#4101/5495 長編
★タイトル (HYN ) 97/ 8/20 11:48 (200)
駅(3) りりあん
★内容
駅(3)
りりあん
担任の言葉は当時の自分にとっては意外なものだった。
「ご両親とも一度相談してみるといい」
「はい、そうします」
僕は担任に一礼してきびすを返した。汗ばむように暖かい職員室を出て、放
課後の薄暗い廊下を歩く。冷たい窓ガラスの向こうから、クラブ活動に励む連
中のかけ声が聞こえる。
戻った教室には誰も残っていない。汚れたカバンを取り、教壇の上に投げ出
された鍵束をつかんだ。
僕の第一志望はユカと同じ私立高なんだ。
他の学校なんか受けたくない。
だが築15年2LDKの官舎に住み、一つ年下の弟とまだ小学生の妹がいる状
況では、それがわがままになることもわかっていた。
何も聞かなかったことにしよう。
ドアをロックしながらそう心に決めた。
今にしてみると、ずいぶん幼稚な考えだったと思う。いつまでたってもはっ
きりしない僕に業を煮やした担任が、直接両親に連絡を取って何もかも話して
しまったからだ。そして結局はかけもち受験する羽目になってしまった。
このことをユカに話すべきだろうか。数日間迷った末、黙っていることにし
た。
どうせ落ちるに決まっている。
カッコ悪いところは見せたくない。
要するに誠実さよりもくだらない見栄のほうを選んだのだ。
合格発表は県立のほうが先に行われた。構内の掲示板に張り出された受験番
号を見て、僕は茫然と立ちすくんだ。
ウソだろ……?
震える手でコートのポケットからくしゃくしゃの紙切れを引っぱり出す。
こんなことって、あるのか?
目をこすって何度もふたつを見比べる。
おんなじだ。うかったんだ……。
そのあと、どこをどう歩いたのかまるで覚えていない。気がつくと僕は小さ
な公園にあるブランコに座っていた。日はすでに落ちてしまい、木々の向こう
側から洩れてくる街灯の明かりが、敷地の中を頼りなく照らしている。
息を吸うたびに鼻の奥がツンとする。指が曲がらないほど手がかじかんでい
る。僕はうつむいて足元に広がる暗い陰を見た。
家では親父やお袋が僕の帰りを待ちわびているに違いない。合格したことを
話せばさぞ喜ぶだろう。なんせ県下一の進学校だし、私立に比べれば学費も安
い。わざわざ聞かずとも言われる台詞の見当はついていた。
だが僕にはユカとの約束がある。それを反故(ほご)にはできない。
唇を噛み、意を決して立ち上がる。
第一志望の発表は5日後に迫っていた。
過去あるいは未来の出来事について、「もし……だったら」と考えてみるの
はあまり意味のないことだ。人生はテレビゲームみたいに単純にできているわ
けではないのだから。こんな当たり前の事実を承知していても、僕は様々な「
仮定」を想像せずにはいられなかった。
結果のほうは、とりあえず最悪のケースはまぬがれたと言ってもいい。何も
知らず無邪気に喜ぶユカを眺めながら、僕は胸の中でひとつの言葉を繰り返し
ていた。
私立に行かせて欲しい。
なにがなんでも親父を説得しなければならなかった。ユカだけでなく僕自身の
ためにも。
しかしこの決意は「大人の壁」にぶちあたって簡単に打ち砕かれた。そのと
きのことは今でも記憶に生々しく残っている。話し合いは十分も経たないうち
に親子喧嘩となり、最後は親父の鉄拳で勝負がついたのだ。
僕はお袋の制止を振り切って家を飛び出すしかなかった。顔の左半分に拍動
する痛みを抱えたまま、自転車をめちゃくちゃに走らせた。3月になったばか
りの夜はまだ冷える。喘ぐように吐き出される息は白い。
途中、街灯の下に電話ボックスを見つけた。しばらく迷った末、それ以上ペ
ダルを踏むのをやめた。ガラスドアを思い切って開ける。素通しの密室で、い
くらか塗料のはげ落ちた緑色の塊と無言で向き合う。
おまえはなんて話すつもりなんだ?
どんなに言葉をつくしても、導き出された結論はユカを傷つける。M高を受験
したことだけでも彼女の耳に入れておくべきだった。
僕は膝を抱えてその場にへたりこんだ。どこかにある隙間から僅かな冷気が
忍び寄る。だがジャンパーさえ着ていなくても寒さは感じない。やがて目の奥
がじりじりと焼けるような気がして、思わずまぶたをきつく閉じた。すぐに唇
が震え始め、腫れ上がった頬を熱い筋が走る。どうしようもなく無力でちっぽ
けな自分がそこにいた。身体は大きくとも結局は親がいなければ生きていけず
、担任に「指導」「選別」される立場の子ども。
とにかくユカにきちんと説明して許しを請わなければならない。ゆっくりと
顔を上げ、後頭部をガラスにつけて深く息を吐き出した。蛍光灯の白い光がし
ょぼついた目を容赦なく突き刺す。だが視界の隅に歪んだ緑の物体をとらえた
とき、僕は声にならない叫びをあげて髪を両手で掻きむしった。
それからどのくらい時間が経ったのだろえか。ふいにガラスドアを叩く音が
した。振り返ると、ひとりの警官が腰をかがめて中を覗きこみ、唇をしきりに
動かしている。
「早く出てきなさい」
たぶんそう言ったのだと思う。少しよろけながらも立ち上がり、素直にドアを
開ける。
警官は眉間に皺を寄せて、僕を頭のてっぺんからつま先までじろりと見た。
よほどうさんくさかったのかも知れない。
「名前と住所は? ここで何してたんだ?」
人を見下すような問いには最初から答えるつもりはなかった。警官がポケット
から黒い手帳を取り出した瞬間、僕は渾身の力をこめて体当たりした。彼が勢
い良く仰向けにひっくり返るやいなや、放り出してあった自分の自転車に飛び
乗った。競輪選手にでもなったように激しくペダルを漕ぐ。後方から怒声らし
きものが追いかけてきたが、全く気にしないで振り切った。
歯を食いしばって人通りのない夜道わひたすら走り続ける。等間隔に置かれ
た街灯の光が尾を引いて滲む。左頬の痛みは風にあたったせいか多少やわらい
だ。やがて舗道が緩やかに下り始めると、明かりの数が急に少なくなった。ど
こへ向かっているのか自分でもわからない。かといって引き返すこともできず
転がり落ちるように進んでいく。僕の目の前には底知れない原始の闇が広がっ
ていた。
それから数日後。
ユカと僕は校舎の屋上で互いに向かい合った。ついさっきまで晴れていた空が
薄い灰白色の雲に覆われてゆく。日差しが次第に陰るにつれ、風が少し強くな
った。
「仕方ないよね……」
いつもならうっすらと色づいている頬は心なしか青白い。
「だけど、直人から直接聞きたかった」
鼻にかかった苦しげな声が言う。息ができなくなるほど胸の内側が締めあげら
れる。結局僕は自分の口から何もかも話すことができなかった。うじうじと悩
み続けている間に、おしゃべりな級友が彼女に事実をぶちまけてしまったから
だ。
ユカは僕に背中を見せて白い塗装が施された手すりにゆっくりと近づいた。
大きな襟が揺れ、ひだスカートは空気をはらんで深呼吸している。
「ごめん、どうしても話せなくて……」
後ろ姿に向かって低く呟き天を仰ぐ。いいわけも謝罪もみんな無意味だった。
たとえ僕ひとりの力では抵抗しきれなかったとしても、約束を破ったことに変
わりがないのだ。それに自分から説明しようという勇気や誠実さにも欠けてい
た。悪者にはなりたくない。そんな姑息(こそく)な考えが意識せずともどこ
かにあったのだと思う。
「直人……」
穏やかな声が僕を呼んだ。互いに顔を見合わせ、そして視線を絡ませる。ユカ
の潤んだ瞳にはどんな自分が映っているのだろう。
「あんなこと、言わなきゃよかった」
彼女の言葉が何を指しているのかすぐにわかった。なじられるのは覚悟してい
たとは言え、実際面と向かって吐かれるとやはり辛い。ひとしきり吹きつける
風が妙に冷たく感じる。
「ごめんね……」
「えっ?」何故君がそんなこと言うんだ?
「私のせいで直人を苦しめたから」
それは違う、絶対に違う。叫びたいくらいなのに喉がつまって声が出ない。僕
は何度も首を横に振る程度のことしかできなかった。
「直人が悩んでたのに……、気づいてあげられなかった」
ユカは涙声でそう言うと、うつむいて両手で顔を覆った。震えている細い肩を
抱きしめてやりたい。僕は彼女に近づいて腕を回そうとした。
「……厭」くぐもった拒絶が胸を刺す。
「どうして……?」
「お互い、もっと、辛くなる……」
そうかもしれない。けれどもそう簡単に納得するわけにはいかなかった。これ
しきのことでユカを失うなんて嫌だ。
「別に外国に行くわけじゃないんだし」
無理矢理明るい声を出す。
そうさ、永遠の別れじゃないんだから。
「学校が違っても、会おうと思えばいつでも会えるだろ?」
我ながら皮肉な台詞だと思った。親父と殴りあってまで抵抗したのに、一週間
もたたないうちにそれをすっかり容認している自分がいた。腹立たしいという
より情けない。
「理屈はそうかもしれないけれど……、駄目になった先輩だっているもの」
ユカはハンカチで頬をしきりにふく。
「でも僕らは」
違うよ、と言いかけたとき、彼女はまっ赤になった目で僕を見た。その中には
拭いがたくこびりついた不信が巣くっている。自業自得という言葉が頭に浮か
ぶと、胸の奥で大事にしていたものが音わたてて砕け散った。恋の終わりとは
こういうものなのか……。
ユカが去り、僕はひとり屋上に取り残された。空は一段と暗さを増し、ちっ
ぽけな人間を見下ろしている。風はいつしか向かい側から吹くようになった。
どうして涙が出なかったのだろう。
その理由はいまだにわからない。
電車は僅かな横揺れを繰り返しながら走り続ける。ユカと僕は気まずい雰囲
気を引きずったまま、いくつかの駅を通り過ぎた。
立っている乗客はほとんどいなくなったせいか、反対側の窓がよく見える。
相変わらず水滴が斜めにくっついているが曇りはいくらかとれてきたようだ。
誰かが車両と車両の間にあるドアを開けたらしく、膝のあたりに空気の流れを
感じる。
大人げなかったな。
僕は声を荒げてしまったことを密かに恥じた。ユカにやつあたりしても、自分
自身の置かれた状況は何も変わりはしないのに。意識はせずとも、心のどこか
で閉塞感のはけ口を求めていたのだろうか。
「さっきは怒鳴ったりして……、ごめん」
そう言って、膝の上のリュックに目を落とした。ユカの顔を見る勇気はまだな
い。
「ううん、気にしないで」
そっけない答えだと感じるのは僕に罪悪感があるせいなのかも知れない。
予備校に通う人間の全てが、大学に行きたいと切実に願っているわけではな
いと思う。少なくとも僕はそうだった。将来何をしたいのかはっきりしていな
いのに、受験する大学や学部を決めるという芸当はできなかった。もちろん大
学生になってから先のことをゆっくり考えるという方法もある。実際このやり
方で入学した連中から見れば、僕みたいな奴は融通のきかない石頭ってことに
なるのだ。でも彼らはそれでむなしくならないのだろうか。興味のない授業に
時間を割き、単位のためだけにレポートを書く。そして青春という名のばか騒
ぎをへて就職戦線に飲みこまれ、気がつくと組織の中に全身が埋没している。
むろん全部が全部こうなるとは限らないだろうが、その流れに逆らって自分ら
しい生き方を探し出せる者は、ほんの一握りに過ぎないのではないか。僕も少
数派でいられる自信はないし、それよりも自分自身にこれ以上嘘はつきたくな
かった。
これから先、どうしていけばいいのだろう。
中学生のころはユカと同じ高校に入ることしか頭になかった。この目的があっ
たからこそ、成績も上がったし頑張れたのだ。だが幼い夢は現実に跳ね返され
て簡単に壊れてしまった。あのとき僕はユカだけでなく、他の何かをも一緒に
なくしてしまったのかも知れない。その証拠に、胸のぽっかりと開いた穴をふ
さぐ努力もせず、虚ろな気持ちのまま3年を送り、卒業してからは毎日儀式の
如く銀色の電車に乗っている。決してレールから外れることなく。
「ねぇ、直人」
突然ユカが肘で僕をつついた。
「雨が止んだみたい」
そう言われて僕は反対側の窓に目をやった。まだ相変わらず薄く曇っている。
肩越しに振り向いて後ろ側のそれを見たが、同じような状態だった。手で軽く
ガラスを拭く。指先が冷たく濡れる。溶けかかった氷に触れたらこんな感じが
するのだろう。
「はっきりしないな」
掌ほどの穴からは無数の歪んだ水滴と、灰色の建物らしきものが覗くだけだ。
「さっき日が差したと思ったんだけど……」
ユカが自信のなさそうな声を出す。僕は再び前を向いた。雨が降っても止んで
も、どちらでもかまわなかった。
つづく