AWC 『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(48)  悠歩


        
#4318/5495 長編
★タイトル (RAD     )  97/12/24   1:59  (199)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(48)  悠歩
★内容
 まだ雨は止まない。
 この雨の中を濡れながら戻るのは、美璃佳の身体には良くない。そう思った良
太だが、一方では次第に迫ってくる夜が気持ちを急かす。気温も下がっていくば
かりで、ここにじっとしていることも、危険であるよう思えた。
 少しでも早く、山を下りたほうがいい。
 そう決心した良太は、ジャンパーを美璃佳の頭から被せてやる。
「ほら、美璃佳。お兄ちゃんがおんぶしてやるから」
 妹に背中を向けて、良太は屈んだ。
「へいき。みりか、じぶんであるけるよ」
 そう言って立ち上がった美璃佳だが、足許がふらついている。
「いいから、お兄ちゃんの言うことをきけ」
「………うん」
 妹を背負い、良太は雨の中を歩き出す。
 ジャンパーを脱いだことで、雨は直に良太の服に吸い込まれてしまう。服から
しみた冷たい雨水は、良太の体温を容赦なく奪う。
 けれど良太は寒いと感じなかった。
 気持ちが張っていたせいもある。しかしそれよりも、背中の美璃佳が熱かった
から。でもそれは、美璃佳の容態の悪さを示すものである。さっきのように、転
ぶわけには行かない。良太は濡れて滑りやすくなった足元に注意しながらも、急
いで歩を進める。
「おにいちゃん………」
 頭からジャンパーを被っているため、美璃佳の声はくぐもって聞こえた。
「どうした? あんまり、しゃべらないほうが、いいぞ」
「じゅんちゃん、いない」
「えっ?」
 言われて初めて気がつく。
 最初に美璃佳を背負った時には、確かに持っていたはずの人形が、いまはない。
木の下の駆け込んだ時にはもう手にしていた覚えはないので、転んだ拍子にどこ
かへ落としてしまったのだろう。
 高いお金を出して、それを美璃佳に買ってくれた駿には悪いが、良太は落とし
てしまった人形を探すつもりはなかった。
 何より美璃佳のことが心配だった良太は、そのまま山道を下って行こうとした。
「おにいちゃん、じゅんちゃんをさがしてあげようよ」
 良太の考えを察知したかのように、美璃佳が訴える。
「人形をさがしていたら、よるになっちゃう。いそがないと、でんしゃもなくな
っちゃうよ………人形はあきらめよう。駿お兄ちゃんには、ぼくがあやまるから」
 その良太の言葉に、美璃佳は応えなかった。その代わり、良太の背中が急に軽
くなる。美璃佳が降りてしまったのだ。
「美璃佳!」
 下って来たばかりの道を、よたよたと逆走していく美璃佳の肩を、つかんで止
める。
「じゅんちゃん、ないてるよ。さみしいよぉ、つめたいよぉ、って」
 泣いているのは人形ではなく、振り返った美璃佳の方だ。
「みり……」
「じゅんちゃんも、いっしょにかえるの。みりかと、おにいちゃんと、しゅんお
にいちゃんと、マリアおねえちゃんと、じゅんちゃんと………」
 美璃佳は小さな手で握り拳をつくり、名前を一つ言う度にもう片方の手で、指
をめくるようにして伸ばす。そして五本の指を立てて、ジャンケンのパアの形に
なった手を良太に見せた。
「ごにんで、みんなで、なかよくするの」
 それから美璃佳は、良太の手を振り解いて、人形を探しに行こうとする。
 サンタクロースからのプレゼントだと、信じ込んでいるせいもあろう。美璃佳
にとってあの人形は、単なるオモチャではないのだろう。美璃佳には兄である良
太の他に、一緒に遊ぶ友だちがいない。あの人形は、美璃佳にとっての初めての
友だち、もしかすると妹のようなものなのかも知れない。もしそう思っているの
だとしたら、いくら良太が力づくで引っ張っても、美璃佳は従わないだろう。
 大人たちの元から逃げ出そうと家出をしたのも、やはり無理だと引き返すこと
を決めたのも、全て良太の勝手だった。美璃佳はただ、良太に言われるままここ
まで着いてきただけ。無計画な良太の考えに、振り回されていただけなのだ。
 美璃佳の身体のことは心配でたまらない。でも、だからと言って美璃佳が何よ
りも大切にしている人形を諦めさせる権利は、良太にはないのではないか。
「お兄ちゃんもさがすよ」
 良太が言うと、美璃佳は何かを応える代わりに、嬉しそうに抱きついてきた。



 誰も来はしない。
 そう思っていた愛美にしてみれば、今夜の弔問客は予想以上のものだった。
 最初にやって来たのは、同じアパートの一階に住む北原夫妻だった。
 おばあさんは、愛美と雪乃叔母さんの食事の支度までしてくれた。
 そしておじいさんは白木の棺桶の前に作られた、即席の仏壇に線香を立てると、
いつまでも手を合わせていた。
「富子」
 ようやく振り返ったおじいさんは、愛美を呼ぶ。
「はい」
 応える愛美の手を取り、じっと顔を見つめるおじいさんの目には、涙が溢れて
いた。
「すまない、富子。すまない………」
 何度も繰り返し頭を下げるおじいさんに、愛美はどう応えていいか分からなか
った。
「おじいさん、泣かないで」
 おじいさんの謝っている理由の分からない愛美は、優しくそう語りかけるのが
精一杯だった。
「ほらほら、おじいさん。いいかげんにしないと、西崎さん………富子も困って
いますよ」
 見かねたおばあさんが、おじいさんを立たせようとする。
「さあ、私たちはそろそろお暇(いとま)しましょう。西崎さん、私は部屋にい
ますから、何かあったら言って下さいね」
「はい、ありがとうございます」
 部屋を出る間際、おじいさんは振り返り、再び愛美へと声を掛けた。
「富子………逝くなよ………悲しくても、光太郎の後を追ったりしないでおくれ」
「ええ、だいじょうぶよ」
 愛美は笑顔で応えた。
 おじいさんの過去に何があったかは知らない。でも富子という人は、たぶんお
じいさんの娘か孫だろう。その人は、光太郎という人の後を追って死んだのだろ
うか。
「富子、お前は幸せか? いまは幸せでなくとも、いつかきっと幸せになれるな?
 いや、幸せになれる………なっておくれ。だから、だからいまは………」
「ほら、おじいさん。今夜は早めに、休みましょうね」
 おばあさんに連れられ、部屋を出ていくおじいさんに、愛美は後ろから応えた。
「うん、富子は幸せになるよ」
 おじいさんがどんな表情で、それを聞いたかは分からない。けれどドアを閉め
る寸前に見えたおばあさんは、微かに微笑んでいた。
『幸せになる、か』
 愛美には『幸せ』という言葉が、自分には縁遠いものに思えた。遠い昔、幼い
頃は父と母に守られ、幸せだった。しかし母が逝ってしまい、父も逝ってしまっ
た。これから先、自分が幸せと感じる日が来るとは、とても愛美には考えられな
い。
 それからしばらくして、相羽と純子が訪ねてきた。二人とも、肩を濡らしてい
た。愛美は気がつかなかったが、外では激しく雨が降り始めていたのだ。
 コートを脱いだ二人は、愛美の手渡したタオルで身体を拭いた後、部屋に上が
った。父に線香をあげてくれてから、何か手伝いたいと言ってきた。
 しかしもともと弔問客が来てくれることを予想していなかったため、特に何の
用意もしていない。人手がいることは、何もなかった。
「今日はありがとう。でも、手伝ってもらえることはないの………」
「そう………あの、藤井さんから連絡はあった?」
 いまのところ、駿の部屋で電話の鳴った気配はない。もっとも愛美は雨が降っ
たことも気づかないでいたのだから、電話の音も聞こえなかったのかも知れない。
実際、外では雨音が激しく、駿の部屋の電話が鳴ったとしてもここでは聞こえそ
うにない。
 叔母さんに父のことを頼み、愛美たちは駿の部屋に行ってみた。
 慌てて出掛けたためか、不用心にも鍵が掛かっていない。後で愛美から謝って
おくと言うことで、相羽と純子は駿の部屋で電話を待つことにした。
 それから、愛美の部屋には何組かの弔問客が訪れた。
 愛美の学校の担任、学年主任、クラス代表、小学校時代の友人が数人、それか
ら『満天』の女将。みんな何かの本に書いてあったような言葉を述べると、早々
に退き上げて行った。
 さすがに女将が来た時は、気まずい思いがした。しかし女将は、愛美があの日
の会話を聞いてしまったことなど、知る訳もない。そこで愛美は叔母さんと共に
女将に挨拶をして、アルバイトを辞める旨を正式に伝えた。あの会話を聞いた愛
美には、とても本心とは思えなかったが、女将は残念そうにしていた。
 その後弔問客が途絶え、再び愛美は駿の部屋に行ってみたが、まだ連絡は来て
いなかった。
 そこで愛美は純子の電話番号を聞き、駿から連絡があり次第、電話を入れる約
束をして二人を帰した。
 相羽の番号なら知っていたが、もう彼には電話を掛けてはいけないような気が
したのだ。相羽には純子から電話してもらえばいい。
「あっ、愛美ちゃん。お茶、飲むでしょう?」
 来客もなくなった部屋では、雪乃叔母さんがお茶を煎れていた。祭壇の線香か
らは白い煙が立ち昇り、室内はその香りに充たされている。
 時刻は午後七時を過ぎているが、明日の朝まではまだ長い。父に供えた線香の
火を、朝まで絶やしてはいけない、と叔母さんが教えてくれた。母の時も、そう
したのだろうか。まだ幼かった愛美は、憶えていなかった。
 熱いお茶を、一口啜る。
 愛美の口からつい、ため息が漏れてしまった。
 怪訝そうな目で、叔母さんがちらりとこちらを見た。
 正直なところ、愛美はこの時間が退屈で仕方なかった。わずかながら弔問客が
訪れている間は多少気が紛れたが、それもなくなったいま形式を守り、父のそば
にいなければならないことが苦痛だった。
 あんなに悲しんだ父の死。一夜明けただけで、人の気持ちはこうも変わるもの
なのか。愛美は自分のことながら、驚いている。
 しかし外から帰り、棺桶に収められた父を見ても、何の感慨も湧かなかったの
は事実。愛美には、父を無事に送ることより、いまだ入らない駿からの連絡の方
が気に懸かっていた。駿は良太たちを保護することが、出来たのだろうか。それ
ともこの雨の中、良太と美璃佳は肩を寄せあって、震えているのではないだろう
か。
 そのことの方が、いまは遥かに気になっている。
「愛美ちゃん」
 ぼんやりと台所の磨りガラス越しに外を眺めていた愛美に、改まった感じで叔
母さんの声が掛けられた。
「はい?」
「憶えてる? 叔母さんが夜になったら、大事な話をしたいって言ったのを」
「ええ、憶えています」
 話の内容について、愛美にはおおよその見当はついていた。愛美のこれからに
ついてであろう。
 先日、叔母さんが愛美を自分の子にしたいと、父に申し出た時には愛美自身が
その話を断った。父と一緒に暮らしたい、それが理由だった。
 しかし父が逝ってしまったいま、断る理由は何もない。経済的なことだけを言
えば、愛美一人になってしまった分、楽になる。いままでは父と二人の生活費を、
ほぼ愛美のアルバイトの給料で支えていたのだ。『満天』は辞めてしまったが、
新しいアルバイトさえみつかれば、中学校を卒業するまで一人でやっていける自
信はある。
 ただし今日まで愛美が寝る時間をも削り、アルバイトや家のことを続けてこれ
たのは、父と一緒に暮らしていたい。父を支えてやりたい。その気持ちがあれば
こそだった。
 たった一人、生きていけるほど自分は強くないだろう。愛美は思った。
 叔母さんの言葉に甘えるのが、たぶん、一番いいことなのだろう。いや、本当
なら愛美の方から叔母さんに頭を下げてお願いしなければいけないのかも知れな
い。
 叔母さんの世話になるのなら、学校も変わることになる。もしまだ相羽に自分
の想いを伝える前だったら、多少は未練も残っただろう。けれど一方的な想いは、
もう終わってしまった。他に親しい友だちがいる訳でもない。もう少し時間があ
れば、純子とは親しくなれたかも知れないが。
「叔母さんね、愛美ちゃんが出掛けている間、お義兄さんのことを北原さんにお
願いして、銀行に行ってきたのよ」
 叔母さんは自分のハンドバッグを引き寄せ、中から一枚の白い封筒を取り出し
た。
「この前私、ここに来てお義兄さんとお話をしたでしょ。あの後、お義兄さんか
ら手紙が来たのよ」
「えっ?」
 それは愛美にとって、全くの初耳だった。
 一体、父はどんな用事があって、叔母さんに手紙を出したと言うのだろう。ま
さかお金の無心をしていたのでは? それともやはり叔母さんの用意していた通
帳が欲しくて、愛美を養子にやる約束をしようとしたのか。
 愛美の不安を読みとったのだろう。その愛美の考えを否定するかのように、叔
母さんは話を続けた。
「手紙には鍵が入っていたの。銀行の、貸金庫の鍵だったわ。そして手紙には番
号と一緒に、こう書いたあったわ。『自分にもしものことがあったら、雪乃さん
がこの金庫を開けてくれ』って」




前のメッセージ 次のメッセージ 
「長編」一覧 悠歩の作品 悠歩のホームページ
修正・削除する         


オプション検索 利用者登録 アドレス・ハンドル変更
TOP PAGE