AWC 影斬り(上)   穂波恵美


        
#4166/5495 長編
★タイトル (PRN     )  97/11/ 2  15:23  (195)
影斬り(上)   穂波恵美
★内容
 霧雨の降る夜だった。
 そまつな百姓小屋の裏口から、一人の男がこっそりと出てくる。歳の頃は三十前後
だろうか、どこか怯えた目つきで辺りを見回している。髷を結い、腰に大小を差して
いるところから、侍と見て取れた。
 男は、不自然に膨らんだ懐をしっかりと押さえ、笠を目深にかぶる。足早に松林の
小道へと進む。時々立ち止まり、後ろを振り返る表情は、膨らんだ懐を見るときのも
のとは対照的だ。提灯を手にしているのだが、何故か覆いをかけて明かりを通さない
ようにしている。覆いをかけられた提灯の明かりは、酷く範囲が狭くぼんやりとして
いる。星も月もない闇夜にも関わらず、男は提灯の覆いを取ろうとはしない。それで
も小走りにぬかるみはじめた道を進むことが出来るのは、男が夜目が利くと言うより
平坦な道であるからだろう。
 松林の中程までさしかかり、振り返っても家屋敷は見えないところまで来て、よう
やく男は足を止めた。提灯を地面に置き、懐から縮緬の包みを取り出す。震える手で
そっと包みを開く。
 雨粒を、黄金の輝きが弾いた。
「五十両……これだけあれば」
 小判を両手で頬に押し当て、男はほおっと息を吐いた。微笑が唇の端から顔全体に
広がっていく。醜いまでの笑顔だった。
「それが、柳同心を殺した金か?」
 闇の中から、突如声がした。
「な、誰だ!?」
 男は慌てて誰何の声をあげる。しかし、怯えの響きが入っていたことは否めない。
「影斬り……と言えば、分かるであろう」
「影斬り? まさか、あれは噂話、そんな者は存在しないはずだ!」
「笠木原……火付け盗賊改め方にいながら、その情報を余所に売り、気付いた柳同心
を毒殺した罪、軽くはない……天に代わって、成敗いたす」
 笠木原と呼ばれた男の顔から、見る間に生気が抜けていく。青ざめた顔色は、何よ
りも闇の言葉を肯定していた。
「影斬りの名をかたり、我が名を汚すとは! そのような暴言、許されるはずがない
ぞ!」
 男は、半ばひきつった声で叫んだ。
 闇が、人の形を纏って現れる。男は、小判をしまうべきか刀を抜くべきか躊躇した
が、結局小判を懐に押し込めた。しかし、その判断を次の刹那、心底後悔した。
「参る!」
 闇が、声と共に走り寄る。銀の光が、雨そのものを斬るように閃いた。男には、銘
刀氷雨を抜く間すらなかった。
 煙るような雨に、鮮血が舞った。
 半拍遅れて、男の身体がぐらりとよろめく。
 断末魔の声すらあげず絶命した男の身体を、雨にぬかるんだ道が柔らかく受け止め
た。


 それから三日、降り続いた雨もようやく降り止み、嘘のような上天気だった。
 抜けるような青空に、ぬかるんでいた道もすっかり乾いた頃、火付け盗賊改め方の
屋敷に明るい声が響いた。
「すみませーん、お弁当を届けに参りました」
 分厚い門扉の前に、一人の少女がいる。若草色の着物に、萌葱色のかんざしがよく
似合っている。肌は少々日に焼けているが、目鼻立ちの凛とした少女である。
 少女の名は高遠美鈴。本所の一角にある「兎亭」の看板娘である。「兎亭」は旨い
料理を庶民も料金で出すところから、なかなかに人気のある店だった。弁当は売り物
とはしていないのだが、美鈴とは父親の異なる兄の籐悟が盗賊改め方に務めているた
め、ここからの注文だけは時々受けていた。
 門番の男は、慣れた様子で美鈴に話しかけた。
「おや美鈴ちゃん、今日は兄上に御用かい?」
「いえ、今日は……」
 言いかけた美鈴の言葉を遮って、門番は笑いをこぼす。
「分かってるよ、小太郎だろ?」
「はい。注文いただいたので」
「毎日毎日美鈴ちゃんに来てもらえるなんて、幸せな奴だね」
 少女は、コロコロと笑って門番をぶつ真似をした。
「やだな、そんなんじゃないですよ。お仕事です」
 男は、美鈴の頬が紅くなったのに気付かない振りをして、少女を扉の内に入れてや
った。
「小太郎なら、相変わらず奥でそろばんを弾いてると思うよ」
「ありがとう!」
 門番を振り返った美鈴の髪で、萌葱色の珠がきらりと光った。
 男は、その背が庭の木立に紛れて見えなくなるまで目で追ったが、苦笑を頬のはし
にはりつけ呟いた。
「しかし、あんなそろばん小僧のどこがいいのかね」


 華の江戸とはよく言ったもの、華やかさの影には必ず闇が出来る。それは盗みであ
ったり殺しであったり、人と人との間に存在する歪みのようなものだった。
 歪みを生業とするものがいる限り、それを狩るべきものも存在する。そのなかでも
特に凶悪な犯罪を取り仕切る、火付け盗賊改め方は、最も危険で死と隣り合わせの職
務だった。
 しかし、火付け盗賊改め方に所属していても、必ずしも捕縛に参加するとは限らな
い。広い邸宅の一角、そこにはいつも鎮座しながら、そろばんを弾くものがいる。大
小を差していても、抜く機会はほとんどない彼らは「勘定方」と呼ばれる職務に就い
ている。
 現在の勘定方は、水無月小太郎という名の一人の少年だった。年齢は二十歳を超え
たばかり。青年と呼ぶべきなのかもしれないが、童顔に加え背も低いため、同心達の
中には「そろばん小僧」と小太郎を呼ぶ者もいる。
 今日も庭の見える位置に座って、小太郎はせっせとそろばんを弾いていた。若衆髷
に結い上げているせいもあるかもしれないが、ふっくらとした頬の線が彼をますます
幼く見せる。濃紺の袴が少々大きすぎるのも問題かもしれない。
 帳簿とにらみ合うようにしてそろばんを弾いていた小太郎の手が止まったのは、少
女の元気のいい声が原因だった。
「小太郎様! お弁当をお持ちしました」
 いつものように、やや上気した顔で美鈴が庭に立っていた。小太郎は慌てて立ち上
がり、縁側に足を踏み出す。
「あ、美鈴殿……かたじけない」
「いいえ、いつも兎亭のお弁当を頼んで下さっているんですから、これくらい当然で
す」
 にこにこ笑いながら、美鈴は風呂敷包みを差し出す。
「今日は、何かな?」
「はい、しそと梅干しのおむすび、それにいいアジが入ったので塩焼きにしました。
あとは青物のおひたしです。それから甘味に名物の白饅頭がついています」
「ほう、それは旨そうですね」
 風呂敷包みを受け取って、小太郎もまた微笑む。
「それでは、私は……」
 言いかけた美鈴の声に被さるように、若い男の声がした。
「何だ美鈴、私には弁当はないのか?」
「兄様!」
「高遠殿」
 美鈴が目を丸くする。いつ現れたのか、小太郎の斜め後ろに一人の男が立っていた
。眉が太く、きりりとした顔立ちで、どこか美鈴と似通っている。美鈴の兄、高遠籐
悟である。
「え、高遠殿の弁当がないのですか?」
 だったらこれを、と言おうとした小太郎の声を美鈴の叫びがかき消した。
「だって、兄様は、今日は見回りだから弁当はいらぬと!」
 顔を赤くして反論する妹に、籐悟は苦笑を浮かべた。
「冗談だよ、真に受けることもあるまい」
「兄様は冗談が下手なんです! 小太郎様が本気になさったじゃないですか」
「あ、いえその」
 口ごもる小太郎に目を留め、籐悟は素直に頭を下げた。
「いや分かった。私が悪かったよ。これで良いだろ、美鈴」     
  笑いを含んだ声で問いかけると、気の強い妹は不承不承首を縦に振る。
「私は昼餉(ひるげ)はもう外で済ませたんだ。小太郎殿、その弁当は君が食べてく
れ。でないと、私は美鈴に料理されてしまいそうだ」
「兄様!」
 睨む妹に、籐悟は大げさに身震いしてみせる。
「おお怖い……美鈴、そんな顔をしていると小太郎殿に嫌われるぞ」
「え?」
「あ、兄様っ!」
 小太郎が呟くのと、美鈴が顔を真っ赤にしたのはほぼ同時だった。
「も、もう。私、仕事がありますから帰ります。小太郎様、それではお仕事頑張って
下さい」
「兄には一言もなしか?」
「兄様は、小太郎様の邪魔をしないで下さいね!」
 そう言って真っ赤な舌を出すと、美鈴は庭を小走りに去っていく。陽射しに萌葱色
の珠飾りが光っていた。
「高遠殿、よいのですか?」
 遠慮がちな声に、籐悟は年下の同心を見やった。
「ん?」
「美鈴殿を、怒らせてしまって……」
 その神妙な表情に籐悟は思わず肩を震わせた。
「高遠殿?」
 不審な顔をして、小太郎が頭半分背の高い籐悟を見上げる。籐悟は、こみ上げてく
る笑いを押し殺して、何とか小太郎の方を向いた。
「いや、あれが怒ってるのはいつものことだ。我が妹ながら気が強くてな……手に負
えぬよ」
「そんな、美鈴殿はいつも優しいですよ」
 真顔で反論する小太郎に、籐悟は口元をほころばせる。
「妹にそう言ってやってくれ、きっと喜ぶ」
「は、はあ」
 台詞の意味がよく分からず首を捻る小太郎だったが、ふと表情を変えた。
「高遠殿、外回りのお役目であったあなたが、一体どうしてここにいらっしゃるので
すか?」
「……そうだな、伝えねばなるまい」
 低く呟いてから、籐悟もまた表情を改める。
「今日、私は三日前から行方のしれなくなっていた、笠木原殿の探索を命じられてい
た」
「笠木原殿の……」
「ああ、何かの探索でいなくなっているのかもしれぬと当初は考えられていたが、連
絡がなさすぎる。つい先月柳殿が病死してしまったし、改め方の剣客も数が少なくな
ってきているからな」
「それで、笠木原殿は?」
「見つかった。ただし、殺害されていた」
「え!?」
「隅田川の東、松林の中で……心の臓を一突きにされているのを、たまたま通りかか
った百姓が見つけたそうだ。平塚様が、笠木原殿と確認をとったらしい」
「そんな……」
「それで、今日の見回りは急遽取りやめ。午後から私もまた外に出るが……今度は笠
木原殿の探索ではない。殺害した者の、探索だ」
「そうですか」
 俯く小太郎の隣、籐悟はまっすぐに前を向いて呟くようにこぼした。
「私としては、あまり気乗りがしないのだがな」
「え?」
「死者にこのようなことを言うのは、気が引けるが……正直私は笠木原殿が信用でき
なかった。まえに盗人を捕縛しようとした際、彼は斬りかかってきた盗人に恐れをな
して逃げ出しかかった。臆病なのは仕方がないとしても、許し難いのはその際共にい
た柳殿を見捨てようとしたことだ」
 微かにため息をついて、籐悟は首を振る。
「たまたま共にいた柳殿が剣に優れていたために、盗人は捕らえられたが、そうでな
ければ盗人を取り逃がしただけでなく、彼は同心を見殺しにしたことなる」
「そのようなことが……」
「柳殿と呑んだときに聞いた話だ。彼は、酔っていても嘘を言うような男ではなかっ
た。それを聞いて以来、私はどうも彼が好きになれなくてな。笠木原殿が斬られた背
後には、彼に咎があったような気がするのだ……それこそ、影斬りにでもやられたの
やもしれない」
「かげきり?」
 小太郎が、問い返す。
「ああ、お前は最近入ったから知らぬか……ただの噂話だが、我が改め方の内部で、
表だって裁けない罪を犯した者を、闇から闇に葬り去る存在があるらしい。その任に
ついた者は、表には出ないため影の斬り人……影斬りと呼ばれているという話だ」
「影斬り……」
「笠木原殿は、影斬りにでも殺されるようなことをしたのではないだろうか?」
 小太郎は、答えない。籐悟も返答は期待していなかった。
「気にしないでくれ……蕎麦屋で呑んだ酒が、回っているのかもしれぬ。ただの、戯
れ言だ」
 苦笑の色を声音に滲ませ、籐悟は年若い同心の肩を叩くとその場を立ち去った。
 残された小太郎は、しばし黙って庭を見つめていた。死体が運ばれてきたのか、遠
くから人のざわめきが聞こえてきた。





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