#4275/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/12/24 1:17 (199)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(05) 悠歩
★内容
「あれ、どうしたの。それ」
「私、お洗濯、手伝います」
「いや、そこまでは。さすがに悪いよ。後でコインランドリーで洗うからさ」
駿は部屋の外、202号室と203号室の間にごみ袋を置いた。本来ならルー
ル違反ではあるが、この部屋から奥の二部屋には住人がいないので、構わないだ
ろう。
「でも、それを言ったら、藤井さんも、あの子たちとは関係ないでしょ」
「それはそうだけど」
「それに、コインランドリーなんて、もったいないです。私がお洗濯しますから、
藤井さんはお掃除を」
「あ、ああ、じゃあ頼むよ」
良太たちの部屋には掃除機どころか、ほうきや雑巾すらなかった。駿は自分の
部屋からはたきとほうき、そして雑巾代わりの古いタオルを持ってきて、掃除を
始める。
その間に愛美は、部屋を二往復して洗濯物を持っていった。下にある一、二階
の住人共同で使える水道で、洗濯をするつもりなのだろう。
ごみと洗濯物を片づけた後、家具も少ない六畳間一部屋、掃除の手間はわりと
楽だった。とは言っても、やはり長期に渡って掃除をしていなかったらしい室内、
ずいぶんと汚れていた。
はたきを掛け、ほうきで掃き、ちりとりの代わりに剥がしたカレンダーの固い
紙でごみを集める。そのあと、固く絞ったタオルで畳を目に沿って拭き上げる。
雑巾代わりのタオルを濡らすとき、その水の冷たさに思わず叫び声が出てしまう。
一通り掃除を終えて、見違えるほど綺麗になった部屋を駿は満足げに眺めてい
た。
「なんか、俺の部屋より綺麗になっちまったな。はは、たまには自分の部屋も掃
除しないと、なあ。あ、そうだ愛美ちゃんは?」
掃除に夢中になっていて、忘れていたが愛美はどうしているのだろう。考えて
みると、このアパートに洗濯機を持った住人は居なかったと思うが。
階段を降りて、すぐに愛美の姿がみつかった。
「愛美ちゃん!」
いま時、どこで売っているのか水色の大きなタライ、それに洗濯板。そのタラ
イの中に水を張り、愛美は手で洗濯をしていた。
「掃除、終わったんですか?」
「あ、ああ。愛美ちゃん、洗濯って、手で洗ってたのか」
考えてみれば分かりそうなことだったと、駿は後悔した。このアパートに洗濯
機を持った住人などいない。コインランドリーを使わず洗濯をするとなれば、手
で洗う以外方法がある訳がない。手で洗濯をする姿など、テレビの中でしか観た
覚えのない駿にしてみれば仕方ないことだったが、寒い冬空の下で子どもたちと
は関係のない愛美に、とんでもない仕事を頼んでしまった。
「ごめん、まさか手洗いとは思わなくて、手伝うよ」
腰を屈め、駿もタライの水に手を入れた。
「ひっ!」
思わず悲鳴が漏れる。水は痛いほどに冷たかった。
「あ、じゃあ洗うのはもう終わりましたから、後は絞るの、手伝って下さい」
「わかっ……た」
駿は手近なシャツを水からあげ、絞ろうとして両手でつかむ。しかしそれは氷
を握っているような冷たさで、強く絞ろうにもなかなか手に力が入らない。
ところが愛美の方を見てみると、駿より細く華奢な腕で、次々と洗濯物を絞り、
かごへ納めていく。
「愛美ちゃん、水は………冷たくないの?」
ようやくシャツを一枚絞り上げた駿は訊いてみる。
「あ、それ、もっと強く絞らないと」
言われてみれば、駿の絞ったシャツからはまだ水が滲み出している。再度力を
込め、絞ってみると、ぽたぽたと水滴が流れ落ちる。
「冷たいけど、なれてますから」
「なれてるって………まさか、いつもこうして洗濯してるの」
「いつもは、もっと少ないですから。台所でもっと小さい桶を使ってますけど」
こともなげに愛美は応えた。
『この子たしか、新聞配達のアルバイトをしてなかったか? 今朝俺と会ったの
は、ひっとしてその帰りだろ。夕べも帰りが遅かったみたいだし。それでも洗濯
機どころか、コインランドリーのお金を節約する必要があるのか。やっぱり父親
は働いていないのか』
昨夜駿と愛美は、ほとんど同じ時間に帰って来ている。駿が朝起きてすぐに、
愛美は新聞配達から帰って来ている。駿が美璃佳を医者に連れていった時間を差
し引いても、睡眠時間は愛美の方が少ないのではないか。
そう思って見れば、確かに愛美の顔色は良くないし、手の荒れ方も酷かった。
「さあ、終わりましたよ。干すのは、上でいいですよね」
「え、ああ、そうだね」
結局洗濯については、駿は全く役に立っていなかった。
ペンキの剥げた跡のやたらと目立つ手すりに寄り掛かり、駿は大きく息を吐く。
白い煙草の煙が広がっていく。
202号室、良太たちの部屋に張ったビニール紐に吊るされた、万国旗のよう
な洗濯物を眺めながら。
とりあえず良太と美璃佳の、それぞれ一回分の着替えはストーブで炙り、無理
矢理乾かせた。いつまでも愛美の物を、借りておく訳にもいかないと思ったから
だ。何より、美璃佳に履かせている下着を見ないようにするため、もう一度愛美
に着替えをさせてもう必要がある。彼女が手伝ってくれているうちに、それを済
ませたかった。
しかしそれは気のまわし過ぎだった。やはりサイズの合わない愛美の下着は履
かせてはいなかったらしい。
子どもたちもよほど疲れていたのか、今朝から二度目の着替えにも、目を覚ま
すことがなかった。
着替えを終えた後、さらに愛美は美璃佳のためにお粥を作ろうと申し出てくれ
たが、それは断ることにした。これ以上、彼女に面倒を掛けるのはさすがに気が
退ける。しかも、駿の部屋にも、もちろん良太たち部屋にも米はなく、愛美の持
ち出しとなる。仕事をしない父親を一人で支えている、中学生の少女からわずか
な米でも譲ってもらう気にはなれない。そして何より、愛美自身の顔色も悪く健
康が心配された。後はどうにかなるからと言って、自分の部屋に戻らせた。
「さて、これからどうする?」
煙草を吹かしながら、駿は子どもたちのことを考える。
幸い今日からはアルバイトの予定もないが、いつまでも他人の子どもを預かっ
ている訳にもいかない。かと言って、綺麗にはしたがいつ母親が帰って来るのか
も分からない部屋で、幼い子どもたちだけで過ごさせるのも無責任だろう。
「母親が帰って来るまでは預かって………帰って来たら一言、注意をしておくか」
人様に注意を促せる立場でもないが、ことは子どもたちの命にも関わる問題だ。
現に昨夜も駿が気がつかなければ、美璃佳はどうなっていたか分からない。気は
重いが、一言言っておく責任もある。
ブロロロ。
エンジン音に続いて、ブレーキ音。アパートの前に、この辺りでは見慣れない
大型の車が停止した。メルセデスのエンブレムが見える。
ドアが開き、派手な服を着た女が降りてきた。白いコート。初め駿は、ボア付
きのコートかと思ったが、そうではない。毛皮なのだ。コートの下からは、冬場
には寒々しさしか与えない、豹柄の服が覗いている。
おおよそ、車も女の恰好も安アパートとは不釣り合いのものだった。が、駿は
女の顔に見覚えがあった。良太たちの母親だ。
女は階段を上り真っ直ぐに自分の部屋を目指す。
「ちょっと、あんた隣の男よね。なんであたしの部屋を覗いてんのよ」
露骨に胡散臭そうな目で駿を睨みつける。続いて自分の部屋を覗いて「あら、
思ったより綺麗じゃない」と言った。
そのまま、駿のことを無視するように部屋に入り、洗濯物をかきわけて行く。
「なによ、この洗濯物は。邪魔くさいわね」
文句は言うが、誰が洗濯をしたのかは全く気にする様子もない。
部屋の奥のタンスを開けて、通帳やらなにやらを取り出し、手に持ったブラン
ド品らしいバッグへと詰め込んでいく。
一通り必要な物を集めると、長居は無用とばかりにさっさと部屋を出て、階段
を下りて行った。その間、子どもたちの姿がないことを気にも止めず。
「ちょっと、岡野さん!」
呆気にとられていた駿もようやく我に返って、女を呼び止めた。
「あん、何よ」
如何にも面倒くさいと言いたげに、女は立ち止まった。
「まさかこのまま、また出かけるつもりですか」
階段を下りながら、駿は言った。
「そうよ、ちょっと必要な物を、取りに来ただけだもの。けど、何だってあんた
にそんなこと、訊かれなきゃならないのよ」
「子どもたち………良太くんや美璃佳ちゃんは、どうするつもりなんです」
自然と、駿の声は荒くなってしまう。
「子ども? ああ、そんなのがいったけ」
「いたっけ、って岡野さん。部屋に子どもたちの姿がなかったのに、心配じゃな
いんですか」
「別にぃ。誘拐でもされたかしら。でも、そうだとしたら、馬鹿よねぇ。こんな
アパートに住んでいるガキなんかさらっても、金になんて、なる訳ないのにさあ」
そう言って、女は笑い出した。
こんないい加減な母親が、実際に存在するなどとは、目の前にしながらも、駿
には信じられなかった。
「ママぁ………」
駿の背後で、声がした。いつの間にか目を覚ました美璃佳が、母親の声に気づ
いて部屋から出てきたのだ。
「なんだ、あんたいたの」
とても自分の子どもに対してとは思えない、冷ややかな女の言葉。そこに我が
子への慈しみなど、微塵も感じられない。
しかし憤慨する駿の横を、美璃佳はちょこちょことした足どりですり抜け、母
親の元へと行き、コートの裾をぎゅっと握りしめた。駿から見れば無責任でいい
加減な女でも、美璃佳にとっては、唯一の母親ということなのだろう。
ところが女は、そんな美璃佳の手を無造作に振り払ってしまった。
「あっ」
小さな声を上げた美璃佳は、よろめき、その場に尻もちをつく。呆然とした顔
で、母親を見つめる。
「ったく、汚い手で触んじゃないよ。鬱陶しいガキなんだから」
女は美璃佳が握っていた場所を、神経質に手で叩く。転んだ娘より、コートの
方が大切なのか。
「おい、あんた!」
それまで駿は出来るだけ抑えた言葉で話していたが、もう限界だ。美璃佳を抱
き起こすと、駿は女に向かって一気に言葉を放つ。
「何をしていたか知らないが、何日も小さな子ども二人を放ったらかしにしてお
いて、やっと帰ってきたら、これかよ。母親だろ、あんたも。美璃佳ちゃんはな、
昨日夜中、熱を出して大変だったんだぞ。栄養不足と、ロクに掃除もしてない部
屋のせいだ。医者に診せるのがもう少し遅れていたら………」
「言いたいことは、それだけ?」
興奮している駿とは対照的に、まるで自分は無関係であるかのような顔をして、
女は耳を小指でほじっていた。
「ほら、美璃佳」
女は財布から一万円札を出し、美璃佳の手に握らせる。
「これで適当に、なんか買って食べてな」
そして駿を睨みつけ、言った。
「これで、文句ないだろ」
踵を返して、車に乗り込もうとする。駿は肩を掴んで、女を止める。
「そんな問題じゃ、ないだろう」
「ちょっと、いい加減にしなさいよ」
「そのくらいに、しとけや、兄ちゃんよ」
聞き慣れぬ声がした。車の運転席のドアが開き、それまで成り行きを傍観して
いた男が降りてきたのだ。
男は駿に近寄ると、ぽんぽんと肩を二回叩いた。
「悪いな、兄ちゃん。急いでんだよ、もう勘弁してくれや」
どう見ても、普通の仕事をしているようには見えない男だっだ。普段ならこの
ようなタイプとは、絶対に関わりを持たない駿だが、いまは興奮した状態にあっ
た。
「なんだあんたは、関係ないだろう。黙ってて………」
男を怒鳴りつけた言葉は、最後まで言い切れなかった。駿は腹部に、ずしりと
重たい男の拳がめり込んで行くのを感じた。一瞬呼吸が止まり、駿はその場に屈
み込んでしまう。
「おい、もう車をだすぞ。さっさと、乗れや」
「あん、待ってよ」
そんな会話が聞こえたかと思うと、駿の身体は後ろへとのけ反ってしまった。
車から遠ざけるため、女が蹴飛ばしたのだ。
「あのさ、まだ文句あんなら、裁判所とか、民生委員? にでも訴えてくれない。
それで親権剥奪ってやつにでもなれば、あたしもさっぱりするしさあ。なんなら、
あのガキたち、あんたにくれてやるから煮るなり焼くなり、好きにしてよ」
ようやく駿の呼吸が回復したとき、もう車は走り出していた。
駿が走り去る車を、悔しい思いで見送っていると、アパートから小さな影が飛
び出してきた。
良太だった。
「良太くん、危ないよ」
呼び止める駿の声にも応えず、良太は車の後を追って走って行く。だが、子ど
もの足で車に追いつけるはずもない。
やがて見えなくなった車の消えた先に向かい、良太はいつまでも立ち尽くして
いた。