にもう、自分
の病気を知っていたと言うことなのか。
「でね、その金庫を開けに行って来たの。この封筒は、金庫に入っていたものよ。
お義兄さんが、愛美ちゃんに宛てた手紙ね」
すうっ、と叔母さんの手が動き、畳の上を滑るようにして封筒が愛美へと差し
出された。封筒の表には、黒いボールペンで『愛美へ』と書かれていた。見覚え
のある、父の筆跡で。
愛美は叔母さんの顔を見つめた。
「読んでご覧んなさい」
優しく微笑み、叔母さんは頷く。
父は愛美に、何を書き残したと言うのだろう。知ることが恐かった。もし、愛
美に対する不満が書き連ねてあったとしたら………立ち直れなくなりそうだった。
震える手で、封筒の中から綺麗に三つ折りにされた便せんを出して広げる。声
を出さず、愛美は目で手紙を読み始めた。
『愛しい娘、愛美へ。
この手紙がお前の手元に届いているかは分からない。
この手紙を、お前に見せるかどうかは雪乃さんへと一任している。これからお
前を世話してくれるだろう雪乃さんが、見せるべきでないと判断すれば仕方ない。
客観的に考えれば、私も見せるべきでないと思うだろう。その方が、お前の心が
傷つかないで済む。
私はお前の心に、要らぬ傷になるかも知れない事を書こうとしているのだ。
これをお前が読んでしまえば、いままで私がお前に嫌われようとしていた事が
無意味になる。我ながら、馬鹿な事をしようとしている。
だが書かずにはいられないのだ。雪乃さんの判断がどうなるかは考えず、続け
て行こう。
お前にこうして手紙を書くのは、初めての事だったと思う。どうにも不馴れで、
何をどう書いていいのか分からない。はっきり言って、テレくさいのだ。
しかしいまさら言葉で伝えるのも、どうもバツが悪くて、手紙以外に手段はな
さそうだ。
これをお前が読んでいる時には、私はもうこの世にいないはずだ。
こう書くと、自分でもなんともおかしな気分だ。まるでテレビドラマの登場人
物にでもなったみたいだな。
きっと私は、死ぬ間際まで、お前に憎まれ口を叩いていただろう。そうすると、
決めていたから。
自分の病気が何であるのか。おおよそ分かっている。
吐血の回数、頻繁に起きる痛みから、私の命もそう長い物ではないと思われる。
死ぬことが恐くないと言えば嘘になる。しかし自分がこれまでにしてきた事を思
えば、これも報いあきらめるしかない。
ただ心配なのは、愛美、お前のことだ。
母さんが死んだとき、私は生きる希望を失ってしまったような気がした。全て
の事が、もうどうでもいいように思えた。
今にして思えば、私はつくづく馬鹿だった。
愛美がそばに居てくれたのに。
きっと愛美よ、お前の方が辛かっただろうに。父親である私が、残された幼い
娘を守ってやらなければならなかったのに。
私は甘えてしまった。父親が、娘にだ。
酒に溺れ、仕事を辞めてしまったろくでなしに、お前は良くつくしてくれた。
心配した雪乃さんが、何度も訪ねて来てくれたな。雪乃さんはずいぶんと私の
事を責めたものだ。その度、愛美が私を庇ってくれた。
あれから今日まで、きっと私が死ぬ直前まで、お前は私に良くしてくれるのだ
ろう。
今更私が言えた事ではないが、お前のことは雪乃さんに頼んでおく。雪乃さん
になら、安心してお前を任せられるだろう。
本当なら、もっと早くにお前を雪乃さんの所に預ければ良かったのだ。
愛美は母さんに良く似ている。面影はもちろん、その優しい心根までも。いつ
か愛想を尽かし、私のもとを去って行くだろう。いつまでも私と暮らすより、そ
れがお前のためには一番いいのだ。そう思っていた。
けれど、私がどんなに辛くあたっても、お前は出て行くどころか、本当に良く
つくしてくれた。だからまた、私は甘えてしまう。
誤解しないで欲しい。
私は決して、お前に出て行って欲しいと願っていた訳ではない。それどころか、
いつお前が私一人を残し、家を出てしまうのかと毎日のように恐がっていたのだ。
聞いて欲しい。
今更こんな事を言っても、言い訳としか思えないだろう。また、結局出来もし
なかった事を偉そうに、お前に言えるような父親ではない。クズなら最期までク
ズであったと、お前に思われたまま逝くべきなのだろう。心優しいお前に、こん
な事を伝えればきっと悲しんでしまう。それが分かっていながら、私は伝えよう
としている。私がこの世を去った後も、お前にろくでなしの父親であったと一生
思われ続ける事が恐い。私は憶病者なのだ。
確かに母さんが死んでしばらく、かなり長い間だったが、私は何もする気にな
れず、自堕落的な生活を続けていた。だが飽くまでも献身的なお前のおかげで、
立ち直らなければならないと考える様になった。信じて欲しい。私は、お前のた
めに立ち直りたいと思ったのだ。
その時だ、自分の身体に異変を感じたのは。
お前も知っての通り、母さんの死後、酒に溺れた私は身体を悪くしてしまった。
戸田先生からも、これ以上酒を続ければ命の保証はしかねると言われていたのに。
その後も飲み続けてしまった。
立ち直りを決心したのが、余りにも遅すぎたようだ。しかしまだ、医者に懸か
れば、入院すれば治るかも知れない。そうも思った。
私とて死ぬ事は恐い。だからこそも母さんが逝ってしまった時も、その後を追
おうとはせず、ただ現実から逃げ出そうとしたのだ。
だが医者に行くにも、もう金などない。散々好き勝手な事を続け、貯金も使い
果たし、マンションからアパートへと移り住まなければならない状態になってい
た。
もしお前が私の病気を知れば、どんな事をしてでも病院に入れようとするだろ
う。しかしそれでなくともお前は無理をし過ぎていた。朝と夜とのアルバイト。
しかも口には出さなかったが、そのせいで成績が下がり世間の人に父親のせいだ
と言われぬようにと、睡眠時間を削って勉強もしていた。
そんな娘に己の命惜しさに、これ以上負担を掛けるような真似は父親として、
いや人間として出来ない。
信用を失ってしまった私に、金を借りるあてなどもない。もし借りれたとして
も、病気が長引けば、治ることなく死んでしまったら、結局はお前にそのツケを
まわす事になる。
事情を話せば、雪乃さんならなんとかしてくれただろう。だが雪乃さんは、私
に何かあった時、お前の事を頼める唯一の人。その時のため、私の事での借金な
どしたくない。
きっとお前に辛い想いを続けさせた報いが来たのかも知れない。お前だけでは
ない。私は数え切れないほど、人様に迷惑を掛けていた。その報いなのだ。
それに、どうせ死んでしまうなら借金をしても無駄になってしまう。どこから
借りるにしろ、他に身内が無い以上、私が死ねばやがてそれがお前へと廻ってし
まうだろう。
死んでまで、お前に負担を掛けてしまったら、それこそ私は父親として最低だ。
私は考えた。
残された時間で、私に出来る事は無いのかと。
病院に入り、沢山の治療費を使って少しばかりの延命をするのではなく、これ
まで迷惑ばかりを掛けてきたお前に、何かしてやれる事はないのかと。
私は馬鹿な父親だ。何も無い、何もしてやれない。
せめて幾らかの金を残したいと思っても、長く酒に溺れていた親父に出来る仕
事はそうそう有りはしなかった。それでも少しずつ、残した金をこの手紙と一緒
に金庫に預けておいた。高校に入るとき役立てろと言えるほどの金額ではないが、
何かお前の好きな物を買うといい。
街で見掛けた、愛美と同じ年頃の女の子が綺麗な服を着て、楽しそうにしてい
るのを見て、それと比べてお前がどんなに我慢ばかりしていたのか。本当にすま
ない。
それから、私はお前に徹底的に嫌われる事にした。
お前が心から私を嫌う様になれば、私の死を待たずして愛想を尽かし、雪乃さ
んの所に行くかも知れない。雪乃さんなら、お前に普通の女の子の暮らしをさせ
てくれるはずだ。
お前が心底私を憎む様になれば、私の死を悲しまずに済むかも知れない。厄介
者が居なくなったと、胸を撫で下ろすかも知れない。
それから私は、前にも増して、お前に辛くあたった。
これは痛みで顔が歪むのを、お前に気づかせないようにするのにも役だった。
小遣い程度の金しか残せない、駄目な父親が精一杯考えた結果だ。
そして分かった。お前は、私が考えていたよりも、遥かに優しい子だと。
私がどんなに酷い事をしても、お前は私を見捨てようとはしなかった。それど
ころか、自分が悪いのだと言って私につくしてくれる。
お前ならきっと、私が死んでも泣いてくれるに違いない。もうだいぶ前から、
それに気がついたのだが、もう今更優しい父親になる事も出来なかった。
最期の最期まで、お前には本当に悪かったと思っている。
この間の三万円、すまなかった。
外すつもりで投げた湯呑みだったが、怪我はしなかっただろうか。
幾ら詫びの言葉を連ねても足りない。
これからは、どうか幸せになっておくれ。
何も出来なかった父さんだが、天国からお前を見守らせて欲しい。
本当に、本当に愛しているよ、愛美。
これだけは自信を持って言える。
さよなら。
愛しい我が娘、愛美。
愛している
愛している
愛している
出来る事なら最期にもう一度、幼かった頃の様にお前を抱きしめてやりたい』
この手紙を書いたときには、父の身体は相当悪かったのだろう。痛みを堪えな
がら書いた証に、手紙全文に渡って文字が震えている。
『今日まで、よく我慢できたものだ。かなり辛かったはずだよ』
戸田医師の言葉を思い出す。いろいろなことが一遍に起きたため、愛美は考え
られないでいたが、突然倒れた訳ではない。かなり前から自覚症状があったのだ。
手紙の文字が良く見えないのは、それが震えて読み辛かったためだけでない。
目に浮かんだ涙が、愛美の視界を曇らせていたせいだ。
『あ、い……し、て、い、た………よ』
愛してした。
父が最期に残した言葉が、いまようやく理解出来た。
「お父さんは………馬鹿じゃない………馬鹿なのは、私………」
もう消えてしまったと思っていた悲しみが、甦る。激しい後悔の念と共に。
父はこんなにも自分のことを思ってくれていたのに、それに気づかなかった。
もしもっと早くに、父の心に気づいていれば。
もっともっと、父との思い出を残せたかも知れない。
父の最期を、もっと穏やかな気持ちにさせてやれたかも知れない。
いや、愛美がもっと強引に通院を止めてしまった父を病院に行かせていたら、
命さえ失わずに済んだかも知れない。
「私が………私が、もっとしっかりしていれば………」
愛美は強く爪を噛む。
「愛美ちゃん、あなたが自分を責めることはないのよ。私もすっかり忘れてしま
ってたわ………お義兄さんの性格。あの人、凄い照れ屋で。本当の気持ちを素直
に出せない人だった」
そう言って、叔母さんは愛美に銀行の通帳を手渡した。涙に霞んだ視界では、
はっきりと見て取れないが、表紙には『西崎愛美』と記入されているようだ。
「手紙と一緒に、金庫に入っていたものよ。八十万ほどあるんだけれど………と
にかく開けてみて。だけど、その前に涙をお拭きなさい」
愛美の手には、通帳と一緒に叔母さんのハンカチが握らされていた。言われた
通り、涙を拭くためにハンカチを顔に寄せると、叔母さんの香りがした。
涙を拭った愛美は、素早く通帳を開いた。すぐに湧き出る次の涙で、再び視界
が塞がれる前に。
通帳の最後に記された金額は、六桁の数字で示されていた。最初の二桁は
「82」、叔母さんの言うように、八十万円と少し。
「分かるかしら、その毎回の入金額のところ」
言われるまま、愛美は入金額を一つずつ見ていく。そして気がついた。
それぞれの入金額は決して多くない。千円、二千円、多いときでも一万円を越
しているのはわずかだった。しかし通帳が作られた日付から、ほとんど銀行の営
業日には休みなく入金が続けられている。時折ある大きな金額、最近では三万円
が最高額だった。父は家から持ち出したお金を、遊びに使っていたのではなかっ
た。
そして、ほぼ全ての入金が一円の位まで、数字を刻んでいたのだ。
「これって、もしかして………」
「ええ。たぶんお義兄さんは、その時に持っていたお金を全部、一円でも多く残
そうとしたのね」
通帳を見ていられた時間は、思っていたより短かった。溢れてきた涙が、通帳
に染みを作る。
「お義兄さんね、私にも手紙を残していたわ。愛美ちゃんのことを頼むって、何
度も何度も書いてあった。本当に愛美ちゃんのことを、愛していたのね。
そのお金もね、工事現場での交通整理や、ガードマンなんかの日雇いの仕事を
して稼いだらしいわ。やましいお金じゃないから、安心してくれって」