#4244/5495 長編
★タイトル (FJM ) 97/12/12 2: 4 (199)
代償 第三部 2 リーベルG
★内容
2
真っ白な画用紙の上を、先の丸まった2Bの鉛筆がゆるやかな弧を描いていく。
見つめる者の願いも空しく、そこに意志はこめられていない。ただ漠然と与えら
れた筆記用具を遊ばせているだけで、創造の喜びや表現の素晴らしさや美の追究
心は一切感じられない。生み出すことを忘れた手が、画用紙の端から端まで鉛筆
を往復させているだけだった。
「しかし希望はあります」臨床心理学の権威、如月は断言した。「めぐみさんが
描くことを拒否しなかっただけでも。そう、確かに時間はかかるかもしれません。
ですが、めぐみさんが心の底から外界との絆を断ち切ろうとしているのでない以
上、いつかきっと元通りの笑顔が戻ってきます」
「お願いします、如月先生」由希は懇願した。「あの子の才能は、私なんかより
もずっと価値のある素晴らしいものなんです。ようやくその才能を生かす道が開
けたかもしれないというのに、このままでは悲しすぎます」
「大丈夫です。最善を尽くしますよ。それより由希さん、ひとつ約束してもらえ
ませんか?」
「え?」
「お話にあった、彼女の先輩だという生徒のことです。由希さんがその子を憎む
のは無理もないですし、憎むなとも言いません。ただ、早まった真似だけはしな
いでください。そんなことをしても、誰も喜びませんよ」
由希は珍しくうろたえた表情を見せた。
「私は別に……」
「隠しても無駄ですよ」如月はややきつい声で言った。「目から、激しい憎悪が
あふれています。あなたは一見すると、虫も殺せない優しい女性に見えますが、
内に秘めた行動力と度胸は、たいていの男性が遠く及ばないほどです。それがあ
なたの魅力でもあるのですがね」
「…………」
「しかし、もしめぐみさんが」如月はガラスの向こうのめぐみを指した。「今の
あなたを描くとしたら、その絵は『復讐の女神』というタイトルがふさわしいで
しょう。あなたの知性と行動力は、どちらか片方だけでも憎しみに向けられるに
は危険すぎます」
もう遅いんですよ、如月先生。由希は心の中でつぶやいた。それはすでに、私
の生の意味そのものになってしまっているんです。
由希の沈黙をどのようにとったのか、如月は話を変えた。
「めぐみさんの保護者の方たちには、ステーションホテルに部屋を用意しました。
あなたはどうしますか?なんなら、ここに泊まっていってもらっても構いません
よ」
「ありがとうございます。でも、学校に戻らなければならないので。お盆を過ぎ
ると、そろそろ新学期の準備もありますし」
「そうですか。香奈ちゃんに会っていきますか?」
「そうですね……」由希は少し迷った末に首を横に振った。「やっぱりやめてお
きます。めぐみちゃんのことを香奈ちゃんに隠す自信がありません。どうしても
顔に出てしまいます。せっかく順調に回復しているのに、余計な不安を与えない
方がいいでしょうから」
「今、お兄さんが面会していますが、由希さんのことは口にしないように言って
おきました」如月は由希の答えを予期していたように言った。「もちろん、めぐ
みさんのことも。あの二人を会わせるつもりもありません。どちらも、いじめが
原因で心を壊したのですから。もう一度、現実のつらい部分と対面させる必要は
ありませんからね」
「どうせ来るなら、由希さんも一緒に連れてくればよかったのに」
香奈は文句を言ったが、それでも嬉しそうに兄を見つめた。
「悪いな。由希さんも、いろいろ忙しいんだよ」
「新聞で見たけど、由希さんの学校の生徒がまた死んだんだって?」
「ああ、そうらしいな」
「苦労するわよね、由希さんも」
「全くだ」克也は心からの同意をこめて頷いた。「あの人の生き方は、いつも真
剣だ。何をするにしてもな。ときどき思うよ。もう少し楽に生きればいいのにな」
「それが由希さんの由希さんたるゆえんなのよ。手を抜くことができない人なの
よ。あたしを助けてくれたときだって、普通の人だったら絶対に耐えられなかっ
たと思うわ」
「確かにそうだ。だから、おれは一生を賭けてでも、あの人の力になる心に決め
たんだ」
「あたしも退院できたら、由希さんの力になるわ。たいしたことはできないかも
しれないけど」
その頃には、全て終わっているかもしれないな。妹の頭を優しく叩きながら、
克也は心の中でそうつぶやいていた。
「香奈ちゃんはどう?」
「元気だった。由希さんに会えないのを残念がっていたよ」
二人は克也の運転する車で如月ハウスから戻る途中だった。
「終わったら会いに行くわ」由希は窓の外から空を見つめた。「会う資格なんか
なくなっているかもしれないけどね」
「いつ実行するんだ?」
「お盆明けの19日が登校日なの。その次の日ね」
「反対するわけじゃないんだが、もう少し計画に余裕を持たせた方がいいんじゃ
ないか?」
「夏休み中にカタをつけたいのよ。たぶん、朝倉祐子は私のことに気づいている
わ。めぐちゃんが描いたもう一枚の絵。あれが破かれずになくなっていたという
ことは」
「由希さんの正体にか?」
「めぐちゃんの絵は上手すぎたわ」由希は唇を歪めた。「早晩、彼女はあの絵か
ら加代のことを思い出すでしょうね。それから少し調べれば、私の名字が母の旧
姓だということぐらいすぐにわかるわ」
「それは別に秘密でも何でもない」
「朝倉祐子は決してバカではないわ。トップクラスの成績を取っているのは、父
親の財産とは関係がないのよ。私は注意深く彼女の成績を調べたけど、実力があ
ることは間違いない。藤沢美奈代と天野志穂と私の関係に気付けば、次に狙われ
るのが自分だってことは、1+1で簡単に答えが出るわ」
「だからといって何ができる?」
「彼女を甘く見てはいけないわ」由希は警告するように克也を見た。「自己保存
能力に長けているというか、自分の敵を本能的に察知して、容赦なく葬り去るだ
けの狡猾さを備えているんだから。そのための力もある」
「とんでもない奴だ」
「ええ。その気になれば、先手を打って私を排除することぐらいやりかねない。
いえ、たぶん新学期になったら、早速そのために行動開始するでしょうね」
「まさか、そこまで……」
「実はここ数日、私の身辺を探っている人間がいるようなの」
克也は一瞬、ハンドルを握っていることも忘れて、まじまじと由希の顔を見た。
「何だと」
「前を見て。たぶん興信所の調査員あたりね。思ったより素早い反応だわ」
「笑い事じゃないぞ。監視されているのなら、ますます危険になるじゃないか。
こっちが行動を起こした途端に警察に通報されることだってあり得る」
「危険は承知の上よ。前の二人が一方的な虐殺だったとすれば、今度は戦争にな
るかもしれないわ」
「戦争はもう始まっているんじゃないのか?どこが誰に頼まれて調査をしている
のか、おれが調べて黙らせよう」
「いいから放っておいて。向こうに、こっちの行動は全て把握している、と思わ
せるのよ。安心感は油断を生むわ」
「しかし……危険だ」
「危険をともなわない戦争などないわ。ハイリスク・ハイリターンよ」
「たとえ勝ったとして」克也は目をそらした。「何が得られるんだ?」
由希は答えなかった。
もう夜だと言うのに、朝倉祐子は部屋の灯りも点けずに、机の上に広げた一枚
の絵を見つめ続けていた。大胆なタッチで描かれた水彩画である。猫を抱いた少
女が、全ての罪を許す女神のような微笑をたたえて、祐子を見つめかえしている。
何度となく、この絵を破ろうとし、その度に手が震えて成し得なかった。迷信
を信じる性格など持ち合わせていないが、二人の亡霊が埋め込まれた絵、という
非科学的な考えが理性の大半を吹き飛ばしていた。一人は過去の亡霊であり、一
人は現在の亡霊である。
「大菅……加代」
つぶやいたとき、軽やかな電子音が鳴り響き、祐子の瞑想にも似た思考を中断
させた。祐子はむしろほっとしたように、携帯電話を取り上げた。
「はい、もしもし?」
『榊です。遅くなって申しわけありません』
「本当に遅かったわね」祐子は声に意図的な苛立ちを混ぜた。「頼んでから一週
間も経っているわ。で、どうなの?」
『お嬢さんの推測は、ほとんど当たっていました。橋本由希は、大菅由希です。
橋本というのは彼女の母方の姓ですな』
「大菅加代が……」その名を口にするとき、祐子は寒気を感じた。「……死んだ
後、いなくなったとは思っていたけど。ほとんど気にも止めてなかったわ」
『妹が自殺した後、橋本由希はW大法学部を中退し、F女子大に入学しなおして
います。彼女の両親は早くに亡くなっていますが、二人の娘が十分な教育を受け
られるように、弁護士に信託財産の運用を任せてあったため、学費に困ることは
なかったようです。もちろん、学力面からもF女の入試を突破することなど、た
やすかったでしょうな。少なくとも不正入学をしたという形跡はありません』
「大学では何をやってたの?あの女は」
『教育学部に籍を置いていました』電話回線の向こうで、榊がガサガサと紙をめ
くる音が届いた。『ですが、同時にいろいろな学部に出入りしては、熱心に講義
を聴いていたり、研究活動に参加したりしてもいたようです。橋本由希の大学時
代の友人に訊いたのですが、バイトやサークル活動などには目もくれず、一日中
何かの講義に出ていたそうです』
「……」
『彼女が特に熱心だったのは、心理学の分野だったそうです。どちらかといえば
研究ではなく実践の方に興味を示していたとか。全国の精神科や療養所を何度も
見学したり、研修を受けたりしていたようです。単なる興味という言葉では説明
しがたいものがありますね』
「わかったわ」祐子は頷いた。「詳しくはレポートを送ってちょうだい。それじ
ゃあ」
祐子は通話を切った。
机の上の絵に視線を戻した途端、再び携帯電話が鳴った。
「はい?」
『榊です。まだ話が途中です』
「詳しいことはレポートで読むわ」今度の苛立ちは演技ではなかった。「料金は
明日振り込んでおくわ。他に何かあるの?」
『あります。重大なことです。お互いにとって』
「何なの?」
『お嬢さんの推測が正しければ、橋本由希の次の狙いはあなたですよ。わかって
いるとは思いますが』
「わかってるわよ。それがどうかした?」
『どう対処するおつもりです?』
「そっちの知ったことじゃ……」
『警察はあてにしても無駄です』祐子の言葉を遮って、榊のどこかおもしろがっ
ているような声が続いた。『前の二人は自殺と事故として、ほぼ片づいてしまっ
ていますからね。橋本由希と結びつけるような有力な物証でもない限り、動いて
はくれません。せいぜい、彼女を任意で同行して事情聴取するぐらいですな』
「……」
『では、お父さんに言って、何とかしてもらいますか?それも無理ですね。いく
らお父さんが財界に顔が広いといっても、できるのはせいぜい橋本由希をお嬢さ
んの学校から転任させるか、よくて教員資格を剥奪するぐらいなものです。彼女
の脅威は依然として残ることになる』
「……」
『どちらにせよ、そんなことをすれば、彼女も躊躇なく反撃に出るでしょうな。
あなたの過去にあったいくつかの出来事を、マスコミに漏らすか、インターネッ
トで公開するだけで、あなたにとっては大打撃となるでしょう?朝倉さんだって、
さすがにもみ消せない。真偽など関係なくね』
「私を脅迫しているの?」祐子は静かに訊いた。
『とんでもない。お嬢さんには、これからずっとうちのお得意さまになっていた
だこうと思っているんです。私はむしろ、お嬢さんに手を貸したいのですよ』
「一介の興信所が?」
『不景気なんでね。何でもやらないと食っていけない。それに、うちは警察関係
や裏の世界にもツテがある。役に立てると思いますがね。お嬢さんにしたって、
改めて別の人間に頼むより、すでに情報を入手しているうちに頼んだ方が時間も
金も節約できる』
祐子は躊躇した。が、それほど長い時間ではなかった。
「いいわ。そちらにお任せするわ。あの女を何とかしてちょうだい」
『そう言ってくださると思っていましたよ』
「言っておくけど」祐子は微笑すら浮かべていなかった。「そっちが何をしよう
と、私は一切関わらないから、そのつもりでお願いするわ。何か危ないことをや
って警察に捕まっても、私は関係を否定しますからね」
『もちろんです』
「それなら文句はないわ。それで?何か具体的な計画があるの?」
『ええ。あります』
榊は話し始めた。