AWC 『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(28)  悠歩


        
#4298/5495 長編
★タイトル (RAD     )  97/12/24   1:39  (191)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(28)  悠歩
★内容
 事故など、起こりようはずがない。
 ところがそれは起きてしまった。
 見通しのよい、十字路だった。
 右側の道路から飛び出してきた単車。いや、その存在はかなり早い時点で視界
に入っていたはず。にも拘わらず対応が遅れてしまった。
 信号のない十字路だったが、男の走っていた方が優先道路だったため、相手が
一時停止をするだろうという思い込み。それ以前に視界に入っていながら、単車
を認識していなかったのかも知れない。わずか一杯の酒のために。
 とにかく、はっきりと認識したときには、単車は男の車の正面を横切ろうとし
ていた。
「お義父さん!」
 光太郎が叫ぶ。それが、最後に聞いた光太郎の声となった。
 慌ててハンドルを切ると、単車は男の視界から消えた。しかしそれに代わって
別のものが、車の行く手に立ち塞がる。それが電柱だと知ったのは、後になって
からのことだった。強い衝撃を感じるのと同時に、男の意識は失われた。

 目が覚めたとき、最初に見たのは不安そうな妻の顔だった。男が意識を回復す
ると、妻は一瞬安心したような顔を見せ、すぐにまた表情を曇らせた。
「光太郎は?」
 男の問いかけに、妻は無言で首を横に振った。

 男の怪我は大した物ではなかった。
 軽い打撲が数カ所あったが、一週間程度で治るようなものばかりであった。
 しかし、光太郎は………。
 単車を避けるため、急ハンドルを切った車は大きくスピンした後、左前面を電
柱にぶつけたらしい。運転席に座っていた男は軽傷で済んだが、助手席の光太郎
は胸を激しく打ち、内臓破裂で即死状態だったそうだ。
 光太郎の亡骸は、男の家の客間で眠っていた。
 唯一の肉親であった祖母は一昨年、他界しており、光太郎の家には誰もいない。
そのため妻の配慮で、この家に運び込まれたということだ。
 即死であったにも拘わらず、光太郎の顔に目立った傷はない。ただ枕元で煙を
立ち昇らせている線香が、光太郎が既にこの世の人でないことを知らせている。
 光太郎の横に座り込んでいる富子の肩が震えている。
 何と言ってやればいいのだろう。男には、娘に掛けてやる言葉がみつからない。
ただ後ろから、富子の背中と光太郎を見つめるしか出来ない。
「お父さん………」
 どれほど時が過ぎてからだろうか。
 背を向けたまま、富子が男を呼んだ。
 閉じられたままの障子を通して、茜色の光が部屋に射し込んでいる。
 外では蛙たちの鳴き声が聞こえていた。
「どうして………どうして、光太郎さんが……」
 富子の声には力がなかった。感情すらこもってはいない。涙も涸れ果ててしま
ったか。それとも、未だ目の前の現実を受け入れられないでいるのか。
 男もまた、黙ったままでいた。
 自分の不注意で、間もなく娘の夫となるはずだった、光太郎を死なせてしまっ
たのだ。その自責の念をどう言葉にして、富子に伝えればいいのか。男は、その
術を知らなかった。
「どうして、なにも言ってくれないの」
「………」
 男はそれを、富子に対しての慰めをなぜ言わないのかと受け取っていた。
 富子の悲しみは、想像に余るものだろう。下手な慰めは、かえって富子の悲し
みを深くする結果になりかねない。そう思っていた。
 だがそれは、違っていたらしい。
「お父さん、光太郎さんになにも言ってあげてない」
 わずかに、富子の声に力が込められたような気がした。
「光太郎さんは、お父さんの運転していた車が事故を起こして、死んでしまった
のよ。『すまなかった』の一言も、言ってあげられないの?」
 ふいに富子は振り返り、その双眸が男へと向けられた。両の瞳には、全て流し
きってしまったのだろう。もう涙は溢れていない。だが長時間、涙に暮れていた
痕跡は、しっかりと残されていた。
 ただ男を見つめる娘の目に宿っているのは、悲しみの色ではなかった。
 憎しみを抱き続けていた仇と、数年ぶりに巡り会うことが出来た者の目が、こ
うなるのではないだろうか。男にはそう思えた。
 正面から富子の視線を受けとめられなかった。男は目を逸らして、富子を見な
いようにしたが、焼けつくような視線を強く感じていた。
 いたたまれなくなり、決して富子と視線を合わせないようにして、部屋から逃
げ出してしまった。
 それから妻に、「気分が悪い。事故の後遺症かも知れない」と告げ、布団に潜
り込んだ。そのまま光太郎の通夜にも顔を出さず、婚礼が行われるはずだった日
が訪れた。

 布団の中で目を閉じ、耳を塞ぎ、現実から逃げ出そうとしていた男。しかし時
が経つにつれ、光太郎に対する罪悪感は増すばかりだった。光太郎に詫びなけれ
ばならない。富子にもきちっと話をしなければならない。
 ようやく意を決して、布団から抜け出してみると富子の姿はなかった。妻に訊
ねてみても、行き先は知れなかった。それどころか妻も、いつ富子が出ていった
のか気がつかなかったと言う。
 悪い予感がした。後から思えば、虫の知らせというものだったのだろう。
 男は思いつく限り、娘の行きそうな場所を探し回った。
 光太郎の家、婚礼の会場になるはずだった場所、二人でよく歩いた公園。その
いずれでも、富子を見つけることは出来なかった。
 もしかすると、もう家に戻っているかも知れない。願望を込めつつ、家に帰っ
た男を蒼白な顔をした妻が出迎えた。
「警察から………電話がありました」
 歯の根が合わぬほど、震えていた妻の唇。切れ切れの言葉で、こう続けた。
 富子が遺体で見つかったと。

 富子の遺体が発見されたのは、海だった。
 昔、幼い富子と光太郎を連れて、男がよく行った海岸に遺体が打ち上げられて
いたそうだ。
 自殺か事故か、警察は分からないと言っていた。けれど男には光太郎を失った
富子が、自ら命を断ったように思えた。
 富子にとって、その海岸は光太郎との楽しい思い出の場所だったのだろうか。
それとも光太郎を死なせた男を責めようと、わざわざ思い出の場所を選んだのだ
ろうか。
 それに答えられる者は、もういない。
 その日、予定通り富子は光太郎のそばへ逝ってしまった。

「本当に、富子は泣いているんじゃないのかなあ」
 公園のベンチに座り、おじいさんは夜空を見上げていた。
「ええ、大丈夫ですよ」
 隣のおばあさんの手が、おじいさんの手に重ねられる。
「富子は、わしのことを憎んでいるんじゃないのかなあ」
「あのお嬢さんも言ってたじゃないですか。富子は優しい子ですよ。そんなこと
は絶対にありません」
「でもなあ………わしは何も言ってやれなかった。富子にも、光太郎にも」
 いままで思い出すことのなかった時間、いや思い出さないように努めていた時
間が甦る。おじいさんは、赤子のように泣いた。
「あの子だって分かっていたんですよ。あの時、おじいさんがどんなに辛い想い
をしていたか………ただ少し、あの子も弱かったんでしょうね。あんな形を選ぶ
しか出来なかった。けれどね、決しておじいさんのことを憎んでいた訳じゃない
ですよ。
 そりゃあ、光太郎さんのことで興奮してしまい、おじいさんに酷いことを言っ
てしまったかも知れませんけど。きっとあの子も、そのことを後悔していたと思
いますよ。
 あの子は、おじいさんのことを愛していたんですから。
 あの子が最期にあの海に行ったのも、そこがおじいさんや光太郎さんの思い出
がいっぱい詰まった場所だったからですよ。
 私は、思うんです。あの子は自殺をしたんじゃないと。ただ海を見ているうち
に、その思い出の中に閉じこめられてしまったんじゃないかって。
 だって、大好きなあなたと仲直りしないうちに、あの子が死のうとする訳はあ
りませんもの。あの子だって、そのことが心残りで仕方ないんですよ」
「どうして、そんなことが言える?」
「私はあの子、富子の母親ですもの」
 年老いた妻の笑顔。
 富子の死後全ての気力を失い、会社も家も、何もかも人手に渡してしまった。
そんな男を、一度として非難することなく黙って着いてきてくれた女がそこにい
た。



「あ、あ、あ、あ、あああっ!」
 自分の声が響き渡るのが面白くてたまらない。
 初めて銭湯に入った日から、決まって声を出すのがマリアの習慣になっていた。
「マリアおねえちゃん、こどもみたい」
 そう言って美璃佳が笑う。
「でも、きょうはおふろで、およいじゃだめだよ」
 美璃佳は人差し指を立てた手を前に出し、もう片方の手は腰に充てながら言っ
た。
「この間、おばさんに怒られちゃったもんね」
 暖かい湯に浸かる。
 その行為自体、マリアにとって新鮮な体験だった。しかもこんな広い場所で、
裸になっても注意されない。その開放感で調子に乗ったマリアは、先日湯船の中
で泳いで、口うるさいおばさんに叱られてしまったばかりだった。
 まだ開店して間もない時間だったため、銭湯の中は閑散としている。美璃佳に
言われなければ、また泳いでいたかも知れない。
「およぐのは、なつまでがまんだよ」
 タオルを石鹸で泡立てながら、美璃佳が言った。
「夏になったら、泳いでも怒られないの?」
「ちがうよ。プールにいけるの」
「ふうん、そっか」
 頷いてはみたが、良くは分からない。けれど夏というのは、ずいぶん楽しそう
な季節だと、マリアは思った。
 夏になれば、あの花火もいっぱい出来るらしい。それどころか、もっともっと
大きな花火も観れると言う。プールという所で、泳ぐのも楽しみだ。
「ねえ、美璃佳ちゃん。今日はマリアが、髪を洗ってあげようか?」
「えっ、いいの?」
 石鹸の泡をタイルに集め、粘土細工のようにして遊んでいた美璃佳が、目をま
ん丸くして顔を上げた。
「うん、洗ってあげる。でも上手じゃないかも知れないよ。そしたらごめんね」
 マリアは美璃佳の後ろにまわった。
 鏡に写った美璃佳が、固く目を瞑る。その頭に、マリアはシャンプーを泡立て
た。

「みりかね、りょうたおにいちゃんじゃないひとに、あらってもらうの、はじめ
てなんだよ」
 シャンプーの量が多すぎたようだ。美璃佳の髪から、幾筋かの泡が川となって
顔を流れる。それが閉じられた瞼の上を通って行っても、美璃佳は嫌がる素振り
を見せない。ただ瞼を震わせて我慢をしている。
「美璃佳ちゃん、お喋りしてると、お口にシャンプーが入っちゃうよ」
「そしたら、ぺってするから、へいきだよ」
「美璃佳ちゃんって、いい子だね」
 マリアがそう言うと、目は瞑ったままだが、美璃佳は嬉しそうだった。マリア
は少し強めに美璃佳の頭を擦る。
「ママに洗ってもらったことはないの?」
「うん………みりか、ママとおふろにはったこと、ないもん。いっしょにごはん
をたべたことも、ねんねしたこともないの」
 シャワーのお湯の温度を掌で確認し、マリアは美璃佳の頭を流してやる。その
間、美璃佳は口を大きく開けて呼吸をしていたが、気管にお湯が入ってしまった
のだろう。一度、けんけんとせき込んでからは、口も瞼同様に固く閉じられた。
 一通り泡を流し落とすと、マリアは固く絞ったタオルで美璃佳の顔と頭を拭い
た。
「はい、終わったよ。美璃佳ちゃん」
 声を掛けてやると、やっと美璃佳は目と口を開き、苦しそうに呼吸をする。
「やっぱり、上手に出来なかったみたいだね。ごめんね、美璃佳ちゃん」
「ううん、そんなことない。きもちよかったよ」
 頬を紅潮させて、美璃佳は応える。
 その笑顔は、決して作りものではあり得ない。
「ねえ、こんどはみりかが、マリアおねえちゃんをあらってあげるぅ」
「髪を洗ってくれるの?」
「ううん、とどかないから、おせなか!」




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