#4273/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/12/24 1:15 (195)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(03) 悠歩
★内容
狭い台所を埋め尽くす、カップラーメンの容器やスナック菓子の袋。その中の
食べ残しの一部が腐り、匂いを放っているようだ。この冬場に腐って匂うには、
どれほど長く放置されていたのだろう。
匂いの原因は、そればかりではなかった。
一間きりの室内へ目を移せば、そこは脱ぎ捨てられた衣服と下着の山。どれも
限界まで着たのだろう、汚れて汗くさい匂いを漂わせている。
そして着古しの山に埋もれるようにして敷かれている布団。そこに小さな女の
子、良太の妹の美璃佳が横になっている。
しかし眠っている訳ではなさそうだ。苦しげな息づかいが聞こえてくる。
駿はすぐさまその枕元へ歩み寄り、腰を下ろすと美璃佳の額へと掌を充てた。
「酷い熱だ」
熱い。
子どもの体温は大人より高いものとしても、これは熱すぎる。比喩ではなく、
本当に駿は自分の手に火が着いてしまうのではと、錯覚を起こすほどだった。
それとは対照的に、足に伝わるのは不快な布団の湿気。水が滲みだして来ても
不思議ではないほどに湿気を帯びた布団が、氷のように冷たかった。
こんな部屋で、こんな布団に寝ていては病気もよくなるはずはない。いや、そ
れどころか、かえって悪くなる一方だろう。
『とにかく医者に診せないと…』
美璃佳の容態が良くない事は、駿にも分かったが、それがどの程度であるのか
は見当がつかない。どのように処置してやればいいのかさえも。ただ右往左往を
するより、専門の医者に診せるのが一番だ。
「!」
駿は美璃佳の小さな身体を抱き上げ、驚いた。頭の両サイドで束ねられた髪が、
ふわっと駿の腕に掛かる。
恐ろしく軽いのだ。美璃佳が幼い子どもだとはいえ、それはあまりにも軽すぎ
た。
さらに良太同様、美璃佳も夏物の薄い半袖シャツ一枚を着ているだけだった。
なぜこの寒い最中、二人とも薄着なのか。そもそも母親はどうしたのか。訊き
たいことはあったが、いまは暇がない。一時でも早く、美璃佳を医者に連れて行
かなくては。
「良太くん、ぼくはこれから美璃佳ちゃんをお医者さんに連れて行くから。良太
くんは、ぼくの部屋で待ってて」
それから駿は自分の部屋に戻り、素早く着替えを済ませる。美璃佳も寒空の下、
この恰好のままでは外に連れて行けない。が、かと言って駿の部屋に子どもの服
があるはずもない。
仕方なく毛布を手に取り、それで美璃佳の身体をくるんで抱き上げた。
鉄製の階段を降りる途中、後ろから着いてくる足音に駿は立ち止まって振り返
った。
「良太くん、着いて来ちゃだめだよ。部屋で待ってて」
Tシャツ一枚に半ズボンの良太が駿の後ろを、着いて来ていたのだ。妹のこと
が心配なのだろう。気持ちは分かるが、そんな恰好のまま外を歩いたら良太まで
身体を壊しかねない。
しかし駿が促しても、一向に良太は部屋に戻ろうとはしない。駿は良太に構わ
ず進もうとすると、後を着いて来てしまう。
「分かったよ、良太くん。美璃佳ちゃんのことが、心配なんだね。一緒に行こう。
ただし、その恰好じゃあ良太くんまで風邪をひいてしまうよ。せめてジャンパー
か何か着ておいで」
駿がそう言うと良太は何も応えず、急いで部屋に戻り、やはり汚れの目立つ茶
色のジャンパーを羽織って来た。
「とりあえず、これで熱は下がるだろう」
すっかりと頭部の寂しくなった、五十絡みの小児科医は、美璃佳の小さなお尻
から注射針を抜き取ると、大きなあくびをしながら言った。
「だが………」
眠たげな目が、突然厳しく変わり、駿を見据える。
「栄養のあるものをたっぷりと食べさせんと、な。こんなことは、医者でなくと
も分かりそうなもんだが」
「はあ」
「この子は年齢の割に、発育が悪いようだ。これは明らかに栄養不足だな。風邪
がここまで悪くなったのも、そのせいで抵抗力が極端に落ちているからだ。それ
になんだ、冬場にこんな薄着をさせて? 子どもは風の子というのは、充分な栄
養をとらせ、気候に合わせた服を着せてやって、初めて言えることなんだが、な。
肺炎にならなかったのは、幸運としか言いようがない、な」
医者の声には怒気が含まれていた。が、子どもたちの保護者ではない駿に言わ
れても仕方ない。そう思いながらも、自宅兼医院を経営している医師を深夜叩き
起こし、無理を言って診てもらっている以上、強く反論することも出来ない。
「しかもここまで悪くなるまで、放って置くなど、以ての外だ。子どもの病気を
甘く見てはいかん。それに、だ。私にも安眠の権利があるし、な」
「なんとも………申し訳ありません」
駿はひたすら、頭を下げるしかない。
「お兄ちゃんが悪いんじゃないんだ」
それまで緊張した面持ちで、妹に注射を打たれる様子を睨み付けていた良太が、
初めて口を開いた。
「あー、いやいや。坊や、先生は別に怒っているんじゃないんだよ」
小児科医は、それまでの駿に対してとはがらりと変わった、優しい口調で応え
た。子どもに対しては、穏やかで優しい先生らしい。
「ん、まてよ。お兄ちゃん? すると君はこの子たちの父親ではないのか」
「ええ、同じアパートの隣の部屋の子たちなんです」
「はあ、なるほど。父親にしては少々若すぎるかと思ったが」
駿は自分に対する小児科医の口調が和らいだことに、ほっとした。
「まあ、とにかく、だ。さっきも言ったように、暖かくして寝かせて。充分な栄
養をとらせること、だ。注射や薬はあくまでも補助的なもので、この子自身の力
で病気を治さんと、な。それはこっちの男の子も、同様だが」
「はい、ありがとうございました」
駿は丁寧に頭を下げる。
「あの、それからお支払いなんですが………その、急なことだったんで、いま持
ち合わせがあまり………」
「あー、いい、いい。そんなものは、いつでもいい。ちょっと待ってなさい」
席を立ち、小児科医は一度奥の方へ姿を消したが、すぐに戻ってきた。
「はら、持って行きなさい」
そう言って、駿に薬の入った小さな紙袋を渡した。深夜、自宅を兼ねた医院に
はこの小児科医と家族以外はいないため、薬の用意まで彼がしてくれたらしい。
「本当にありがとうございました」
もう一度駿は、深く頭を下げた。
「ああ、礼はもういいから早く帰って子どもたちを寝かせてやりな。私も眠いし、
な」
アパートに戻った駿は子どもたちを、自分の部屋で寝かすことにした。まだ子
どもたちの母親は帰っていなかったし、何よりあれほど環境の悪い部屋で病人を
寝かす訳にはいかない。
他の部屋の住人とはあまり付き合いのない駿だったが、この子どもたちとは何
度か遊んでやったことがあった。良太から聞いた話や、時折見掛ける姿から子ど
もたちの母親というのが、まだ若いがいつも派手な恰好をしており、毎日のよう
に遊び歩いているらしいことが分かった。それどころか、家に帰ってくることの
方が珍しい。
もう時間は午前二時近くになっている。この分では今夜は、子どもたちの母親
は帰って来ないだろう。
まず美璃佳のために、真新しい布団を用意した。
駿の田舎の母親が送ってくれたものだったが、恋人が部屋に来てくれた時のた
めにと、今日までしまっていた。しかし、ついにその目的に使われることはなか
った。それが子どもたちのために役立ったのだから、なんとも皮肉な話である。
良太の方は、駿の使っていた布団で一緒に寝かせることにした。新しい布団で
美璃佳と寝かせてもいいのだが、念のため病人とは別にする方が無難だろう。
使い古された駿の布団は、快適なものとは言いがたいが、良太たちの部屋のも
のよりは、いくらかマシである。
それから駿は、子どもたちの服をどうしたものかと思案した。
子どもに合うようなサイズの服は、駿の部屋にはない。かと言って、薄着のま
までは布団の中でも寒いだろう。大きすぎることは承知で、駿は比較的綺麗なト
レーナーを選び出した。
まず美璃佳の服を脱がせ、トレーナーに着替えさせた。下着も替えさせたいと
ころだが、さすがにこれは代わりになるものはない。
ところが着替えさせてみると、トレーナーは予想以上に大きすぎた。襟元から
小さな美璃佳の肩が、まるまる出てしまう。これではかえって、身体を冷やして
しまうことになりかねない。やむを得ず、駿はもう一度もとの半袖シャツに、美
璃佳を着替えさせる。そしてその上からトレーナーを着せ、袖を適当な長さまで
折り込む。半分以上折り込まれた袖口は、かなりごわついていたが、それは辛抱
してもらうしかない。
使い捨てのカイロを二個、タオルに包み足許に置いてやる。アンカの代用品だ。
それから、そっと布団を掛けてやる。
良太の方も同じようにして、トレーナーを着せた。
「なんか、たばこの匂いがするね」
折り込んでもなお、長い袖を顔に充てて良太が言った。
「ごめん、煙草の匂いは嫌いかな? でも他にないんだ。今日は我慢してね」
「ううん、へいきだよ。お母さんもたばこすうモン。だけど、お母さんのたばこ
と、お兄ちゃんのってちがう匂いだ」
「ん、煙草にもいろいろ種類があるんだよ。さ、もうこんな時間だ、早く寝よう」
「うん」
明かりを消し、駿は良太と同じ布団に潜り込んだ。その隣には美璃佳が眠って
いる。駿は二人の子どもたちに挟まれる恰好になっていた。少しでも良太に美璃
佳の風邪がうつらないようにと、駿なりの配慮だった。
アルバイトで遅くまで働き、その上美璃佳を抱いて医者に行き、駿は疲れ切っ
ていた。にも拘わらず、妙に目が冴えてしまい、なかなか寝付けない。両側を人
に挟まれて寝るなどと、いつ依頼だったか思い出せないほど久しぶりの状況のせ
いだろうか。
隣では既に、良太が小さな寝息を立て始めている。
「まあ、たまにはこんなことがあってもいいか」
良太の寝顔を見ながら呟く。
一つの布団に子どもとはいえ、二人で寝るのは少々窮屈であったが、一人では
決して感じることの出来ない相手の体温が心地よかった。
駿は頭の向きを変え、美璃佳を見つめた。いまのところは注射が効いているの
か、静かに眠っている。朝までに熱が退けばいいのだが。
「とりあえず………」
今夜は寝返りを打たないように注意しなければ。そう思いながら、駿も瞼を閉
じた。
『マリア、そろそろ第三惑星に接近するわよ。上陸の用意は出来ているわね』
コントロール・ルームで第三惑星の立体映像に見入っていたマリアに、姿なき
ママの穏やかな声が掛けられた。
「うん、いいよ。だってほとんどのことは、ママがやってくれたし」
子どものように無邪気に破顔して、マリアは応える。
『そう、言語も大丈夫よね。一応、予想される言語パターンは2000種ほどあ
なたの記憶に入れておいたけど』
「だいじょうぶだよ、もしそれでダメだったら、ママにアクセスするから」
『そうね、そうしなさい』
「それよりママ」
ぴょんと跳ねるように、マリアは立ち上がる。
その動きに合わせ、生まれたままの姿でいるマリアの、形の良い胸も弾む。
「今度は裸のまま、上陸していいの? 私、お洋服はきゅうくつだから、そのほ
うが嬉しいけど」
『1051太陽系第三惑星の文明レベルはFよ。高くはないけれど、この船にあ
る物を持ち込んで分析されると面倒だわ。とりあえずそのまま上陸したのち、現
地の物を調達して着なさい』
「はあい。でも結局は、着なくちゃダメなのね」
『さあ、そろそろシートに座って』
「はあい」
ママに促されるまま、マリアはコントロール・ルームに設けられたシートに腰
掛ける。
そしてマリアがその身をベルトで固定し終えると、シートはゆっくりと倒され
る。
『本船は間もなく、1051太陽系第三惑星衛星軌道に差し掛かります。これよ
り五分間、惑星上の人工衛星を沈黙させます』
シートに身を横たえたマリアは、自分以外に聞く者のいない、ママの事務的な
報告を憂鬱な気分で聞いていた。
これから着陸するまでは、何度経験しても慣れることのない、マリアにとって
一番嫌いな時間だ。
『人工衛星は全て沈黙。同時に地上からの監視も遮断しました。大気圏に突入し
ます』
マリアは、ぐっと奥歯を噛みしめた。