#4291/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/12/24 1:32 (200)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(21) 悠歩
★内容
『満天』を飛び出したとき、外には強い風が吹いていた。昼間の暖かさが嘘の
ように、冷たい風が愛美の頬を切りつけて行く。
しかしいま、肌を切りつけるような冷たい風も、愛美には感じられない。手袋
もマフラーも、店に忘れたことも気づいていない。紺色の地味なコートのボタン
を止める間も惜しみ、父が運ばれた病院へと急いだ。
外来受付へ通じるドアは、既に閉鎖されていた。愛美は急患搬入口になってい
る、自動ドアの方へと廻った。
「愛美ちゃん!」
ドアの外で病院内の明かりを背にした影が、愛美の名を呼び、手を振る。
「あ、藤井さん。あの、父は?」
「いま、集中治療室に入ったところだ」
そう応えると、駿は愛美を先導するように自動ドアのくぐり歩き出す。何度か
訪れたことがあり、病院内の構造も知っていた愛美だが駿に従って後ろを歩く。
二人は病人をストレッチャーのまま運べる、大型のエレベータに乗り込み四階に
向かった。
「美璃佳ちゃんが世話になったみたいで………ありがとう」
エレベータの位置を示すランプを見つめていた愛美に、駿の声が掛かる。
「いえ、こちらこそ。父のこと、ありがとうございました」
気が急いていたため、愛美の受け答えはどこか事務的になる。
ちん、と到着音がしてエレベータが停止する。ドアが開くと、愛美は駿より先
に出て、集中治療室へ向かう。
「あ、お姉ちゃん」
集中治療室の前のソファに座っていた良太が、愛美に気づいて立ち上がった。
その横では美璃佳が寝ている。そしてもう一人、最近駿と同棲しているらしい女
性、たしかマリアと呼ばれていた人もいた。
動転していた愛美は、良太たちに一瞥をくれただけで、そのまま集中治療室の
中に入った。
「!」
目に飛び込んできた光景に、思わず絶句する。
ベッドに横たわった父。全身に細い管とコードが繋がれ、蛇のように絡んでい
る。コードの先には何かを計測する装置があり、そのモニターが山なりの波長を
表示していた。
口には呼吸を助けるためか、嘔吐物を取り除くためか、太い管が入れられてい
る。
誰からも説明を受けずとも、父の状態が思わしくないことは一目瞭然だった。
「あら、あなた。愛美ちゃんね?」
初め愛美に背を向けて、モニターが計測している数値を書き写してした看護婦
が振り返った。少し年配の、眼鏡を掛けた顔に見覚えがある。たしかこの病棟の
婦長だ。
婦長は集中治療室の隣、大きな窓ガラスで仕切られているナース・ステーショ
ンの扉を開いて、若い看護婦に何かを告げる。
「じゃあ愛美ちゃん、いま先生がいらっしゃるから、ナース・ステーションで待
っててくれる?」
「あの、でもお父さんは………」
「だいじょうぶよ。お父さんは、私が見てるから、ね」
婦長に促されて、愛美はナース・ステーションに入った。若い看護婦が勧めて
くれた椅子に、腰を下ろす。
嫌な時間だった。
愛美はガラス窓越しに、様々なコード類が繋がれた父を、不安な気持ちで見守
る。
後ろの方にいた当直の若い看護婦たちは、初めは愛美に遠慮していたのだろう。
小さな声で、何かを囁き合っていた。その声も少し時間が経つと、愛美への気遣
いも失われて大きくなり、他愛もない雑談が耳に届く。
「やあ、愛美ちゃん。久しぶりだね」
五分ほど不安な時間を待たされて、三十代半ばの医師が現れた。一瞬、看護婦
たちの話し声が止む。
「戸田先生、ごめんなさい。ご無沙汰してしまって」
椅子から立ち上がり、愛美は医師に頭を下げた。
戸田は父が最初に体調を崩したときから、ずっと診てもらっている担当医だっ
た。と、言ってもここ半年は愛美が勧めるのも聞かず、父は病院に通っていなか
った。
「挨拶はそれくらいにして、座ろうか」
椅子に座った医師は机の上、壁に取り付けられている、裏に蛍光灯の入ったボ
ックスのスイッチをつける。そこへ、手にしていた茶封筒からレントゲン、たぶ
んCTスキャンの写真だろう。それを並べていく。
もちろん詳しい説明を受けなければ、そこに写っているものが何を示すのか、
愛美には分からない。けれど異様に黒い部分の多い写真は、愛美の不安を掻き立
てるには充分すぎるものだった。
「お父さん、良くないんですか?」
本当は答えを聞きたくはない。だが聞かずに済ませられるものでもない。愛美
は自分の声が震えていることを、はっきりと認識していた。
「………ん……」
写真を並べ終えた医師が、愛美へ向き直った。
「本当は愛美ちゃんに話すべきでないかも知れない。だけど、お父さんと二人き
りと言うことを考えれば、君に話すしかないだろう。
愛美ちゃんももう、中学生だ。気を落ちつけて聞いて欲しい」
それだけで、これから医師が話す事柄が良くないものであると察しがつく。愛
美は気が遠のいて行きそうになるのを、必死で堪えた。
最後まで、医師の話を聞かなければならない。他ならぬ愛美の父の容態を、た
だ一人の肉親、娘として知っておかなければならない。その想いが愛美を支える。
「これが普通の患者さんの、肝臓だ」
医師がキャップの付いたボールペンで、輪切り状態になった肝臓の写真を示す。
ボールペンの先が滑り、別の写真の上に移動する。
二枚の写真を続けて見ることで、知識のない愛美にもその違いがはっきりと分
かる。
「これが、君のお父さんの肝臓だ。今日まで、よく我慢できたものだ。かなり辛
かったはずだよ」
そう言って、医師が指し示す写真。現像をするとき、誤って光を入れてしまっ
たのではないだろうか。もしそうだったら、どんなに良かったことだろう。そう
でないのなら、あまりにも不自然すぎる父の肝臓。
それは墨で塗りつぶしたような、黒い塊として写っている。
「お父さんは肝臓ガンだ。それもかなり進んでいる………一ヶ月、保つかどうか」
予想はしていたが、医師の口から直接告げられることで、最後の望みが断たれ
た。
ふと周囲から全ての景色が失われる。
赤、青、緑、白、黒。
全ての色が、複雑に混じり合う。
ただ単色が、全てを支配する。
そのどちらでもあり、どちらでもない。
次に愛美の意識が現実に帰って来たとき、その身体は医師の手によって支えら
れていた。
「だいじょうぶかい、愛美ちゃん」
白衣の袖を見つめながら、愛美はなぜそんな状態になっているのか、しばらく
理解出来ないでいた。
「すまない。やはり話すべきじゃなかったか」
『ああ、そうか。私、お父さんのことを聞いて………気を失ったのかしら?』
頭を下げる医師をみて、ようやく状況を思い出す。
「いえ、いいんです。私、話して下さったこと、感謝しています。だって、何も
知らないまま突然父の死を迎えたら、もっとショックだと思うから」
何か芝居の台詞を読み上げているような気分だった。父の死について口にする
自分が、どこか現実味を感じられない。
「親戚の方が居られるなら、知らせておいた方がいい。いまからこんなことを言
うのは何だが、これからのことを考えなくては。愛美ちゃんの身の振り方を、親
戚の方と相談して………」
「止めて下さい」
穏やかと言うよりは、感情の欠落した声で、愛美は医師の言葉を遮った。
「まだ父は、生きていますから」
「しかし、愛美ちゃん」
「お願い………します」
「………そうか」
「そうだ。父はしばらく、入院することになりますよね」
愛美がそう言うと、医師は怪訝そうな目で見た。
父の状態を見れば、家に帰れる訳などないのは誰でも分かる。それを改めて訊
ねる愛美を、不審に思ったのだろう。
だが愛美は、決しておかしくなったのではない。ただ少しでも生のある父を、
確認しておきたいという気持ちが、そんな言葉になったのだ。
「私、一度着替えを取りに帰ります」
「そうか、じゃあ後で看護婦に渡しておきなさい。中学校はまだ終業式が終わっ
てないだろう。着替えを持ってきたら、君は家に戻って休んだ方がいい」
愛美がおかしくなった訳ではないと知ると、医師は写真を貼り付けたライトを
消して言った。
小さく頷き、愛美は立ち上がった。
「ああ、そうだ。表で待っている人………愛美ちゃんのお父さんを運んでくれた
方は、知り合いかい?」
すっかり忘れていた。
「同じアパートに住んでいる人です」
「それなら丁度いい。あの方たちと一緒に帰りなさい」
「はい」
医師は愛美とナース・ステーションを出ると、外にいた駿に何かを話していた。
「………ここ、どこ?」
駿が背負おうとすると、美璃佳は目を覚ましてしまった。
「病院だよ」
と、声を掛けたのは良太。
「びょういん? だれか、びょうきになったの?」
眠そうに目を擦りながら、まだ状況が掴めないと言ったふうに、美璃佳は頭を
振る。愛美と目が合う。
「あーっ、まなみおねえちゃんだ」
嬉しそうに笑う。
ついいましがたまで眠っていたのに、よくそれだけの笑顔が作れるものだと愛
美は思った。
「まなみおねえちゃん、こわいかおしてるぅ」
笑顔が崩れ、抗議するように美璃佳が言う。
「お姉ちゃんのお父さんが、病気でにゅういんしたんだよ」
妹に耳打ちで説明をする良太。けれどその声は、愛美の耳にも届いて来る。
「まなみおねえちゃん、かわいそう………」
途端に美璃佳の顔は曇る。
短時間でいろいろな変化を見せる美璃佳の表情に、それを半ば虚ろな気持ちで
眺めていた愛美の心に、苛立ちが生まれた。
「何も分からない子どものくせに、余計なことは言わないで」
抑えきれない苛立ちが、乱暴な言葉となって口から漏れてしまう。
「お父さんのいないあなたに、私の気持ちなんて分からないでしょ!」
良太と美璃佳の表情がひきつる。
『私、酷いことを言ってる』
強い後悔の念。
小さな美璃佳に、なんの罪があると言うのだろう。純粋な気持ちで、愛美に同
情しただけなのに。
分かってはいるのだが、一方で攻撃的になっている自分を抑えられない。
「愛美ちゃん」
駿が非難するような目で愛美を見る。
「父のことはお礼をいいます。ありがとうございました。私、着替えとか、いろ
いろ用意がありますので、先に帰ります」
早口で礼を述べると、愛美は逃げるようにしてその場を去った。
「まなみおねえちゃん………おこった………」
美璃佳の瞳に、みるみるうちに涙が溜まっていく。
大声で泣き出すことを予想したのだろう。抱き上げるつもりだったのか、頭を
撫でてやろうとしたのか、駿が手を伸ばしかけた。
けれど唇をぐっと噛みしめ、美璃佳は堪えていた。
掛けてやる言葉も見つけられない駿の手が、宙に止まっていた。
代わりに、はやり固く唇を噛みしめた良太が無言のまま、妹の頭を強く撫でる。
「ねえ、駿。愛美ちゃんのお父さんって、死んじゃうの?」
マリアは訊ねた。
さっき愛美と一緒に出てきた医師が、愛美を手助けして欲しいと言っていた。
はっきりしたことは言わなかったが、愛美の父親の病気はかなり悪いらしい。
「ああ、たぶん。ガンだよ」
語尾を低くして、駿が応えてくれた。
「血を吐いていたからな。うちの親父もそうだったから………肝臓かも知れない」
病名についてはよく理解できなかったが、死に至る確率が高いもののようだ。
それで愛美は、混乱をきたしたのだろう。
「愛美ちゃん、悪気が………別に美璃佳ちゃんのことを、怒っていたわけじゃな
いと思うよ」
駿は、ビニール張りのソファに立った美璃佳の肩に手を置く。
「お父さんの病気が悪くて、ちょっぴり興奮してしまっただけだよ。だから、愛
美ちゃんのこと、許してあげようよ。ね?」
まだ美璃佳の涙が乾くには時間が掛かりそうだった。それでも美璃佳は、駿の
言葉にこくりと頷いた。