AWC 『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(27)  悠歩


        
#4297/5495 長編
★タイトル (RAD     )  97/12/24   1:38  (200)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(27)  悠歩
★内容
 痴呆症の老人に話を合わせてやるのもいいが、無責任な発言はかえって相手を
傷つけかねない。もちろんマリアには悪気などないのだろうが、無邪気過ぎるの
も時には考えものだ。と、駿は思ったのだ。
「でもね、富子ちゃんは泣いてなんかなかったよ。でもね、心配しているみたい」
「心配してるみたい………」
 おじいさんは、マリアの言葉をオウム返しに繰り返す。
「うん、マリアには見えるの。だって、富子ちゃんはお父さんのこと、大好きだ
ったんでしょ? そのお父さんがね、いつまでも富子ちゃんのことで悲しい想い
をしていることが、心配でしかたないんだって」
 マリアがそう言い終えるなり、おじいさんは大粒の涙を流し、泣き出してしま
った。
「おじいさん?」
 心配そうにお婆さんは、おじいさんの背中に手を添える。
「すみません、おじいさん。おばあさん。マリアは別に悪気がある訳じゃないん
です」
 そう言って駿は頭を下げる。そしてマリアの頭に手を掛けて、謝るようにと促
した。が………
「そうか………富子がわしを気にしてくれていたか………」
 おじいさんは、マリアの手を強く握りしめた。
「ありがとう、お嬢さん。そうか、富子が………やはり富子はいい子だな………
光太郎とは上手くやっているか?」
「うん、仲良くしてる」
 マリアは笑顔で答える。
 それを聞いたおじいさんは、嬉しそうだった。その隣では、おしばあさんも満
足げに頷いている。
 駿にはよく分からなかったが、マリアの言葉は老夫婦を傷つけたのではなさそ
うだ。どうやら駿よりも、マリアの方がよほどこの夫婦のことを理解しているら
しい。



 少し風が出てきた。
 それまで停滞していた冷たい空気が、針となって服から露出した部分、顔や手
に刺さっていく。
 愛美は、居酒屋『満天』の前に来ていた。
 どうやって話を切り出そう。
 普段愛美に良くしてくれる女将が相手とは言え、やはり借金の相談をすること
には躊躇いがあった。
 恐る恐る、店の引き戸に手を伸ばす。が、その手がふと止まった。中から話し
声が聞こえる。客がいるようだ。
「そっか、まだ営業時間だったもんね………」
 愛美はしばらく、その場で考え込んだ。客のいる前で、借金の話もしにくい。
女将の方でも迷惑だろう。第一アルバイトを休んでおいて、営業時間内に「お金
を貸してくれ」と言いに来るのは、あまりにも厚かましいことだ。
 営業時間が終わるのを待って出直そう。そう思って、愛美は立ち去ろうとした。
「へえ、アイちゃんのお父さんがねぇ」
 店での自分の呼び名を耳にして、愛美は足を止めた。その声は『満天』の馴染
み客で、女将とごく親しい男性のものだ。どうやら店にはいま、客は一人しかい
ない。
「でもアイちゃんに休まれたんじゃ、女将も大変だな」
「そうでもないのよ。このところお客さんの入りもよくないしね。満席になった
ところで、うちくらいの店なら、私一人で充分だもの」
「おいおい、それじゃあまるで、アイちゃんがいなくてもいいみたいじゃないか」
「そりゃそうよ」
 豪快な女将の笑い声が響いた。
『私がいなくてもいい………』
 確かに『満天』は小さな店だ。愛美が働くようになるまでは、ずっと女将が一
人で切り盛りをしていた。けれど雇ってもらってからは、愛美も一生懸命にやっ
てきたつもりだった。
 いや、客の手前、女将も強がって見せているのだろう。そう思った。
「あんたも知ってるでしょ? アイちゃんの親父さんのこと。奥さん、私の知り
合いだったんだけどね。それが死んでから、まともに働きもしないで、酒ばかり
喰らってさ。あら、飲み屋の女将が呑んべの悪口を言うのもおかしいわね」
「まあな。その呑んべのおかげで、女将は飯が食えるんだからな」
 今度は二人で声を合わせて笑う。店に他の客はなく、二人の笑い声は静かな冬
の路地に立つ愛美にもよく聞こえた。
「とにかく、とんでもないろくでなしだね、あの男は。アイちゃんの稼ぎだって、
ほとんど酒代にしちまってるらしいよ。あの子が私んとこに仕事の相談に来た時
もさあ、惨めだったよ。まるで物乞いみたいな目をしてて。それがあんまりにも
哀れだったんでね、うちで雇ってやることにしたのさ」
「ふうん、慈善家だったんだな。女将は」
「そうさ。でもそれも、もう終わりだと思うけどね」
「そりゃあまた、どうしてだい?」
「私の勘だけどね。長くないよ、あの子の親父さん。四六時中酒を喰らってたん
だ、たぶん胃腸か肝臓をやられたんだろうよ」
「ととと、俺ら酒飲みには恐い話だねぇ」
「こっちは商売が上がっちまうんで、酒を止めろなんて言わないけどね。ま、と
にかくあの子の親父さん、もしかして正月までも保たないんじゃないかって、私
は睨んでるんだよ。そうしたらあの子も親戚に引き取られるか、施設にはいるの
かになるだろう? 私の慈善事業もおしまい、って訳だよ」
「けどよ、いつおっ死んじまうか知らねえけど、入院費が掛かるだろ。もしかす
ると手術すれば助かるかも知れないし。それにしたって金が掛かる。アイちゃん
のところじゃ、とてもそんな金は、ありゃあしないだろう。もし、女将に貸して
くれ、なんて言ってきたらどうするんだい?」
「よしとくれよ」
 女将の返答には、商売用の愛想はなかった。
「うちだって繁盛してる訳じゃないんだ。あの子を雇ってやっただけでも、死ぬ
ほど感謝して欲しいもんだよ。これ以上、人に甘えようなんて厚かましい考えは、
持たないでもらいたいね。だいたい私には、あんなろくでなしの生き死になんて、
どうでもいいんだからさ」

 惨めだったよ。まるで物乞いみたいな目をしてて。
 長くないよ、あの子の親父さん。
 あんなろくでなしの生き死になんて、どうでもいいんだからさ。

 女将の言葉が頭の中で繰り返される。
 愛美はいま、自分がどこを歩いているのか分かってはいなかった。病院に行こ
うとしているのか、アパートに戻ろうとしているのか。どのみち、その二つのう
ちのどちらかしかないのだが。
 笑い声が聞こえたような気がして、後ろを振り向く。しかし誰もいない。
 再び歩き出すと、また笑い声が聞こえる。
 それも一人の声ではない。幾つもの笑い声が重なり合い、滝となって愛美の頭
に降り注ぐ。
 誰も彼もが笑っている。
 愛美を、愛美たち親子を指さして。
 いない。
 誰もいない。
 愛美を、愛美たち親子を本気で心配してくれる人など。
 もう誰も信じられない。何も分からない。
 分かっていたのは、もう二度と『満天』に行くことはない。女将とは会わない
だろうということだけ。
 もう愛美には、父しかいない。



「こうして一緒に呑むのは、初めてだな」
「はい、おじさん」
「おい、まだ俺を『おじさん』と呼ぶのか?」
「え、あ………すいません、いままでの癖でつい。お義父(とう)さん」
「うん、それでいい」
 お義父さんと呼ばれ、男は満足した。これで相手の若い男、光太郎が初めて自
分の息子になるのだと実感出来る。
 仲居が来て卓の上にお銚子を二本、置いていく。
「さあ、今夜は女ども抜きで、徹底的に飲み明かそう。お前たちが新居を構えた
後からは、そうそうこんな機会はないからな」
 男はお銚子を手に、光太郎へ酌をしようとした。が、それを制して光太郎が先
に、男へと酌をしてくれた。
「そんな。いつだって遊びに来て下さって結構ですよ。諸手を挙げて歓迎します
から」
 闊達そうな笑顔を見せて、光太郎が言った。
「光太郎坊がよくても、そう頻繁に花嫁の親父が訪ねて行ったら、富子が嫌がる
だろう」 男と光太郎の盃が交わる。
「お義父さんの方こそ、いつまでも『光太郎坊』は止めて下さいよ」
「おおっと、すまんすまん。いままでの癖でな」
 二人は声を合わせて笑った。
「しかし妙な気分だな。こんな小さな頃から、富子と実の兄妹のようにしていた
光太郎が………富子の亭主となるのだからな」
 一気に酒を呷り、男は五つくらいの時の光太郎の身長に、手をかざす。卓に置
かれた盃には、その光太郎の手によって新たな酒が注がれた。
「何も変わりませんよ、お義父さん。ぼくと富子さんは兄妹から夫婦にと、ちょ
っとだけ関係が変わるだけです」
 光太郎が富子を「さん」づけで呼ぶのを聞くのは、嫁にくれと言ってきた時以
来、二度目だったか。
「充分過ぎる変化だよ」
 男は笑う。嬉しさと寂しさの混じった、複雑な気持ちで。
 男と光太郎の父親は、親友だった。同じ学舎(まなびや)で同じ時を過ごし、
夜明けまで理想を語り合ったこともなる。同じ女を好きになったこともあった。
 二人はほぼ同じ頃に結婚をし、一年違いで父親となった。親友は光太郎と言う
男の子の、一年遅れて男は富子と言う女の子の父親に。
 富子が生まれたとき、親友もずいぶんと喜んでくれたものだ。
「将来、うちの光太郎と、お前の富子ちゃんが結婚すれば、俺たちは親戚同士だ
な」
 正式に許嫁の約束を交わした訳ではなかったが、そんなことをよく言い合った
ものだ。
 それが光太郎がどうにか一人前に歩けるようになった頃、その母親が病のため
この世を去った。気落ちしたのか、親友も妻と同じ病に倒れ、三月と保たず逝っ
てしまった。
 それから年老いた祖母と二人暮らしとなった光太郎を、男は実の父のようにし
て面倒を見てきた。それに応えるかのように、光太郎は良い若者となり、いまで
は男の仕事をその片腕となり助けてくれている。
 そしてつい四日前、富子を嫁にくれと言ってきた。
 光太郎は実の兄妹のようにしてきた富子を、いつから女性として見るようにな
っていたのか。
 富子はいつから、光太郎を一人の男性として見ていたのか。
 男は全く気づかなかった。
 ただ深く頭を下げている光太郎を見る富子の目が、全てを語るようだった。
 断る理由などない。
「将来、うちの光太郎と、お前の富子が結婚すれば、俺たちは親戚同士だな」
 親友の言葉を思い出す。
 仲居が新しいお銚子を置いていく。これで三度目だったか。よく覚えていない。
「来年の今頃は、孫の顔が見れるかな………」
 気持ちよく酒が身体に廻り瞼が重くなって来る中、男は呟いた。最後に見た光
太郎の顔が赤かったのは、酔いのためか。それとも………

 男が孫の顔を見ることはなかった。
 それどころか、富子の花嫁姿さえ見ることもなかった。
「こう……たろう、さん」
 嗚咽混じりの富子の声。
 卸したての布団に眠る光太郎。富子の呼びかけにも応えない。永遠に。
 油断だった。
 富子と光太郎の婚礼を、明後日に控えたその日の朝。
 いつもと同じ時間に目覚め、いつもと同じように光太郎を自分の車に乗せ、会
社に向かった。
 だが一つだけ、いつもと違うことがあった。男は酒を呑んでいたのだ。
 目覚めたとき、酷い頭痛がした。酒に強い男には珍しいことだったが、前の晩、
光太郎としこたま呑んだものが残っていたらしい。
 自分が社長を務める会社とはいえ、遅刻欠勤をしたことのないのが男の自慢で
あった。まして富子の婚礼の日を休業とするために、こなすべき仕事が残ってい
る。
 二日酔いを治めるために、あろうことか男は迎え酒という手段を執ったのだ。
 コップ一杯の酒、その程度で酔うことなどない。男には自身があった。いまと
なっては油断である。
 もしかすると、男にいつもとは違う様子が出ていたのかも知れない。あるいは
光太郎に、何か不吉な予感があったのかも知れない。運転を代わると、その日は
珍しく光太郎が男に言ってきたのだ。
 男はそれを拒んだ。家から会社までは、自分で車を運転してして行くのが習慣
になっていて、それを人と代わったことなど一度もない。また自分の車を、人に
運転させることを男は嫌っていた。それは光太郎もよく知っていたはずだ。
 会社までは、十分足らずの道のり。通い馴れた道で、途中の電柱の数からすれ
違う車の数まで、熟知しているつもりだった。




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