#4268/5495 長編
★タイトル (FJM ) 97/12/12 2:32 ( 47)
代償 第三部 26 リーベルG
★内容
26
4月も半ばだというのに、冬が逆戻りしたかのように、肌寒い風が吹き付ける
日だった。空は曇っていて、青空は少ししか見えない。だが、臼井香奈の心の中
は、常夏の太陽のように輝いていた。
如月ハウスでは、医師や職員たちは見送りに出てこない。別れは昨夜のパーテ
ィで済まされている。香奈は自分一人で歩いて出ていかなければならない。ここ
に心の一部を留めることはできない。常に前を向いている必要がある。これが如
月ハウスの最後の治療なのだ。
香奈は大きく息を吸って、如月ハウスの門をくぐった。
門の外で待っていた克也が、優しく微笑み、現実世界へ復帰してきた妹を暖か
く迎えた。
「おかえり。香奈」
「ありがとう、兄さん」
香奈は兄の身体をぎゅっと抱きしめると、周囲を見回した。
「由希さんは?」
「少し用事があって、如月先生に会いに行った。兄妹二人だけの方がいいだろう、
と言ってたよ」
「あゆみちゃんね」
「そうだ」
「あゆみちゃんなら大丈夫」香奈は確信を持って頷いた。「由希さんがいるんだ
から」
意識は外界に向けて開いてはいるものの、興味を持つべき対象が見あたらない、
というのが立川あゆみの心の状態だった。何かを探し求めているのに、それが何
なのかわからない。鉛筆を動かし続けているが、何も描き出せない。
「あゆみちゃん」
誰かが話しかけている。とても懐かしく、愛情の記憶と結びついた声だ。
「これを見て」
現実的な視界に何かが出現した。それは、ただちに心の視界に投影された。
今まで同じことが何百回となく繰り返されたが、それらはどれ一つとして、あ
ゆみの心に訴えかけることなく消えていった。だが、今度は違っていた。
子供を産んだことなどないはずなのに、それには母性本能を蘇らせるところが
あった。
自分が生み出したものだ。
一匹のネコを抱いた少女の絵。
唐突にあゆみの心を、様々な映像が貫いた。
この絵を仕上げなければ。
その思いが、何よりも強く心に浮かび上がった。
めぐみは絵筆とパレットを探して周囲を見回した。そして、そばに立っていた
人物に気付いた。
「由希先生」あゆみは不思議そうに言った。「どうしてここにいるの?」
由希は黙ってあゆみを抱きしめた。その瞳から涙があふれ出した。