#4274/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/12/24 1:16 (199)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(04) 悠歩
★内容
立ちこめていた霧もどこかへと去り、冷たい空気にもわずかな暖が感じられる
ようになっていた。とは言っても、風が吹けばやはり身を竦めるほど寒さである
ことは変わりない。
新聞配達のアルバイトを終え、帰路に着いていた愛美の身体は汗が噴き出すほ
ど暖まっていたが、それに反して両の掌は氷のように冷え切っていた。自転車を
こいで配達をしているのだが、積まれた新聞を一部ずつ取り出すのに不便なため、
手袋はしていない。そのせいで身体は暖まるのだが、風を直接受ける手は冷えて
しまう。
愛美は夜、母の友人だった女将の経営する居酒屋で働かせてもらっていた。し
かし、それだけでは足りず、朝は新聞配達のアルバイトしている。父が仕事をし
ていないので、それでもまだ父娘二人が暮らして行くのにやっとだった。
しかし中学生である愛美は、アルバイトをしていることは学校には内緒にして
いた。またそのせいで成績が悪くなって、父を呼び出されたくはない。だから夜
のアルバイトを終え父親が眠りについた後、勉強もしていた。
毎日わずかな睡眠時間しか取れない状態だったが、今日は日曜日。日曜日は居
酒屋が休みのため夜のアルバイトがないのだ。今夜だけは、普通に眠ることが出
来る。いつもなら一週間で、一番気持ちのいい日であった。
だが今日は違った。昨夜出ていった父は、それっきり朝まで帰ってくることが
なったのだ。
些細なことで気分を害した父が、部屋を飛び出して行くのは珍しくない。いつ
もその時、生活のためにとっておいたお金を持ち出していく。愛美一人で支える
生活を、より一層辛いものにしていたが、そんなことはどうでもよかった。父の
気分が晴れてくれるなら、それで構わないと愛美は思っていた。
愛美が心を痛めていたのは、父がお金を持ち出すことでなく、気晴らしに行っ
た先で他人に迷惑を掛けることだった。酒癖の悪い父は、呑む度に誰かにからむ。
喧嘩沙汰も一度や二度ではない。いつもその後、相手に頭を下げに行くのは愛美
だった。
そして喧嘩以上に心配なのは、父自身の身体のことだった。
母の死後、父は強くなかった酒を浴びるように呑み始めた。身体を悪くして仕
事も辞めてしまった。身体を悪くしても、酒は止めなかった。医者からは何度も
注意を受けていたのに。最後に愛美が無理に連れていった時、医者にはこれ以上
の飲酒には責任が持てないとまで言われている。
憂鬱な気分で歩いていた愛美の目に、一人の老人の姿が停まる。
黒い杖を持ったおじいさんが、冷たい朝の空気の中でコートも着ずに、シャツ
一枚の姿で空を見上げていた。まるで、誰かと話をしているかのように、もごも
ごと口を動かしている。
「おじいちゃん? 北原のおじいちゃん」
愛美は優しく声を掛けた。老人は、愛美と同じアパートに夫婦で住むおじいさ
んだった。
「おじいちゃん、お早うございます」
もう一度声を掛け、ようやく老人は愛美に気がついた。
しわだらけの顔で笑顔を作る。
「いいねぇ、春は。うんうん、春はいい」
「おじいちゃん?」
愛美は老人の腕にそっと触れてみる。自分自身の手も冷えて感覚が鈍っていた
が、それでもおじいさんの身体が冷たくなっているのが分かる。
「ほら、おじいちゃん、身体がこんなに冷たくなっている。そろそろお家に帰ら
なくちゃ。きっと、おばあちゃんも心配してるよ」
おじいさんの身体に手を添えて、愛美はゆっくりと歩かせた。
「なあ、富子」
「なあに?」
痴呆気味のおじいさんは、なぜか愛美を富子と呼ぶ。何度、「私は愛美よ」と
言い聞かせても変わらない。
富子という女性が、おじいさんにとってどんな存在だったのか。娘なのか、孫
なのか。恋人だったのかも知れない。大切な人だったのだろう。そう思った愛美
は、富子と呼ばれてもそれを訂正することはなくなった。
「光太郎はどうしのかなあ。元気にしておるかなあ」
「うん、元気にしてるよ」
古いことばかりを思い出すのが、痴呆症の特徴だそうだ。口から名前の出る人
々は、きっと昔まだ若かったおじいさんの周りにいた人たちなのだろう。
「まあ、おじいさん」
アパートの近くまで来ると、愛美たちを見つけたおばあさんが右脚を引きずる
ようにして駆け寄って来た。
「どこに行ってたんです。目が覚めたらもう、いないんですもの。心配しました
よ」
「お早うございます。この先でおじいちゃんに会ったものですから、連れてきま
した。身体、冷えちゃってるようですから、早く暖めてあげて下さい」
愛美はぺこりと頭を下げた。
「ごめんなさいねぇ、愛美ちゃん。おじいさんが迷惑をかけちゃって」
「いえ、おじいちゃん、素直にしてくれましたから」
おばあさんは愛美から、おじいさんの身体を受け取ろうとした。
「あ、部屋まで私が………」
足の悪いおばあさんを気遣った愛美が、言い終わらないうち、おばあさんはお
じいさんの身体を肩で抱えるように受けとめた。
「いいえ、大丈夫ですよ。長年連れ添った相手ですもの、こんなことくらい私が
ねぇ」
笑顔で応えると、おばあさんは何度も何度も愛美に頭を下げ、おじいさんと一
緒に部屋に部屋に向かって歩いていった。
「いい子だなあ、富子は」
「はいはい、そうですね。いい子ですね」
二人はL字になったアパートの、一番奥の105号室へ消えて行った。
腹に重いものを感じて、駿は目覚めた。
「ん、ああ」
わずかに頭を上げただけで、その正体が知れた。隣で寝ていた良太の足が乗っ
ていたのだ。
「おいおい、お前まで風邪ひくぞ」
良太に布団を掛け直し、『風邪』で思い出して美璃佳の方を見た。こちらは良
太と違って寝相良くしていた。もっとも、寝相の悪い病人というのは聞いたこと
がない。体力が衰えて、寝返りさえ打てなくなるからだろうか。そんなことを考
えながら、駿は美璃佳の額に手を充てる。
「やれやれ、だ」
熱が退いたのを確認して、ほっと息をつく。念のため、後で体温を計っておこ
う。体温計はあっただろうか?
「それと」
美璃佳の首筋に溜まった汗を見て、駿は呟いた。
布団の中に手を入れ、身体の方にも触れてみる。案の定、美璃佳は全身に汗を
かいていた。
「こまったなあ、着替えがないぞ」
時計を見ると、時間は七時五分前。昨夜遅かったわりには、ずいぶんと早い時
間に目が覚めたものだ。しかし、この時間ではまだコインランドリーも開いては
いない。
七時開店のコンビニエンス・ストアーならどうだろう。下着を買ったことはあ
るが、子ども向けのものまで置いていたかどうか、さすがに記憶にない。それか
ら上に着せる服も必要だ。
食事はどうする? 駿と良太なら外食でもいいのだが、病み上がりの美璃佳は
そういう訳にもいかない。自炊しようにも、駿の部屋には米どころか炊飯器もな
い。
良太たちの部屋はどうだろうか。あまり期待出来そうにないが、探してみよう。
服を着替え、駿は隣の部屋に向かった。
「やっぱりないかあ」
ごみと脱ぎ捨てられたもの以外、まだ着れるような服や下着を見つけることは
出来なかった。食べ物はインスタントのラーメンが三食分。しかしそれなら駿の
部屋にも買い置きがある。それより驚いたのは、どれほど用意していたかは知ら
ないが、残り三食分になるまで、母親が帰ってきていないらしいと言うことだ。
いくら何でも無責任にも程がある。空になったインスタントのごみの山を見つめ
ながら駿は思った。
探してもないものは仕方ない。一応、コンビニを見に行ってみるか。それでも
なければ店なり、コインランドリーなりが開くまで、子どもたちには我慢しても
らうしかない。
駿が良太たちの部屋を出るのと同時に、下の方でドアの閉まる音がした。
たぶん105号の老夫婦の部屋だろう。老人性痴呆症のおじいさんを連れて、
おばあさんが朝散歩に出ているのを、何度か見掛けたことがある。
一度自分の部屋に戻り、財布を取る。階段を降りたところで、アパートに入ろ
うとしていた少女とぶつかりそうになり、間一髪避ける。
「おっと、お早う愛美ちゃん」
駿が挨拶をすると愛美は、ぺこりと頭を下げた。
無愛想な訳ではないが、駿は口数の少ないこの少女がどうも苦手だった。
愛美の方も駿を苦手にしているのか、それとも警戒しているのか。そそくさと
部屋に戻ろうとする。
「あ、ちょっと待って」
部屋の中へ消えようとする愛美を呼び止める。
「あ、あのさ、愛美ちゃんが小さい時に着ていた服とか、残って………ないよね
?」
愛美がいまの美璃佳と同じ歳だったのは、八年くらい前になるか? さすがに
そんな前のものをとって置いているとは思えないが、駄目でもともと。駿は訊い
てみた。
「どうして、です?」
何を思ったか、怪訝そうな目で駿を見る愛美。
「あ、いや、誤解しないで。美璃佳ちゃん………202号室の岡野さんちの女の
子に、着せる物がないんだ」
それでもなお、愛美はよく分からないと言った顔で駿を見ていた。駿は昨夜か
らのことを、かい摘んで説明をした。
「そうだったんですか。ごめんなさい、小さい頃の服は残ってないんです」
気のせいか、事情を説明した後の愛美の口調は、幾分柔らかくなっていたよう
に思えた。
本当に申し訳なさそうに謝る。
「謝らないで。別に愛美ちゃんが悪いわけでもないんだし。仕方ない、とりあえ
ずコンビニにでも、行ってみるよ」
「あの、でも。あそこのコンビニ、子どもの下着は、おいてなかったと思います」
「えっ、やっぱり。困ったなあ………やっぱりコインランドリーが開くまで、我
慢してもらうしかないかあ」
「あ、あの、ちょっと待ってて下さい」
愛美は一度部屋に戻り、綺麗に折りたたまれた長袖のシャツを持って、戻って
きた。
「これ、私のシャツですけど。私、身体が大きいほうじゃないから、あの、藤井
さんの服よりは、子どもたちに着せやすいと、思います」
「うわあ、助かる。ありがとう」
ところが、駿がそのシャツを受け取ろうとすると、愛美はすっと、手を引っ込
めてしまった。
「あ、あの、それから美璃佳ちゃんの下着………あの、もしかすると、女性の下
着って、男の人のより、その、小さめだと思うから」
愛美は俯き加減で、何やら恥ずかしそうにしている。愛美が何を言おうとして
いるのか、駿には分からなかった。
「だから、もしかすると、あの、私のでも、美璃佳ちゃんに………」
「ああ、そうか。じゃあ、下着も貸してもらえるのかい?」
「で、ですから、その、美璃佳ちゃんの着替え、私が」
駿はようやく察した。男性である駿に、自分の下着が見られることを、愛美は
恥ずかしいのだ。考えてみれば、当然だろう。小柄で大人しそうな顔立ちをして
いるので、つい失念していたが、仮にも愛美は中学生。一人前の女性としての意
識を持っていても、おかしくない年齢だ。
「じゃあ、子どもたちの着替え、お願いしてもいいかな」
「ええ」
「ん、頼むよ。二人とも俺の部屋で寝ているから。そうだな、俺は子どもたちの
部屋を片づけているから、終わったら声を掛けてよ」
「はい」
そして駿と愛美は、階段を昇って二階に向かった。
「とりあえず、ごみをなんとかするか………」
異臭の立ちこめる室内を、しばらく呆然と眺めていた駿は、ようやく意を決し
た。
まず部屋の窓を開け、空気を入れ換える。寒いが、この匂いを追い出さなけれ
ば、どうにもたまらない。それにしても良太たちは、この匂いの中でよく何日も
辛抱してきたものだ。
大きなビニール袋へと、部屋の中のごみを手当たり次第詰め込んでいく。一つ
目の袋は、すぐにいっぱいとなり二つ目の袋へ入れ始めた頃、愛美が現れた。
「藤井、さん。あの、着替え、終わりました」
「ああ、ありがとう、助かったよ。後で洗って返すから」
開けたままのドアから中を覗いている愛美に、駿はちらっと振り返り、軽く手
を挙げて礼を言った。少しして、階段を降りる足音がした。愛美が部屋に戻った
のだろう。
いっぱいになったごみ袋を外に出そうとして、ドアの方を向くといつの間に戻
ってきたのか、愛美が立っていた。白い洗濯かごを持って。