AWC 影斬り(中)    穂波恵美


        
#4167/5495 長編
★タイトル (PRN     )  97/11/ 2  15:25  (120)
影斬り(中)    穂波恵美
★内容
「兄様は、今日もお仕事か……」
 とっぷり日の暮れた空を見上げ、美鈴は一人呟いた。既に店も閉め、今は自分の部
屋から、兄が帰ってこないかと外を見ていたのだ。庭に面した美鈴の部屋からは、大
きな井戸と垣根、そして通りが見える。だが、星が瞬きはじめる時刻になっても、籐
悟は帰ってこなかった。
 仕事柄なかなか会えない籐悟を、美鈴は今でも慕っている。昔、兄が火付け盗賊改
め方に務めると言いだしたときは、猛烈に反対した。そんな危ない職に就かずとも、
兎屋を継いでくれればいいと願った。しかし、侍を父に持つ籐悟は、結局己の意志を
貫き通した。
「あの時は、とても嫌だったけれど……でも、兄様が盗賊改め方に入らなければ、あ
の方には会えなかった」
 言いさし、美鈴はふっと頬を緩ませた。
 脳裏に、物柔らかな笑顔が浮かぶ。四つ年上の筈なのだが、時々同い年くらいかと
錯覚してしまうほど幼い顔立ち。そして、なにより優しいその気性。
「小太郎様……」
 そっと名を呼び、頬を赤らめる。
「大事なお務めだから、人を斬ったりすることもあるらしいけど、あの方は勘定方だ
からそんなこともないし……」
 実に十歳近く歳の離れた籐悟は、父親の違う美鈴のことをかわいがってくれたし、
兄の務めも理解しているつもりだが、美鈴はどうしても人を斬るような兄は好きにな
れなかった。ついこの間も、良い剣が手には入ったと喜んでいたが、その剣は人を傷
つけるものだと考えると、白刃の美しさよりも、恐ろしさが先に立ってしまう。小太
郎に惹かれたのは、彼が人を斬る職務についていないというのも、一因かもしれない
。
「いつか、小太郎様の奥方様になりたいなんて……大それた願いかしら?」
 そろそろ縁談が、あちこちから起こりはじめている。両親は、比較的美鈴を自由に
させてくれているが、いざとなったらどこの商家に嫁がされるか分からない。今日も
縁談話が持ち上がりそうになったのを、必死で断ったのだ。
「もう、兄様に相談しようと思ってるのに」
 頬づえをついて、美鈴は小さく息を吐く。髪に挿した珠飾りは、兄が、小太郎の好
きな色だと昨日買ってきてくれたものだった。今のところ、相談相手になってくれる
のは籐悟しかいない。だが、その籐悟は仕事が忙しく、滅多に家でゆっくりしている
ことはないのだ。
「でも、しょうがないわね。前に家にいらしたときは、仲の良かった柳様が亡くなら
れて……しばらく気落ちしてご飯も召し上がらなかったもの」
 憔悴した横顔を思いだし、美鈴はわずかに身を震わせた。あの時は、母親が大変心
配し、高名な薬師を迎えた土岐備前之守の屋敷に薬の調合を頼みに行こうなどと言い
だし、家族を慌てさせた。
「あんな兄様、初めて見たわ。でも最近ようやく笑われるようにもなったし、ご飯も
召し上がるし、そろそろ相談しても、大丈夫かしら」
 恋する乙女特有の、かなり自分勝手な独り言を呟きながら、美鈴は星を見つめてい
た。彼女の髪に挿した萌葱色の珠飾りが、地上の小さな満月のようにひっそりと光っ
ていた。


 その頃、美しい星空を見ることもなく、水無月小太郎は部屋に籠もっていた。蝋燭
の明かりが、少年じみた横顔を照らしている。眉がぎゅっと寄せられ、まるで苦痛を
堪えるような表情だ。
「すまぬ」
 小太郎の向かいに座っていた男が、低く呟いた。
 四十を過ぎたばかりだろうか、頬骨の浮いた、鋭い目つきの男である。がっしりと
した体格で、腰に差した太刀を手に取れば、相当な使い手であろうことが想像できた
。男の名は、平塚如水斎。火付け盗賊改め方、現在その頂点に立つ男である。
「しかし、これを公にしては……」
「はい。分かっております」
 小太郎は、しっかりと頷いた。苦痛の影は残っていたが、それでも声に迷いは存在
しない。
「それでは、頼む」
「はい。お任せ下さい」
 平塚は、すっと立ち上がった。
「決行は、いつ?」
「はい。明日の晩……」
 小太郎の答えに、平塚が頷く。障子が開き、そして閉じた。小太郎は、揺れる蝋燭
の光を疎ましそうに見やる。溶けたろうに、一匹の虫の死骸が埋まっていた。
「自ら、火に飛び込んだか……」
 哀れとも、愚かとも言わず、小太郎は蝋燭の炎を吹き消した。あたりに闇の帳が落
ちる。その中で、小太郎の両眼だけが獣のように光っていた。


「小太郎様、聞いていらっしゃいますか?」
 不意に少女の声がして、小太郎はハッと我に返った。今は、昼。今日も弁当を届け
てくれた美鈴が、内容の説明をしていたのである。
「どうかなさったのですか? 何だか元気がないご様子ですが……」
「いえ、すみません。ちょっとぼんやりしてしまって」
「お体の具合でも?」
「いえ、本当になんでもないのです」
 首を振ると、美鈴はまだ心配そうな顔をしていたが、それ以上追求することはなか
った。
「そうですか、それなら良いのですけど」
 美鈴の髪に昨日と同じ珠飾りが光っている。それを目に留めた小太郎は、話題を変
えようと口に出す。
「美鈴殿は、その髪飾りを気に入っておられるのですか?」
 とたんに、美鈴の表情がぱっと明るくなった。ほんのり頬を染めて、嬉しそうに頷
く。
「はい、好きなんです。ちょっと変わってる色ですし……小太郎様は、どう思われま
すか?」
「とても綺麗な珠ですね、私も萌葱色が好きなんですよ」
 偶然ですね、と小太郎は微笑した。
「は、はい!」
 何故か真っ赤になって、美鈴が大きく首を振る。
「兄が、買ってきてくれたんです。一昨日、良い色だからって」
「……へえ、高遠殿が」
「はい。だから、特に気に入ってるんです」
「美鈴殿は、高遠殿のことがお好きなんですね」
「それは、まあ。やっぱり、血のつながった、唯一人の兄ですし」
 でも、と美鈴は眉根を寄せた。
「お仕事をしている兄は、あんまり好きじゃないんです。……確かに、大事なお務め
ですから、命を懸けなきゃいけないのかもしれませんが、誰かを斬ったり斬られたり
というのは、嫌です。時々、兄の身体から血の臭いがして……すごく気持ち悪くなる
んです」
 気持ち悪い、と言うよりむしろ、辛そうな顔をして美鈴は言う。
「私が子供なのかもしれませんが、どうしてもそういう時の兄には、近寄れません」
 俯いてこぼす少女の姿に、小太郎は、暖かく苦しいものが胸に満ちてくるのを感じ
た。
「美鈴殿は、本当に優しいんですね」
「え?」
 唐突な台詞に戸惑ったのか、美鈴は驚いたように目を見開いている。
「高遠殿が、傷つけられることだけではなく、誰かを傷つけることまで心配している
のでしょう?」
「心配だなんて、そんな」
 真っ赤になって手を振る美鈴に、小太郎は低い声音で問いかけた。
「ところで、最近血の臭いは大丈夫ですか?」
「え、ええ。あ、そういえば……この間ちょっと」
 美鈴は、小首を傾げてトントンと爪先で地面を蹴った。
「兄からじゃなくて、庭の方からした気が……変ね、鶏でもしめたのかしら」
 考え込みだした美鈴に、小太郎は笑顔を作る。
「そうかもしれませんね。気分の方は、大丈夫でしたか?」
「は、はい……ちょっとだけ、でしたから」
 上目使いに小太郎を見上げ、美鈴は嬉しそうにそう言った。





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