#4243/5495 長編
★タイトル (FJM ) 97/12/12 2: 2 (177)
代償 第三部 1 リーベルG
★内容
1
電話の相手は、明朗な声で話す男だった。おそらく若くはないが、老齢という
には早すぎる。声に気後れが全く感じられないことから、どんな職業に就いてい
るにせよ、長い経験に基づくプロフェッショナルの自信と誇りを持っているに違
いない。善良な市民であれば、たとえ犯罪に縁がなくとも、刑事にいきなり電話
をかけるときには躊躇いが生じるものだが、この相手にはそれもない。つまり警
察関係の人間と話すのが初めてではないのだ。
「それであなたのお名前は?」
県警の大野川刑事は、とりあえず丁寧な口調でそう訊いた。片手で手帳を開き、
ボールペンを握っている。県警にかかってくる電話は全て録音され、必要であれ
ば逆探知も可能なのだが、有能な刑事がそうであるように、大野川刑事も自分の
手で書くことを好んでいた。
『記録に残したくないんですよ、大野川さん』
「……いいでしょう。で、何の情報を提供してくださるんですか?」
『できれば会ってお話したいのですがね。お互いにとって決して損な話ではあり
ませんよ。それは保証します』
「こちらも忙しい身でしてね……」
『わかっていますよ。星南高校の生徒さんの件でしょう?』
大野川の表情が変わった。
「なぜ、それを?」
『提供したい情報というのは、そのことなんです。ガセや悪戯なんかじゃない。
確かなネタですよ、大野川さん』
「あなたはどなたですか?」大野川は訊いた。
『お知りになりたければ、今夜11時に7丁目の<ナイト・チェス>という店に
一人で来てください。同僚の方を連れてきたり、おかしな罠をかけようとしたら
この話は終わりです。もちろんパトカーなんかに乗ってこないようにしてくださ
いよ。それから逆探は無駄ですよ。公衆電話ですから。では、11時に待ってま
すよ』
電話は切れた。大野川は舌打ちした。
それとなく聞き耳を立てていたらしい、隣に座る同僚の刑事が訊いた。
「何か、やばいことか?」
「いや、よくわからんが」大野川は肩をすくめた。「誰かがネタをくれるそうだ。
ガセかもしれんが……まあいい、行ってみるか」
「相手と会うのか?」
「ああ。ご指名だからな」
「おれも行こうか?それとも、近くで待機していてもいいが」
「大丈夫だ。とりあえず会ってみるだけだ。一人で来いと言ってるしな」
「課長には報告しとくか?」
「やめとくよ」大野川は笑った。「どうせ、また嫌みを言われるだけだ。お互い
顔を見たくもないしな。報告するのは、いい知らせだけにする」
同僚は同情をこめて頷いた。
<ナイト・チェス>は、薄暗い路地にあるバーだった。勤め帰りのサラリーマ
ンが、気軽に立ち寄るような場所ではない。店の方も、最初から一見の客を呼び
込むつもりなど皆無であるらしく、素っ気ない表札が出ているだけだった。
大野川は指定された時刻の30分前に、7丁目に着いていた。店の場所は確認
してあったから、少し離れた場所に車を停め、徒歩で店に向かう。「刑事の勘」
などと言う根拠のないものを全くあてにしていない大野川は、用心深く店の周囲
をぐるっと回ってみて、何か危険な兆候がないかどうかを探った。店の両隣は何
かのオフィスらしかったが、もちろんこの時間には灯りはついていない。道路の
反対側は倉庫が並んでいたが高いフェンスで遮られている。
時計の針が11時を指すと同時に、大野川は店のドアを開けた。
意外なことに、内部は静かなピアノ曲が流れ、落ち着いた雰囲気の漂う普通の
バーだった。決して高級ではないが、そこそこの値段で静かに飲ませることを目
的としているようだ。もちろんカラオケなどはないし、短いスカートの女の子も
いない。カウンターの中にいるバーテンダーも、きちんと服装を整えた初老の男
だった。
思わず立ちつくした大野川の横に、若い黒服が音もなく立った。丁寧に一礼す
ると、礼儀正しい口調で大野川に言う。
「大野川様でいらっしゃいますね?」質問ではなく確認だった。「お連れ様がお
待ちです」
大野川は頷くと、黒服の後に続いた。黒服はカウンターの横にあるドアを開け
ると中に大野川を導いた。
そこは狭い部屋だった。部屋の中央にチェステーブルが置かれていて、盤の上
には駒がきれいに並んでいる。サイドテーブルには、大野川が見たこともないよ
うな高級スコッチと、アイスバケット、グラス、それに数種類のチーズの並んだ
皿がある。
チェステーブルの向こうには、一人の男が座っていた。年齢はおそらく40代
後半で、頭はかなり薄くなっている。全体的に太り気味だが、脂肪がだぶつくぎ
りぎりのところでセーブしているらしい。愛想のいい笑顔で大野川を迎えている
が、目だけは笑っていなかった。
「ようこそ大野川さん」男は立ち上がらず、向かいの椅子を指し示した。「座っ
たままで失礼しますよ。見てのとおりのデブでして、立ち上がるのが億劫でね」
「電話をかけたのはあんただな」大野川は座りながら言った。「何か情報がある
って?」
「ええ、そうです。とりあえず一杯どうぞ。スコッチがお嫌いならば、何でも好
きなものを持ってこさせますよ」
「いや結構。車なんでね」大野川は手帳を取り出した。「話してもらおうか」
「その前にひとつ約束してもらいたいことがあるんですがね」
「何だ?」
「ここで話したことは、しばらくの間、刑事さんひとりの胸の中に収めておいて
もらいたいんです。上の人や同僚の刑事さんなんかに言わないように。訊かれた
ら、ガセだったと言ってもらえませんかね」
「どういうことだ?」
「お話しすればわかると思いますが、とりあえず約束してもらえませんか?でな
いと、こっちも話をするわけにはいかない」
大野川は手帳をぱたんと閉じると、男の目をじっと見つめた。男は少しもひる
まず、落ち着いた視線を返した。はったりや恫喝が通用する相手じゃなさそうだ、
と大野川は密かに考えた。
無言の戦いは数秒で終わった。
「いいだろう。何だかしらんが、とりあえずおれの胸に収めておこう。ただし、
凶悪犯罪に利するたぐいのことであれば、その限りではないぞ」
「もちろんです。約束してもらえますね?」
「約束しよう」
男は頷くと、手品師のような仕草で、どこからともなく一枚の白いカードを取
り出して大野川に渡した。それは一枚の名刺だった。
(有)サカキ・リサーチ
代表取締役 榊 浩一
住所はなく、電話番号と電子メールアドレスだけが書かれていた。
「サカキ・リサーチ」大野川は記憶の中から、その固有名詞を拾い出した。「耳
にしたことがあるな」
「それは光栄です」
「金さえ払えば、犯罪まがいのことまでやって、どんな情報でも手に入れるそう
だな。暴力団や総会屋にも顧客が多い」
「否定はしませんよ」
榊はそう言うと、タバコに火をつけた。禁煙して3週間目の大野川は顔をしか
めた。
「それで?」
「一週間前のことです」榊は話し始めた。「あるクライアントから、ある依頼が
入りましてね。以前にもご利用になったことはあるんだが、それほど頻繁にとい
うわけじゃない。本来のクライアントは、その父親の方なんです。おそらく、う
ちの番号を、こっそり盗み見たか何かしたんでしょうな。まあ、うちとしても、
入金さえしっかりしてれば、どこの誰だろうとお客様ですがね。
そのクライアントの依頼というのは、ある女性の素性を洗ってほしい、という
ものだったんです。かなり急いでいる様子で、他の仕事を断ってでもやってほし
い、キャンセル料を出してもいい、ってな具合でしてね」
榊はタバコをうまそうにふかし、ストレートのスコッチをうまそうに飲んだ。
肺や胃腸の健康に対する配慮など全く持ち合わせていないらしい。
「ターゲットの女性の名前は橋本由希」榊は大野川をじっと見た。「聞き覚えが
あると思いますがね」
「橋本由希?」大野川は驚いて訊き返した。「橋本先生のことか?星南高校の?」
「そう、その人です」
「誰が橋本先生の素性調査なんか頼んだんだ?」
「星南高校の生徒さんの一人ですよ」
「生徒?どういうことだ?橋本先生の弱みを握って、脅迫でもするつもりなのか、
その生徒は?2、3回話しただけだが、あの先生は生徒に絶大な人気があるし、
誰かに恨みを買うような人には見えなかったぞ」
「もちろん、そんなことじゃありませんよ。その生徒さんは、もっと深刻な理由
で調査を依頼してきたんです」
「というと?」
「かなり高い確率で」榊はタバコをもみ消した。「橋本由希が、私のクライアン
トに危害を加える可能性があるんです」
大野川は呆気にとられた。
「それだけじゃありません。5月に自殺した生徒と、ついこの間ヤクのやりすぎ
で死んだ生徒。あの二人を殺したのも、橋本由希だと言うんです」
こらえきれずに大野川は吹き出した。
「バカげて聞こえることはわかってますよ」榊は嘆息した。「私だって調査を開
始した時点じゃ、信じられなかったんですからね」
「今では信じている、と言うのか?」
「確信しています」
「それならば聞かせてもらおう」大野川は再び手帳を開くと、手早くめくって目
的のページを探し出した。「最初に死んだ藤沢美奈代。この子は自殺であること
は間違いないぞ。目撃者も大勢いる。確かに最後に話をしたのは橋本先生だが、
先生が藤沢美奈代を突き落としたのでないことは、他の先生たちがはっきりと証
言しているんだ」
「まあ飛び降りたのは彼女の意志だったかもしれません。輪姦されて写真やらビ
デオやらを学校中にばらまかれたんですから、動機も十分すぎるほどですしね。
ですが、そこまで彼女を追い込んだのは誰なんです?」
「わかっていない」大野川は渋々認めた。「だからといって、橋本先生がその犯
人だと言う根拠はなんだ?」
「それは後で話します。とりあえず次に行きましょうか」
「つい一週間前のことだな。天野志穂が覚醒剤の過剰摂取で発見された。そばに
落ちていた注射器から、通常の一回分の4倍から5倍の濃度だったことがわかっ
ている。ついていた指紋は天野志穂のものだった」
「加えて言うならば」榊が落ち着いた声で続けた。「首にも注射の痕が発見され
ていますね。彼女が打ったシャブは少し変わった配合だったそうで。最近市場に
出回り始めたばかりの新型。品薄で高価。いったい、一介の女子高生がどうやっ
て入手したんでしょうな?」
「天野志穂には男がいたんだ。これはクラスメイトから証言がとってある。その
男が手に入れて天野志穂に渡したんだろう」
「その男はどこの誰だったんです?」
「わかっていない」大野川はさすがにおもしろくなさそうに繰り返した。「お前、
警察をばかにするためにおれを呼んだのか?」
「いいえ、とんでもない。そういう謎の答えを知りたいだろうと思いましてね」
「お前が教えてくれるのか?」
「もちろん、ただでね」
「本当ならばありがたいが、それでお前に何の得があるんだ?」
「犯罪の通報は、善良な市民の義務ですよ」
「おもしろくない冗談だ」
「何が私の得になるのかは、話を聞いていただければわかってきますよ」
「じゃあ話せよ」
榊は話し始めた。