#4272/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/12/24 1:13 (200)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(02) 悠歩
★内容
彼女がアルバイトをして家計を助けているらしい、と言う話は愛美と同じ一階
に住む老婦人から聞いた覚えがあるが………
まさか中学生の娘を、深夜まで働かせているのだろうか?
その時また、冷たい風が通り過ぎ、駿の思考を中断させた。
「ううっ、さむ。人様の家の事情なんて、考えてる場合じゃないな」
駿は急いで階段を上がってすぐの部屋、201号室に入って行った。
「ただいま、お父さん」
帰宅した愛美を迎えたのは、テレビの音だけだった。明かりがついていたので、
まだ起きているのかと思った父は、服を着たまま布団の上で大の字になって寝て
いる。
持っていた酒瓶を狭いキッチンの上に置き、部屋の中を見る。
テーブルの上には空になった一升瓶、食べ散らかしたつまみと袋が散乱してい
る。ガスストーブも着いたままなので、室内は暖かかった。
「もう、ストーブを着けたまま寝たら、危ないって言ってるのに」
思った通り、ストーブに近い場所の布団の端が熱を持っていた。愛美はストー
ブを消し、父に布団を掛けてやる。そしてテレビも消す。
本当なら、すぐに横になって休みたいほど疲れた身体に鞭を打ち、散らかった
テーブルの上を片づける。
「また、ご飯食べてない」
アルバイトに出かける前に炊いたご飯にも、みそ汁にも箸をつけたあとはない。
愛美が無理にでも食べさせなければ、父はお酒とわずかなつまみ以外は口にしな
い。
「ご飯とおみそ汁は、明日の朝食べてもらおう………」
ごそ、と音がしたかと思うと、父がむくりと起き出した。
「おう、愛美か」
ぼりぼりと頭を掻きながら、父は立ち上がり、ふらふらと歩み寄って来る。
「酒、酒はないのか………おっ、あるじゃないか」
目敏く、キッチンに置かれた紙袋に気づいた父は、それに手を伸ばそうとする。
「お父さん、飲み過ぎよ。また、身体を悪くしちゃう」
その手を止めようとした愛美だったが、ぱんと頬を一つ叩かれ、よろめいてし
まう。
「うるせい、ったく…ごちゃごちゃと。文句を言う暇があったら、とっとと、つ
まみの用意でもしろ」
一升瓶を手にした父は、テーブルの前に胡座をかき、愛美が片づけようとして
いた湯呑みに酒をつぐ。なみなみと注いだ酒を口元に運び、一気に呷る。
「ぷっ、なんだこりゃ」
不味そうに顔をしかめながらも、更に湯呑みへ新しい酒を注ぐ。
「また燗冷まし(一度お燗にして冷めた酒)か。たまにゃあ、もっといい酒をも
ってきやがれ」
不機嫌そうな父の視線が、愛美を睨んだ。
「だって………それだって、店のおばさんが厚意でくれたものなのに」
「けっ、何が『厚意』だ。中学生の娘を働かせておいて、こんな不味い酒でごま
かすつもりかあ? あのはばあめ。『この店じゃ、中学生を働かせているぞ』っ
て、街中にふれ廻ってやる」
「やめてよ、お父さん! そんなことしたら、私、あそこで働けなくなっちゃう。
そうしたら私たち、ご飯も食べられなくなっちゃうし、お父さんの病院代だって
………」
「この、クソガキが!!」
「きゃっ!」
突然投げつけられた湯呑みが、頭をかすめて行った。湯呑みは布団の上に落ち、
割れはしなかったものの、中の酒が派手に撒き散らかれた。
「誰がお前に、面倒を見てくれと頼んだ? この、偉そうにぬかしやがって」
尻餅をついている愛美の前に、湯呑みを投げただけではまだ収まりのつかない
父が、拳を握りしめ、仁王立ちになった。
「だらだら文句を垂れるくらいなら、さっさとここを出て、雪乃のところでもナ
ンでも行っちまえ。そうしたら、俺もせいせいする!」
もの凄い剣幕で怒鳴り声を上げる父。いまにも振り下ろされそうな、その拳。
愛美は涙を浮かべた瞳で、父の顔を見つめた。
「ごめんなさい、お父さん………私、そんなつもりじゃなかったの。私、お父さ
んと一緒にいたいの………だから、お願いします、ここに置いて下さい」
「ちっ、鬱陶しいガキだ」
拳を納めた父は、哀願する愛美を無視して、部屋の隅の小さなタンスを開けた。
中にあった茶封筒から三万円を引き抜くと、そのままズボンのポケットへねじ込
む。
「父さん、それは………」
これ以上父を怒らせないように、愛美は『今月分の家賃』という言葉を飲み込
んだ。
父は、擦り切れた革のジャンパーを羽織ると、そのまま部屋を出て行ってしま
った。
「お父さん………」
父親の出ていった後のドアをしばらく見つめていた愛美は、ふらふらと立ち上
がり、湯呑みを拾い上げてタオルを手に酒で濡れた布団を拭く。酒が中まで染み
込んだ布団は、いくら拭いても拭き取ることは出来ない。
ごしごしと、ごしごしと、何度も何度も愛美は拭いた。
せっかく拭いた布団の上に、愛美の流した涙がぽたぽたと落ちて、新しい染み
を作っていく。
手で涙を拭う愛美の目に、タンスの上の、一枚の写真が止まる。
仏壇代わりに、タンスの上に置かれた写真立て。もうこの世にはいない愛美の
母が、優しい笑みを浮かべ、こちらを見つめている。
三年前、愛美と父を残して死んでしまった母の、元気だった時間を閉じこめた
一枚の写真。
「お母さん」
愛美は両手で写真を取り、しっかりと胸に抱いた。
「ごめんなさい、お母さん。私、約束したのに………お父さんを、怒らせること
しか出来ない」
拭ったばかりの目にまた溜めきれなくなった涙が頬を伝って、後から後から、
こぼれていく。
真っ暗な部屋の中、外からのわずかな明かりを頼りに手探りでスイッチを押す。
室内に明かりが灯されると、風が入らぬようにドアを閉める。
冷えた空気が沈殿した部屋の中は、風の吹く外よりも寒く感じられる。
駿は電気ストーブのスイッチを800ワットに合わせた。
コンビニの袋を万年床の上に放り投げ、やかんを火に掛ける。パジャマ代わり
のスエットに着替えて万年床に腰を下ろし、テレビを深夜のスポーツ番組に合わ
せる。丁度、駿のひいきのプロ野球チームの監督解任に関するごたごたが報じら
れていた。
「なんだよ、また今年もこれかよ」
ストーブで掌を炙るようにして暖めると、舌打ちしながら、コンビニの袋から
カップラーメンとにぎりめしを出した。
にぎりめしの包みを開けようとして、思いとどまる。やはりにぎりめしは、ラ
ーメンの汁と一緒に食べた方が旨い。空腹ではあるが、多少の我慢は、ものをよ
り美味しく食べるための調味料だ。そんなことを考えているうちに、やかんが音
を立て、湯が沸いたことを告げる。
ずいぶんと遅い夕食を終えると、身体もすっかりと暖まった。
ごろんと布団の上で、大の字になる。
「明日から、どうするかなあ」
これまでのアルバイトは今日で終わりだった。明日からは他のアルバイトを予
定していたのだが、彼女と別れてからやる気も失せ、キャンセルしてしまった。
書きかけの小説を進めればいいのだろうが、いまは何も浮かんでこない。それ
より、才能もない自分が、いつもまでも金にならない小説にしがみついているこ
とが、ばかばかしく思えていた。
横になったまま手を伸ばし、脱ぎ捨てたシャツの胸ポケットから煙草を探り出
す。彼女が嫌がるので止めていた煙草も、また吸い始めていた。
一本だけ残っていた煙草を口にくわえると、箱を握りつぶしてくずかごへ投げ
る。中に入ったかどうかは、確認せずに。
「煙草、買いに行くかなあ………」
天井へ登っていく、白い煙を見つめながら呟く。寒空の下、もう一度外に出る
つもりはないのだが。
何を考えても答えは出ない。
何を思っても実行する気にはならない。
いつの間にか、テレビでは見知らぬ若手芸人らしい二人組が、訳の分からぬ番
組を進行していた。
だるい、とにかくだるい。
身体も心も疲れ、動くのも、考えるのも面倒くさい。
「もう、寝よう」
枕元のリモコンを取り、テレビを消す。明かりは蛍光灯のスイッチに結びつけ
た紐を引けば、起きあがらずに消灯することが出来た。
全ての明かりを消すと、急激に部屋が冷え込んで来たように感じられる。古い
アパートなので、暖房効率の悪いことは確かだが、それにしても寒すぎる。
「住み替えしようかなあ」
天井を見つめながら呟く。
風水だの、方角だのの占いを気にする質ではないが、ここに住むようになって
から一つもいいことなどなかった。
思い込みかも知れないが、このアパートに住む誰一人として、人並みの幸せを
送っているようには見えない。どの部屋の住人も、何やら訳ありの者ばかりに感
じられる。そのような者ばかりが集まって来る、負のエネルギーでも存在してい
るのか。あるいはそのような者ばかりが集まったから、負のエネルギーに満ちて
しまったのか。どちらにしろ、このアパートには、好ましくない力が働いている
ような気がする。
もう二十歳も過ぎているのだから、アルバイトで食い繋ぐような生活から抜け
出した方がいいのかも知れない。芽のでない小説など諦め、きちっとした職に就
き、もう少しましな所に住むようになれば、幸せな人生を送れるかも知れない。
そんなことを考えているうちに、ゆっくりと睡魔が駿の身体を支配していく。
あとほんの少しの時間で、完全にその支配下に落ち、心地の良い眠りの中に入っ
て行こうとする瞬間。
『み……か』
どこからか声が聞こえたような気がして、駿は瞼を開いた。
周囲を見回すが、一人暮らしの部屋に、他に人の姿があるはずもない。
「ちえっ、空耳かよ。疲れてるんだな………」
瞼を閉じて、再び微睡みに身を委せようとすると。
『みりか………みりか』
今度は明確に聞こえた。
子ども、男の子の声だ。何か酷く切羽詰まったような、響きが感じられる。
安普請の壁を隔てた隣の部屋から聞こえてくる。テレビの音声かとも思ったが、
そうではない。
あれは隣室に住む五、六歳の少年、良太の声に間違いない。美璃佳とは、その
妹の名前だ。
『みりか、みりか、だいじょうぶか………』
泣いているようにも聞こえる、妹の名を呼ぶ良太の声。寝言などではなさそう
だ。ただならぬ様子を察して、駿は部屋を飛び出した。
肌に突き刺さるような冷たい風が、微睡みかけていた頭を醒まさせる。それに
反して全身には鳥肌が立ち、皮膚が固まってしまったような気がする。
せめて何か羽織っておけば良かったと思うが、上着を取りに行く時間を考えれ
ば、このまま隣の部屋の様子を見た方が早い。
トントン。
深夜ということもあり、駿は遠慮がちに隣室、202号室のドアを叩いた。
「岡野さん、隣の藤井ですけど。何かありましたか? 岡野さあん」
声をひそめたつもりだが、他に音のない深夜のこと。駿は自分の声が、近所中
に響き渡っているように感じた。
ノックする手を止め、中からの返事を待つ。が、返事はない。
熟睡しているのか、あるいは留守なのか。
やはり気のせいだったのか。先ほどは確かに聞こえたと思った声に、自信がな
くなり、そろそろ自分の部屋へ戻ろうとした時。
ガチャ。
中から鍵を外す音がした。続いてノブが回り、そろそろとドアが開けられた。
同時に、不快な匂いが漂って来た。何かの腐臭のような。
「お兄ちゃん………」
いまにも泣き出しそうな目をしたした男の子、良太が顔を出し、駿を見上げた。
冬場だと言うのに、なぜか半袖のTシャツを着ている。パジャマ代わりとして
も、あまりにも寒々しい。
その表情から、駿は先ほどの声が自分の空耳ではなかったことを確信する。何
か唯ならぬ事態があったのだろうと。
「良太くん、何かあったのかな。ママはいるの?」
隣室であるため、何度か良太たち兄妹と話はしているが、それ以外何年も子ど
もを相手にする機会はなかった。出来るだけ優しい声で話しているつもりだが、
自分でもどこかぎこちないと感じた。
「ママは、いない。美璃佳が……」
そう言うと、堪えていたのであろう涙が一粒、良太の頬を流れ落ちた。
それだけで充分だった。
「入るよ」
駿は急いで部屋に入り、蛍光灯のスイッチを探す。幸い、右左が逆では有るが
駿の部屋と造りは同じなので、すぐに明かりが灯される。
室内の様子が、明かりの下に照らし出されると、駿の眉は思わず歪められてし
まった。
『男やもめは蛆がわく』と言うが、駿の部屋でもこれほどは酷くない。